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   ■「九・三〇事件」の歴史的教訓

  前進するインドネシア人民へのさらなる連帯強化に向けて
                  
                    国際部



 われわれは韓国やフィリピンの労働者人民との連帯実践を基軸にして、台湾や米国をも含めたアジア太平洋地域の労働者人民とのあいだでの反帝国際共同闘争の前進・強化を進めてきた。近年インドネシアにおける労農人民の運動の発展には目を見張るべきものがある。今後間違いなくアジアにおいてインドネシアにおける労農人民の運動との連帯実践も、韓国やフィリピンのそれと並び基軸の一つとなっていくだろう。
 それゆえ、今日あらためてインドネシア人民の闘争に対する見解を明らかにしていくことは、われわれにとって重要な課題になっている。とりわけ、一九六五年に発生した「九・三〇事件」によるインドネシア共産党(PKI)の壊滅という歴史的事態をどのように捉え、教訓とするのかは全世界の革命党・共産主義党にとって重要な問題であり続けている。そこで、この問題に関する今日におけるわれわれの基本的見解を以下に提示していくことにする。(なお、インドネシアにおける階級闘争、人民運動の現在的な展開状況およびそれに対する日本人民の連帯の課題に関しては、後に別途紹介する予定であり、ここでは割愛する)


 ●(1)はじめに

 インドネシアは国土面積一九一万平方キロメートル、人口二億五五〇〇万人、GDP八六一九億ドル(以上すべて二〇一五年統計)であり、同じ東南アジアにあるフィリピンの国土面積三〇万平方キロメートル、人口一億九八万人(二〇一六年)、GDP三〇四三億ドル(二〇一五年)と比べても分かるように東南アジア地域では大国といえる国である。
 インドネシアとフィリピンの置かれてきた状況や歴史的な革命運動においては多くの類似性がある。それゆえに、両国の革命党は類似の戦略、路線を有するであろうし、お互いの闘争から学びあうことができるであろう。また、それを通じて親密かつ強固な連帯関係を有していくだろうと思われる。そこで、その類似点等を見てゆく。
 インドネシアは一万八〇〇〇ともいわれる大小の島からなる広大な群島国であり、そこに少なくとも三〇〇以上の民族が暮らしている。フィリピンもまた七〇〇〇以上の島からなる多民族群島国家である。共に熱帯気候下にあるという点でも自然条件は極めて似通っている。
 さらに、インドネシアは長い間オランダ支配下にあり、フィリピンはスペインおよび米国の支配下の植民地国家であったという点、また一時期共に日帝の占領下にあったという点も共通している。
 加えて、強大な反動的国軍勢力の存在、それを背景にした過去のスハルトやマルコスのような長期独裁政権の存在等々においても似通った政治状況を有してきた。
 両国とも少なからぬイスラム教徒が存在しており、革命運動にとっては労農人民の階級的解放とイスラム人民の解放の結合が課題となり続けている点も共通している。ただし、フィリピンにおいてはイスラム教徒は少数派であるが、インドネシアは総人口の約88%がイスラム教徒であるという独自性、特殊性もある。
 また、革命運動の面からは、両国ともにインドネシア共産党(PKI)、フィリピン共産党(CPP)という強大な共産党が歴史的に存在していた(フィリピンにおいてはし続けている)ことも共通している。一時期において、PKIとCPPは共に中国と密接な関係にあり、とりわけ中国共産党、毛沢東路線に大きな影響を受けていたことがある。さらに、両国の現在の革命党においても、今日の中国との関係はさておき、毛沢東(思想)路線の影響は少なからぬものがあるといえる。
 以上のごとく、多くの点で共通した客観的、主体的条件を有する両国であるが、最近のインドネシアにおける都市部を中心とした資本主義的発展は、フィリピンよりもはるかにめざましく、急速度にこの国を覆いつくそうとしている。また、帝国主義諸国にとってその石油をはじめとした資源、消費市場としての魅力も巨大なものがある。それゆえに、インドネシアにおける資本主義的発展を根拠とする階級闘争の進展は不可避である。その過程においてはまた、一九六五年の「九・三〇事件」がもたらしたPKIの壊滅という血の歴史を乗り越えて、インドネシアにおける現代革命を領導すべき革命党・共産主義党を建設するという課題が、インドネシアの労農人民にとって早晩不可欠のものとなるであろう。
 インドネシアにおける革命党・共産主義党の再建にとって、避けて通れない不可欠の問題として、旧インドネシア共産党(PKI)の路線の敗北の総括、とりわけ「九・三〇事件」の総括があることは今日にあっても間違いない。それゆえ、基本的にはインドネシアにおいて建設されるべき革命党自身による総括を待つにしても、この件に関するわれわれの現在の見解を同志的見解提示として明らかにしておくことは、今後のインドネシア、さらには国際的な共産主義運動・革命運動の勝利のための論議にとって意義を有すると考えられる。


