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破壊される介護労働の現場から


 
 ●1章 崩壊する介護保険制度

 介護労働現場の劣化が著しい。今年二月、川崎市の有料老人ホームで入所者をベランダから投げ落とした容疑で介護労働者が逮捕された。二〇一三年十一月には千葉県袖ケ浦市の知的障害児入所施設で虐待による死亡、昨年六月には山口県下関市の知的障害者施設で虐待事件と、大きく報道される事件が続いている。こうした報道の背景で、利用者に対する虐待事件は各地で発生し、年々増加している。しかもこの数字は各地の自治体が虐待として認定したものに限られている。その調査は通常業務の合間で行われていることから、事業体が積極的に調査に協力しない限り虐待の把握に至らない。例えば前述の下関の事件など、映像つきの内部告発があったにもかかわらず一年間放置され、告発者がTV局に持ち込んでようやく発覚したものである。したがって、この数字は氷山の一角として理解すべきものである。さらに、明白な虐待事案に至らずとも、利用者の要望の放置、生活の制限などは介護現場には広く存在している。
 こうした事態の原因は個々の労働者や事業所の責にとどまるものではない。構造的な人手不足の問題があるのだ。まず、介護施設への人員配置基準が低すぎる。たとえば特別養護老人ホームでは、入所者三人に対して介護員一人とされている。この数字だけ見れば十分な数ではないかと誤解する向きもあるかもしれないが、いうまでもなくこれは二十四時間三百六十五日に対しての最低基準に過ぎない。労働者は一日八時間週四十時間の労働時間であるから、実際にはこの基準では入所者十二・六人に対して介護員一名となる。これでは介護が回らないので、昼間に介護員を重点的に配置することになる。こうなれば、夜間は一人で三十人とか、二人で五十人といった状態となる。これでは入所者の緊急コールにこたえられるわけがない。こうした問題を政策担当者に追及すると必ず「人員配置基準は最低基準。必要なら各事業所が人員を加配することは制限されていない」といったことを言い返してくる。しかし、最低基準以上に職員を加配しても報酬は利用者の人数が基準なので、基本的には増えないのである。複雑な加算等もあるが、より賃金が高い看護師などの専門職の配置を強化する、要介護度が高い利用者の割合を高めるといった条件が必要なため、結局加算を活用しても労働強度が軽くなることはない。
 さらに、介護保険の予算削減のため、二〇一五年四月には過去最大の介護報酬切り下げマイナス2・27%が実施された。サービス種別ごとにばらつきがあり、小規模のデイサービスでは一割以上の減収となっている。このため、二〇一五年度は介護事業所の倒産件数もまた、過去最大の七十六件となった。
 介護産業は労働集約型の産業である。技術革新で生産性が上がるような構造はない。したがって、減収は労働者の労働強化や賃金抑制に直結する。この結果、悪化した労働条件を嫌い、ある程度熟練した労働者は他産業や同業他社に転職していき、人手不足の介護現場と未熟練労働者が残される。未熟練労働者は十分な訓練をする余裕が現場にないため、職場に定着できず、やはり現場を去ってゆく。
 図1を見てほしい。勤続年数の全産業平均十一・九年に対し、ホームヘルパーで五・五年、施設介護員で五・六年と半分にも満たないのである。
 男性労働者ではさらに顕著で、男性ホームヘルパーの平均勤続年数は四年にも満たない! これは熟練労働者については労働市場全体の性差別により、男性のほうが転出先の職場を選びやすいこと、未熟練労働者については男性ジェンダーにどっぷりつかって暮らしていると家事の技術や感情労働の能力が女性に比べて発達しないため、介護現場に適応できず長続きしないためといったことが考えられる。こうして労働環境はさらに悪化する。こうした現状は多くの介護職場でありふれたものとなっている。こうした背景のもとで冒頭紹介したようなサービスの低下、虐待が発生しているのだ。
 またこのような状況は利用者だけに被害を与えるのではない。労働者にとっても、訓練不足の中での過重労働、サービス残業、パワーハラスメントなどが多発している。こうした問題は介護労働運動への相談事例に出てこないことはない。たとえばハラスメントの激しいある施設経営者はサービス残業の横行を開き直り、「職員が時間外に率先してボランティアをしてくれている」と言い放った。一方的なシフト削減や、雇い止めなど介護労働者をモノ扱いする事例も多い。もちろんこうしたことは残念ながら現在の雇用現場全体で発生していることではあるが、介護労働者をモノ扱いする経営者が利用者たちをどのような目で見るか、そしてそのような職場に慣らされていた労働者が利用者をどのように扱うか。おして知るべしである。