 ●(2)「九・三〇事件」、当時の内外情勢とPKI

 「九・三〇事件」とは一九六五年一〇月一日未明にウントン大佐ら親共産党系将兵により起こされた国軍(主として陸軍)に対する「クーデター的決起」であり、その結果として陸軍中枢の将軍ら七名が一夜にして殺害され、生き残った陸軍戦略予備軍司令官のスハルトがその直後から陸軍の指揮権を握ってすばやく決起を制圧し、その後PKI党員や大衆を大量虐殺し、スカルノを権力から引きずり落とし、自ら権力を掌握するに至った歴史的事件である。
 何十万人あるいは何百万人が犠牲となったといわれているが、その正確な犠牲者の数、実態は不明である。事件の歴史的解明のための事実そのものが、その後長期独裁政権を敷いたスハルトによって封じ込められたからである。インドネシアのすべてのメディアがこの出来事に触れることを禁じられてきたし、PKI関係者の多くは殺害された。スハルトたち自身もまた、この出来事について「すべてはPKIの陰謀的、反国家的クーデターによるものである」との公式見解、すなわちPKIにすべての責任を押しつける見解を発表した後、事実関係の究明を封じ込めたのである。
 この事件に関しては、語られ続けてきた多くの謎がある。それは次のようなものである。①事件の首謀者は本当にPKIなのか?、②スカルノ大統領は事件に関与していなかったのか?、③陸軍内の「将軍評議会」なるものは実在し、スカルノ体制転覆を計画していたのではないか?、④スハルトはなぜ他の将軍のように拉致されず、事態を素早く制圧しえたのか? 彼はあらかじめ起こるべきことを知っていたのか?、⑤中国共産党と毛沢東は事件と無関係だったのか?、⑥米帝とりわけCIAは事件の黒幕ではなかったのか?、等々である。
 事件から五〇年以上が経過した今も真実は闇に閉ざされている。そのなかで、客観的に見れば、当時の国内・国際情勢の中で、前記の者たちにはそれぞれに事件を起こすに足る明白な動機をもっていたと言いうることが、前述の問いが繰り返し投げかけられる原因となっている。
 また、事件の結果としてスカルノは失脚した。当時政権を掌握していない共産党の中では世界最大の勢力を誇ったPKIはその後の短期間に壊滅し、スハルトが実権を握り、以降の長期独裁政権の基盤を築くことになったという厳然たる事実がある。
 ちなみに日本共産党は、当時中国が米軍を世界各地に分散させ力をそぐためにアジア各国の共産党に武装闘争路線を押しつけており、自分たちはそれを拒否したがPKIはそれに従った結果として「決起」は失敗したのだという見解を明らかにしている。しかし、それは彼らのいわゆる自主独立路線を誇るという宣伝目的のためのものであり、結果としてスハルトのデマゴギー宣伝に手を貸すものであった。
 いまだ未解明の問題が多くある。しかしながら、この事件の基本的動因がPKIと国軍(陸軍)との対立にあり、どちらが先に攻撃を仕掛けたとしても不思議ではない緊張状況にあったということははっきりしている。また今日までの研究に踏まえれば、その関与の程度と範囲、主導的か受動的かはともかくとして、ウントン大佐らの「クーデター的決起」に対してPKI中枢あるいはその一部が何らかの関わりをもっていたこと、そして、PKIと国軍のそれぞれに対して中国あるいは米帝の少なくとも一定の関与があったということは間違いのないことであったろうと思われる。
 いずれにせよ、この事件の結果として生じたことは、第一にPKIの壊滅、第二に強大な権力を有していたスカルノ大統領の失脚、第三にスハルト長期独裁政権の始まり、第四に強力な反共連合組織体に成長していった東南アジア諸国連合(ASEAN)の誕生であった。
 次にインドネシアの歴史的な状況と事件当時の国際的・国内的状況を見ておこう。
 インドネシアにおいては、一七世紀初めにオランダがジャカルタを制圧して以降、徐々にその支配地を拡大していき、最後にアチェやバリを征服し、広大な植民地として支配し続けてきた。以降、オランダからの独立を目指すインドネシア民族運動のリーダーたちも投獄や流刑、殺害などにより運動の拡大を封殺されてきた。オランダによるインドネシア人民の民族独立運動の圧殺・弾圧はすさまじく、一九四二年の日本軍の侵略に際しても当初は人民からの大きな抵抗が見られなかったほどの圧殺の仕方であった。アメリカの対日輸出禁止ゆえの日本の侵略目的は明確に石油をはじめとした重要資源の獲得であったが、スカルノら民族運動のリーダーたちも反オランダ民族解放運動という観点から反オランダという一点で日本軍への協力を行っていたのである。その後、一九四五年八月一五日の日本軍の無条件降伏直後の八月一七日にスカルノ、ハッタの名においてインドネシアは独立を宣言した。
 インドネシアの独立を認めないオランダは、日本軍の撤退後に自国の軍隊を再上陸させ、植民地支配を再開した。これ以降、インドネシア民族主義者はオランダ政府とその支援者である米国が再植民地化を断念するまで四年間にわたってオランダ軍との戦闘を展開した。
 対オランダ武装闘争の中で共産主義者と国軍との対立が激化し、一九四八年に中部および東ジャワでの戦闘、いわゆるマディウン事件が発生する。スカルノとハッタが国軍に命じて数千人の共産主義者を殺害させた出来事である。このことでPKIは壊滅的打撃を受けた。この状況下、米国はPKIの壊滅的状況を見てインドネシアを共産主義化させることなく独立させうるのではないかと判断するに至るのである。最終的には冷戦構造の中での紛争の継続、民族独立運動の激化による東南アジアの共産化を恐れる米帝が介入し、オランダに圧力をかけ、一九四九年一二月に正式にインドネシアに主権を委譲させるに至った。
 次にPKI(インドネシア共産党)の略史であるが、PKIは一九二〇年にオランダ人スネフリートらの主導でアジア最初の共産党として創設された。植民地における共産主義運動は階級闘争よりも民族解放という目的の達成が急務であるとするコミンテルンの方針に従った民族ブルジョアジーとの共闘というものであった。
 PKIは当初順調に大衆基盤、党勢の拡大を続けたが、一九二六年に西ジャワ等において時期尚早ともいえる武装蜂起を起こし、国軍に粉砕された。その後、党は非合法に再建されたが日本軍政期の厳しい取り締まりによって再び壊滅状態となっていた。
 しかし、独立後の一九四五年一〇月に合法的に再建され、反オランダ独立戦争の一翼を担った。その過程で既述のマディウン事件でまたもや党は壊滅状態となったが、一九五〇年には早くもアイジットをはじめとした新たな若い指導部の下に再建された。
 一九五三年にアイジットが書記長となり、翌年三月の第五回党大会で新たな路線が採択された。それは、二〇年代のコミンテルンの方針に沿ってインドネシアを「半封建・半植民地」社会と規定し、労農同盟を基礎として民族ブルジョアジーをも含む民族統一戦線を形成し、真の独立を勝ち取っていくというものであった。