 ●2章 低介護度高齢者の排除

 このようにすでに現在介護保険をはじめとした公的福祉は崩壊寸前の状態といってよい。にもかかわらず政府はさらなる改悪を計画している。政府と与党のスローガンは「持続可能な社会保障構築とその安定財源確保」である。翻訳すれば、「高齢者と障害者にやる金はこれ以上ないから、足りない分は出さなくてもいいように制度のほうをいじくりますよ」といったところだ。狙われているのは、介護保険サービスから軽度者を排除することである。一口に軽度者といっても、判定の基準が身体能力に偏っているため、認知症などの状態によっては生活困難な人も多い。また、軽度者排除の前提が家族同居を想定しているため、一人暮らしの高齢者や、高齢夫婦のみの世帯などが必要な支援から排除されることになる。二〇一二年の時点で、一人暮らしの高齢者は五百万人近く、高齢夫婦のみで千二百万人以上、高齢者のいる世帯の半分以上はそのような状況にある。同居家族による自助に頼っての介護は不可能だ。
 すでに要支援1、2の人たちは予防給付から地域支援事業の新総合事業への移行(二〇一七年度末までに完全実施)が進められている。これは、これまで要支援の人たちでも受けることができた訪問介護(利用者の自宅にヘルパーが訪問して支援を実施)と通所介護(利用者が事業所を訪問して日中を過ごしたり、入浴したり、機能訓練をしたりするサービス、いわゆるデイサービス)を地域住民のボランティア組織など多様な担い手によって支えるという改革である。政府・地方行政の大義名分は団塊世代がこれから介護を必要とするようになる中で、担い手が足りないのでこの改革が必要であるというものである。
 ところで地域住民による介護のボランティア組織とやらは皆さんの周りにいくつくらい存在するであろうか? 全国的に見ればそんなものはほとんどないのである。ではどうするか? 今回の改革では結局ほとんどの担い手は既存の訪問介護事業所、通所介護事業所となる。それでは意味がないではないか? いや、意味はある。担い手もサービスも変わらないのに介護報酬が下がってしまうのである。改革前の予防給付の費用負担は保険料50%+国費25%+地方行政25%で構成されている。これが、地域支援事業(市町村が責任主体)に移行することによって、保険料50%+地方行政50%となり、国税投入がなくなる。そのうえ、この地域支援事業は介護保険財政の3%を上限とするとされているのだ。この段階で政府の負担はゼロになる。さて地方行政のほうはこれまでどおりの報酬でサービスを提供すると従前の二倍の負担となってしまう。当然、今度は地方行政の主導で報酬削減、サービス抑制の圧力が働く。政府は新総合事業の具体的内容は報酬額も含めて地方行政が自由に決めてよいとしているが、これは体の良い責任放棄である。一部の自治体は報酬を維持したり、積極的な事業展開をしていたりするが、大半の自治体は報酬削減に走っている。
 大阪市では従前報酬の七割、そのかわりヘルパー資格を問わないという形で導入されようとしている。大阪市はヘルパー資格を問わないことで今より労働者を確保できると主張しているが、現場から見ればこれは机上の空論である。図2によれば、介護職員の国家資格である介護福祉士のうち実際に介護業務に従事しているのは六割に過ぎない。残りの四割はなぜ介護労働に従事しないのか?
 もう一度、図1を見てみよう。ホームヘルパーや施設介護員の平均賃金は全産業平均より十万円以上安いのである。現状でもヘルパーはなかなか募集に応じてこない。次は図3を見ていただこう。図に表れているように、二〇〇四年以降失業率がどれだけ上がっても、介護産業の有効求人倍率が一を割り込んだことはない。この間のほとんどの期間全産業平均は買い手市場だったにもかかわらずである。原因は明らかだ。労働強度に賃金が見合っていないのである。こんな状況で報酬削減が行われれば、どうなるかは明らかだ。すでに事業所によっては生き残りをかけて要支援者切りが始まっている。経営と労働者、利用者のゼロサムゲームだ。
 このうえ、財務省からはさらに要介護1、2の排除、利用者負担の二割化(現状の二倍)、生活援助(調理、掃除、洗濯といった家事の部分へのホームヘルプサービス)の介護保険からの排除(すなわち現状の十倍の負担になる)、福祉用具支給の自己負担化といった改悪が矢継ぎ早に提案されている。実行しないなら全体の介護報酬をさらに削減するとの恫喝付である。これが全部実現されたら、まさに低福祉、高負担である。