 アイジットはまた、一九五四年の第五回大会第四回中央委員会において「平和的道」を提起し、それ以降議会制を通じて平和的に権力を獲得してゆくという路線へと傾斜していった。こうした路線は当時のインドネシアの国家イデオロギーでもあった新植民地主義との闘争という点でスカルノ政権の方針とも合致したものでもあった。
 なおかつ一九六〇年以降はスカルノが、民族主義(Nasionalism)、宗教(Agama)、共産主義(Komunism)を三本柱とするナサコム(NASAKOM)体制を創りあげ、PKIを自らの政権下に組み込んで権力を維持していくという路線に転換していったために、PKIの主張は多くの国民に違和感なく受け入れられ、党勢は拡大していった。
 それと並行し、独立当初はPKIを敵視していたスカルノも、一九六〇年に入ると反帝・反植民地主義闘争の強化、新興勢力の結集と旧勢力・旧秩序の打破という急進路線をとるようになり、その結果としてスカルノと中国やPKIとの関係はますます緊密なものとなっていったのである。PKIの党勢は一九六五年には党員数三五〇万人にまで至った。スカルノも「スカルノ主義と共産主義は同じである」と述べたり、第四五回共産党創立記念大会(一九六五年)に出席し、共産党賛美の演説を行ったほどであった。
 中ソ対立が顕在化する以前には、ソ連共産党が国際共産主義運動における公認のリーダーであり、ソ連の国際路線とPKIの路線は一致するものであり、PKIは一九五〇年代にはソ連共産党と良好な関係を維持していた。PKIが明確に中国寄りの姿勢になったのは、一九六二年四月の第七回党大会においてアイジットが平和共存や軍縮よりも反帝闘争、新植民地主義との闘争が重要であると公然と主張してからである。そして、一九六三年に中ソ対立が公開論争となるころにはPKIはソ連共産党を現代修正主義として批判し、中国共産党が主張するアジア諸国における武装闘争路線を支持するようになっていた。中国もまた、PKIに対して強力な精神的・物質的支援を強めていた。
 さらに当時の国際的状況を見ておくと、一九六二年三月にアルジェリア戦争が終結し、仏軍が撤退。同年一〇月、キューバ危機で米ソの対立が全面戦争直前にまで至る。一九六三年七月には中ソ共産党会談で双方非難の応酬となり、中ソ対立が激化した。一九六三年五月、南ベトナムで仏教徒・市民の反ゴジンジェム政権デモが拡大。同月、アフリカ独立諸国首脳会議でアフリカ統一機構(OAU)憲章が調印され、植民地主義の一掃を決議。また、同年八月には南ベトナム全土に戒厳令が発令された。一九六四年五月、パレスチナ解放機構(PLO)設立。一九六五年一月、インドネシア国連脱退。同年二月、米軍による北ベトナム爆撃開始。五月、カンボジアが米国と国交断絶。一一月、中国文化大革命の開始、等々の出来事があった。
 このように当時の国際状況の特徴としては、米ソ冷戦の真っ只中にあったこと、全世界的に民族解放運動が発展していたこと、中ソの共産党間に民族解放―社会主義革命路線、世界革命運動路線をめぐっての大きな対立があったということ、米帝はベトナムにおける民族解放闘争、反米帝闘争に悩まされ、それらが共産主義と結びつくことを極めて恐れていたこと、等々の状況があった。とりわけ、インドネシアの状況に関しては、米帝はPKIの台頭およびスカルノ大統領の反植民地主義の強い立場、中国への急速な接近、PKIとの密接な関係を危惧していた。
 「九・三〇事件」はこのようなインドネシアを取り巻く国内・国際情勢を背景にして発生したのであった。