 ●3章 一億総活躍プランを批判する

 こうした政策を一方で実行しながら、安倍政権は一億総活躍プランなるものをぶち上げている。その中身を少し見てみよう。新たな三本の矢(ところで前の矢はどこに飛んで行ったのであろうか?)は「戦後最大の名目GDP六百兆円」(経済)「希望出生率1・8」(少子化対策)「介護離職ゼロ」(介護)……らしい。一つ目については本稿の主要な課題ではないので軽く触っておくのにとどめておく。「成長戦略の加速」と「個人消費の喚起」を目的としてもろもろの政策を書いているが、まあはっきり言って新味がない。相も変わらずの規制緩和、TPP推進が基調である。GDPは多少は伸びるかも知れない。だがそれで日本社会の大多数を構成するプロレタリアートが幸せになれるかといえば話は別だ。これまでの政策で個人消費が伸びていないのに、この政策を継続して変化が起きるはずがない。成長分野の一つが残りの矢にも関係する健康・予防サービスらしいのだが、規制緩和とTPP推進でさらに貧困化する労働者階級にサービスを提供したところで、いったい誰が購入するというのか? 資産家だけを相手にしたら産業全体はむしろ今以上に縮小するだろう。ほかにも、住宅・リフォーム市場、サービス業、農林水産業、観光などとだらだら書き連ねているが、すべてプロレタリアートに分配を増やさなければ、最初から破綻するものばかりだ。せいぜい実現するのは国土強靭化と称する公共事業だけだろう。これだけは政府の意志だけで実現できる。
 さすがにそれは分かっているのか、賃上げが必要と謳ってはいる。計画によればその手段は残りの二本の矢と高齢者雇用の促進、非正規労働者の待遇改善と最低賃金の引き上げである。問題は美しい計画ではなく、実践である。非正規労働者の待遇改善と最賃引き上げをはじめに論じておこう。最賃は簡単だ。そもそも最賃レベルで働いている労働者は最低生活を実践できていないか、長時間労働でいつ過労死してもおかしくないかのどちらかだ。最賃を上げれば消費が伸びるのは間違いない。ただし、この層は生活に必要なものが足りていないから消費が伸びるのであって、美しい計画に謳うような成長分野とやらにはほとんど向かわないだろう。いわんやこの最低賃金の目標たるやたったの時給一千円である。法定労働時間で計算して総支給で二百万円を超える程度である。ここから社会保険料と税金を引かれて、どうやって住宅リフォームをするのだろう? 公的介護の自己負担が高すぎるから、正社員が離職してしまうのではなかったか? 本稿の前半で明らかにしたような公的介護の現状と改悪では、この層が最も必要とする介護サービスは、蜃気楼のように永遠にたどり着けないものになってしまう。非正規の待遇改善については、もはや何も言うまい。蛇足ながら付け加えれば、安倍政権に任せておけば逆に正社員の待遇低下のほうがよほどリアリティがある。
 高齢者雇用の促進自体は実現するだろう。年金を減らされ、介護負担が重くなれば、働かなければ生きていけないのだから当たり前だ。もちろんこの稼ぎが成長産業なんぞに回らないのは言うまでもない。

 ●4章 女性が輝く社会の真実―保育園不足問題

 希望出生率1・8の目玉は保育園の確保と保育労働者の待遇改善だ。ところで実は全国的には保育園の数は大きく減っているわけではない。現在問題になっているのは都市への若い世代の集中と、主要には非正規雇用への女性の動員によって、日本全体では少子化が進行しているにもかかわらず、大都市では保育園などの施設が不足するという事態になっているのだ。この事態は「女性が輝く」というスローガンのもとに女性を動員しておきながら、そのための社会政策を一切行ってこなかったことを改めて明らかにしている。ついこの間まで全国の地方行政は予算削減の中で保育園などの統合、民営化などを全国一律で進めてきた。そのため、前述の事態で大都市部において極端な保育園不足が発生したのだ。ここにきて大都市部ではこれまでとは真逆に保育園等の増設を打ち出している。かつて場当たり的な農政の変更を猫の目農政と称したが、これぞ猫の目保育といったところか。
 保育労働者の待遇改善も現状をかんがみると大変である。訪問介護労働者に比べれば正規職の割合が大きいが、保育労働者においても非正規率が年々上がってきている。そして保育士全体の賃金が低く、すでに述べた介護者並みである。政府の賃金改善目標は女性労働者の平均賃金めざしてわずか月額四万円(それでも介護労働者賃金改善一万円の四倍だが)である。しかも財源については安定財源確保というだけで実際には何も言っていないうえに、消費増税も当て込んでいたので、この四万円すら達成できないだろう。