 
 ●(3)「九・三〇事件」およびPKI路線について

 以上、「九・三〇事件」をめぐる経緯や歴史状況を見てきたが、共産主義者にとって重要なことは、現在の状況下でインドネシア革命運動を領導する新たな革命党建設のためにも、「九・三〇事件」とその後のPKIの壊滅をどう主体的に捉えるかということである。そしてそれはひとりインドネシア共産主義者にとってのみならず、似通った条件を有するフィリピン共産党にとっては無論のこと、国際共産主義運動、世界革命勝利を目指す全世界の革命党・共産主義党、さらにはわれわれにとっても教訓とすべき重要な歴史的問題である。
 先に述べたように、「九・三〇事件」が引き起こされる動因には、国軍左派およびPKI指導者の一部に国軍右派(陸軍)がいつPKIに対する攻撃を仕掛けるかということへの具体的危惧が存在したことがあげられる。当時、スカルノ大統領の健康不安がささやかれ、PKI指導部もそれがもたらしうる政治情勢の流動について検討を始めたところであった。また、事件発生直前の八月初旬、訪中したアイジットらが毛沢東など中国共産党指導部とこの問題について意見交換を行ったことが中国の公文書の中に残されている。その後、事態は戦略的にも戦術的にもあまりにも未熟で拙速ともいえるウントン大佐らの決起へと至る。そこにPKIがどこまで関与したのかは不明であるが、いずれにせよ緊迫度を増す情勢のなかでPKI指導部が正しい方針と組織的準備を実践しえなかったことは確かであり、党として総括すべき問題は残る。この事件によって当時権力を握っていない党としては世界最大の規模を誇った共産主義党が極めて短期間で壊滅させられ、その後一九九八年のスハルト独裁政権の打倒まで、インドネシア人民とその解放運動がきわめて長期の抑圧と沈黙を強いられてきたがゆえに問題は深刻である。
 それゆえ、問題の第一は、党としての主体的な戦略・戦術の立て方の未熟さ、および、組織建設の弱さという点である。
 深く十分に練られた戦略・戦術の欠如は、一つには中国共産党への過度の依存、二つにはスカルノ政権への過度の依拠にも由来するのではないだろうか? なんといっても、現権力打倒のための具体的な戦略・戦術は、党独自の状況判断、十分な全党的準備、徹底した大衆的反権力闘争への依拠が基軸であり、外国の党や現権力への依拠や活用は第二義的要素とせねばならないのである。しかしながら、戦術面の総括については他国の党があれこれ言うべきでないとも思われる。
 また、組織建設面での問題点としては、各地での大衆的抵抗が国軍に容易に粉砕されたことやPKIの一部の指導部にしか事前の情報が熟知されていなかったといわれていることから、大衆運動において国軍に対抗しうるに十分な組織整備が必須であったという点、党組織建設面での軍事的準備をも含めた組織整備、および、集団的指導体制建設面での問題があったように思われる。急速に拡大した大衆運動組織および党組織においてそのような側面での整備・準備があれば、党勢力の巨大さから見ても、また、当時の中国からの軍事的支援実態からしても、十分に国軍勢力を打倒しうる実体はあったであろうと思われる。逆に、この側面での準備の欠落が、何十万人とも何百万人ともいわれる犠牲を伴ったPKIの壊滅という悲劇をもたらした最大の要因になった。
 第二には、第一の点と密接に関連しているが、軍と対抗しうるほどまで強力なものになっていた労農人民の運動に徹底して依拠することの弱さ、それゆえの党の主観主義的な問題の立て方、決定などである。やはり、国際・国内情勢の党による深く十分な分析を踏まえて党独自の戦略、路線を確立し、それにもとづいた戦術を編み出さねばならなかったのである。
 その時に、これはすべての革命党に言えることだが、敵階級の軍隊といかに対峙し、解体してゆくべきかということは、革命にとって第一級の重要課題なのである。無論、具体的にどうすべきかということは画一的には言えないが、はっきりしていることは、党の軍隊およびその行動だけでは敵階級の軍の解体は望みえないことであり、敵の軍をも揺るがすような労農人民の強力な反政権運動やゼネスト等と結合した党独自の部隊の行動を想定せねばならないということである。その点では、例えばフィリピン共産党の持久戦論、キューバや中国の敵軍を自国の領土へ引きずりこんでの持久戦による自国防衛論などは、正規軍同士の軍事決着という立て方よりも現実的・実践的な観点であろうと思われる。
 しかしながら、より重要な問題は、第一および第二の点にあるわけではない。どのようにすれば現在の権力とその軍隊を打倒し、自ら権力を打ち立てるのかといういわば戦略・戦術面については、後の世の者は結果解釈的に様々に述べることはできるであろう。
 より重要な、そして現在もすべての全世界の共産主義者が教訓とすべき第三の問題は、敵階級の権力あるいは軍隊を打倒した後、それに代わるいかなる権力を打ち立て、それをもっていかなる社会を建設していくのか、そしてそれはいかなる組織的手立てをもって準備されるべきなのかというという、いわば共産主義論、ソビエト(コミューン)建設論についてなのであり、まさにこの点にPKIの根本的弱点、歴史的限界性があったと考えられる。
 このように述べるとき、むろん問題は、綱領に何が書かれているのかというよりも、その実際の階級闘争指導の内にプロレタリア独裁、共産主義に向かう諸内容がどのように孕まれ、実践されているのかという点にある。ただし、一九六二年の第七回大会で改定・採択されたPKI綱領は、コミンテルン以来の二段階革命路線あるいはスターリン主義の誤りにも規定されて、当面する「人民民主政府」の政策については多くが語られているが、「社会主義」あるいは「共産主義」についてはその用語も含めて一言も述べられていないことがひとつの特徴になっていることも指摘しなければならない。
 当面する権力奪取やその権力の維持に焦点を絞った問題の立て方は、たとえ一旦は革命に勝利したとしてもついには挫折に至るという現実をわれわれは数多く見てきた。それぞれに色合いは異なれども、旧ソ連の解体、中国やベトナムの変質、ネパールや中南米諸国での革命の挫折等々である。PKIの挫折と壊滅もまた、このような観点からあらためて教訓とされなければならないであろう。PKIの場合、スカルノへの協力と依存を強めるなかで、結局のところナサコム体制に溶解し、共産主義を彼岸化し、ブルジョア民主主義を越える社会主義建設に向けた諸内容を最後までその実践の内に提示できなかったと言える。なお、数少ない例としてキューバにおける革命勝利後の歴史にはその課題を突破するための学ぶべきいくつかの教訓があることはわれわれがすでに提起し続けてきたことである。
 ここで全面的にわれわれの共産主義論を提起することは差し控えるが、これまでも述べてきたように、われわれは、共産主義とは資本主義社会の根底的変革実践であることを基本に、ブントの重要な党派性であり続けた現権力の実力打倒に向けた政治闘争、直接民主主義の組織化、階級形成に特別の重点を置いた階級的労働運動、共産主義は世界的なプロ独の樹立のもとにしか実現しえないという観点からのプロレタリア国際主義連帯実践、等々を組織し続けてきた。そのうえで今後のわれわれの共産主義論の深化のいくつかの重要な課題としては、徹底した直接民主主義論、地域人民権力に基盤を置き、それが政治的・社会的・財政的に大きな権限を持ちうること等の内容をはらんだ国家論、利潤追求の資本主義的価値観から抜本的に転換した人民の新たな価値観の形成等々の領域があるだろうと思われる。
 先に述べてきたように、前進するインドネシア人民の闘いは、早晩PKIの敗北を総括した新たな革命党・共産主義党の建設の問題を日程にのぼらせるであろう。われわれは搾取・抑圧・収奪に抗い、帝国主義の支配と闘うインドネシア人民との連帯をさらに強固に推進しつつ、インドネシアにおける革命党・共産主義党建設に関する動向を注視し、そして連帯していかねばならない。


 

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