 ●5章 介護離職ゼロ―大山鳴動して蚤一匹

 最後に介護離職ゼロである。介護労働者の賃金改善目標は「競合他産業(いったいどこのことだ? 女性平均か? ところで一番不足している現場介護員は月額二十二万円にも到達していないのですが!?)との差を埋める」月額一万円である。しかも、予算措置はない。政府は「キャリアアップ」の仕組みを活用してと言っている。要するに、今でも人材確保の困難に見舞われている介護現場に募集や初任者の賃金を削って、何とか現場に残っている職員にやっと一万円乗せろと言っているのだ。朝三暮四の故事に出てくるサルでもこれではだませないだろう。大体、二〇一五年の介護報酬切り下げの時も処遇改善を実施しますと言っていたが、ふたを開ければ、処遇改善はプラス1・65%だったものの、その他もろもろ切り下げられて過去最大の2・27%切り下げである。これは味噌汁に豚ばら肉を一切れ浮かべる代わりに食卓からごはんが消えたようなものだ。これで腹が膨れるか! その上この時の処遇改善の条件があれやこれやとつけられて、多くの介護労働者は一切れの豚ばら肉にすらありつけなかったのである。一事が万事この調子なのだ! いい加減連中の詐術に気づかなければならない。
 そのほか、介護職場の魅力を向上させるとか、生産性向上とか言っているが、そんなことは以前からずっと言っていたし、何の効果もなかったのは明らかだ。現状の介護現場への対策はこれにて終了。これで介護受け皿五十万人だって? 無茶を言うなという話だ。介護離職対策はほかに企業への介護休業の啓発だそうである。謹聴! 謹聴!
 ところで政府の諸君、企業任せにしてきた妊娠離職やマタニティハラスメントはどうなったかね? 一方で残業規制を取っ払おうとして、もう一方で介護休業では無理があるというものだ。行きつく先は今まで通りで、介護離職ゼロなど夢のまた夢だろう。介護離職をゼロにしたいのであれば、公的介護サービスの拡充と自己負担の低廉化のほかの政策などありえないだろう。
 唯一実現しそうな政策を指摘しないのは公平な態度とは言えまい。それは外国人労働者の活用である。ケアワークに外国人労働者を導入するのは新自由主義下の先進国では主要な流れになっている。全世界の極右がうらやむ差別的入管制度を維持する日本といえど、この流れに抗することはできないだろう。実際、制度・待遇改善をしないままに労働力を確保しようというなら、それでも働いてくれる労働者を導入するしかないのである。そのほかは健康寿命の延伸(そりゃ結構。ところでそのための政策は書いてないんですがね)と地域共生社会の実現である。言葉は美しいが、とどのつまり、「国では責任持たないから、自力で元気に長生きしてね。心配なら隣近所の人が勝手に支えてね」と言っていると読み替えるべきだろう。

 ●6章 実は一本の矢―「話のごちそう」に騙されるな

 さて、安倍政権の一億総活躍プランの総括といこう。
 基調は相も変わらずの新自由主義政策、必然的に労働者階級の貧困化と搾取者への追い銭渡しと相成るわけだが、そこを取り繕って保育・介護政策を打ち出すといったところか。いうまでもなく、すべてを市場化せんとする新自由主義(マーガレット・サッチャーの「社会などというものはない」という言葉、まさに金言である)と社会的に生み出された富の再分配手段の一つである福祉はおよそ両立するものではない。実際新自由主義は常に福祉政策を目の敵にしてきたし、今も攻撃の手をゆるめていないのは、本稿前半で明らかにした日本の状況から言っても明らかである。となれば、新三本の矢は互いに紐を結びつけた矢を反対方向に放つようなものだ。矢はよくて足元に落ちるだろう。貧富の格差の拡大を進めたままで、プロレタリアートに成長産業のサービスを購入させようとしたり、一方で非正規化・民営化を推進しながら、保育園の増設・保育士の賃金向上を謳う、そして公的介護の締め上げは遠慮会釈なくやっているのに介護離職ゼロ。このプランの文章は方向性の違う文言がちりばめられているし、その他の政策とも矛盾するものばかりだ。
 それではこのプランは何の成果も生まないのか? そんなことはない。二本目と三本目の矢にからくりがある。「希望出生率1・8」も「介護離職ゼロ」も具体的な政策の多くは予算投入を必要とするものだ。すでに述べてきたように残りの予算を必要としない政策のほとんどは効果を生まないであろうことは明らかだ。ところが、この予算を必要とする政策のうち、まともに投入したのは保育所増設の緊急対策くらいで、ほかは予算規模も財源もほとんど書かれてないのである。唯一財源として描いていた消費税はすでに選挙対策として増税再延期が決められた。では、法人税増税や累進課税再強化に踏み込むのか? それをやると今度は一本目の矢と矛盾することになってしまう。財源のない予算は言うまでもなく実行できない。二本目と三本目の矢は、翁長沖縄「県」知事が基地交付金の飴玉を指して語った「話くゎっちー(話のごちそう)」に過ぎないのではないだろうか。話のごちそうならいくらでもばらまけるし、新自由主義政策の邪魔にもならない。二本目、三本目の矢に書かれた政策も高齢者の動員や地域社会の動員、外国人労働者の活用など新自由主義に矛盾しないものだけが実現される。かくて私たちがきらびやかな二本目と三本目の矢に目を奪われているすきに、一本目の矢が深々と己が身に突き刺さってしまうのである。新三本の矢は実は新一本の矢である。残り二つは飾り羽に過ぎない。
 前の三本の矢ははっきり言って失敗しているが、安倍政権はこの結果が多くの人々に認識が広がる前に次の矢を放ってきた。よくある詐欺師の手法である。おそらく今回の新三本の矢も、同じようにごまかしをかけてくるだろう。これを許してはならない。すでに見てきたように新三本の矢は計画段階から矛盾だらけの代物だ。この中身の暴露をしていかなければならない。特に保育・介護の現場で働く労働者と保育・介護を必要とする子育て世代・介護世代・高齢者の組織化が重要である。これらの人々は矛盾を押し付けられることで生活に追われ、冷静に真贋を見分ける余裕を奪われている。そこに付け込んで話のごちそうを見せているのだ。
 組織し、団結を作らなければ連中にもっていかれてしまう。それは与党支持率がいまだに下がらないことからも明らかだ。一方で前出のこの層は矛盾にさらされているがゆえに変革の主体である。そもそも今回の新三本の矢は「保育園落ちた。日本死ね」というSNSのつぶやきから始まった子育て世代の自然発生性を落ち着かせるために作られたといってもいいだろう。飾り羽をつけなければ新自由主義推進ができないのは連中の弱点だ。労働組合・市民運動・地域社会などあらゆる回路を使って一億総活躍プラン・新三本の矢のウソを暴露していこう。

 ●7章 ブルジョアジーは軍事をプロレタリアートは福祉を求める

 最後に、新三本の矢と安倍政権を暴露・打倒してもそれだけでは不十分であることを指摘しなければならない。選挙結果の如何にかかわらず新自由主義政策が継続し続ける限り、我々プロレタリアートが必要とする福祉政策は実現されない。資本家の支持を背景とする諸党は資本主義の生き残りをかけて新自由主義的規制緩和の道、侵略・軍国化の道を進まざるを得ないし、その立場からは福祉予算は常に無駄な予算である。逆に我々プロレタリアートの立場からは大企業への追い銭、軍事予算が無駄な予算である。この問題は階級対立に向かわざるを得ないし、そのような立場から事態を見る仲間を増やしていかなければ、息をつける程度の階級妥協の提示で、大衆の自然発生性は収まってしまう。
 以下の事実を倦まず弛まず暴露しよう。大企業の内部留保(それは私たちが作り出したものだ)三百兆円近くに積みあがっている。介護保険なら六十年分だ。二〇一五年度の社会保障予算の削減額は三千九百億円で、同時期に予算だてされたオスプレイ十七機の値段が三千六百億円。本年度の軍事費はしめて五兆五百四十一億円也。資本家減税―消費増税反対。資本家の海外権益のための軍事予算反対。プロレタリアが安心して暮らせるための福祉政策をたたかい取ろう。



 

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