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■アジアの平和と解放に敵対する「安倍70年談話」 侵略戦争と植民地支配の否定を許すな 八月十四日、首相・安倍晋三は戦後七十年の節目の年を期して「七十年首相談話」を発表した。「談話」の焦点となっていたのは、「先の戦争」をどのように評価すべきかという問題であった。誰よりも安倍は、過去二つの首相談話に盛り込まれていた日本の「植民地支配」や「侵略」の言葉、そして「お詫び」と「反省」の文言を嫌悪していた。これを跡形もなく消してしまいたいと強く思ってきた。これらの文言は安倍が信念としている歴史修正主義と正面から対立するからだ。安倍は自己の右翼的歴史観を談話に反映させようとしてきた。だが、内外からの批判の高まりを恐れ、安倍は談話で使用する文言、発表の形式(個人談話か閣議決定か)について動揺をくり返してきた。 結局、安倍政権は閣議決定をもって談話の発表を強行した。それは誠意のかけらもない、ペテンと欺まんに満ちた政治文章である。歴史の真実はただ一つであり、それを無にすることは誰にもできない。 ●1章 安倍「戦後七十年談話」徹底弾劾 最終的に閣議決定という形で「戦後七十年談話」が発表されたのは、現在国会で審議中の戦争法案を成立させるために、公明党を与党陣営に引き止めることが最大の要因であったとされる。公明党に「譲歩」した結果、安倍の本来の思想・信条は談話の内容に十分反映されなかったという声もある。しかしそれはあまりに皮相な見方であろう。今回の安倍談話の背景には、とくに侵略戦争の大きな被害をこうむったアジア太平洋諸国・地域人民から日本批判が噴出することに対する政権の強い警戒心があった。それが談話の内容を深いところで規定したのだととらえておくべきである。さまざまな小細工を弄し、批判を受けないように表現を考えたつもりでも、かえって安倍の思想は談話のなかに否応なく表れることになった。 「村山五十年談話」の三倍近くの文章量を費やして書かれた「安倍談話」はいったい何を語っているのか。あるいは何を語ろうとしていないのか。具体的に見てみよう。 安倍談話は、日本の「先の戦争」、つまりアジア・太平洋戦争が、基本的に侵略戦争であったということを否定している。これが談話のもっとも大きな特徴である。かつて安倍は言った。「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない」と。これは侵略と植民地支配に「痛切な反省と心からのお詫び」を表明した一九九五年の村山談話の立場と異なる。もちろん安倍の本心は、「侵略の定義が定まっていないから侵略という言葉は使わない」というものではない。安倍は「先の戦争」が侵略戦争であったことを一ミリたりとも認めたくないのだ。侵略を認めてしまうような表現は絶対に避けたいのだ。談話発表後の記者会見でも安倍は、「具体的にどのような行為が侵略にあたるかは歴史家の議論にゆだねるべきだ」と述べ、自己の本心がどこにあるのかを示唆している。 たしかに談話において、語句として「侵略」の言葉は使われてはいる。ただし一度だけ。使用されているのは次のようなフレーズにおいてである。「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」。しかし、「侵略」の語句を使えばそれですむというものではない。誰が誰に対して行なった「侵略」なのかが問題なのである。侵略行為の主体は「日本」であり、その対象はアジア・太平洋諸国であることははっきりしている。にもかかわらず、談話ではそのことを意図的に隠し、あいまいにしようとしている。「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました」という表現も同様だ。どのような「行い」、加害行為があったのかについて語っていないことも問題だが、それ以上に、「痛切な反省と心からのお詫び」が安倍自身の気持ちとして受け取られるのを何とか回避しようとしていることこそ問題である。 談話では、侵略した国々への明確な謝罪がない一方、敵国であった米国など帝国主義諸国には感謝の気持ちが述べられている。「敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげ」で「未来をつないでいくことができる」と談話は言う。それが「歴史の教訓」であるとも言う。ここには安倍の欧米重視・アジア軽視(べっ視)の思想が露骨に表れている。安倍は「先の戦争」の相手は欧米帝国主義であって、アジア太平洋諸国人民ではなかったと思い込みたがっている。安倍は欧米帝国主義への敗北を認めるが、アジア太平洋諸国人民の抗日闘争には負けてはいないとも考えたがっている。転倒した歴史観である。 安倍談話は日本のアジア侵略戦争を無かったものにしようとする姿勢に立っている。談話では「侵略」「植民地支配」「反省」「お詫び」などのキーワードとされた語句がちりばめられてはいるが、それらはただ使われているというだけで、安倍自身の言葉としては、まったく位置づいていないという根拠もここにある。 安倍談話は、侵略による加害の歴史を認めようとしていない。日本の戦争責任・戦後責任をあいまいにし、戦後補償の問題を存在しないものにしようとしている。談話には「インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み」とある。だが、「苦難の歴史」が何であったのかを示す記述はどこにもない。日本軍「慰安婦」制度問題や強制労働の問題、侵略と植民地支配のもとで行なわれた土地取り上げ、食糧収奪、徴兵、虐殺・虐待行為などについて事実をあげてその誤りを認め、それに対する謝罪と補償に日本政府が責任をとることこそ明確にすべきなのに、そうしない。日本軍「慰安婦」制度問題については、はっきりと示さないまま、「戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません」と他人事のようにふれているだけだ。 戦後七十年を経てもなお、中国や韓国などからは戦後補償を求める声があい次いで上がっている。こうした声に応えることが、戦後七十年にふさわしい日本政府が取るべき態度である。だが、安倍政権は最初からこれを拒否している。 ▼1章―1節 「謝罪は終わった」 安倍談話がいわゆる歴史問題の幕引きを狙っていることは明らかだ。談話は言う。「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と。「反省」も「お詫び」もすんだ、問題はこれで終わった、という安倍の本音が聞こえてくる。談話が発表された翌八月十五日、安倍も所属する右翼団体「日本会議」などは、談話のこの部分について「謝罪の歴史に終止符」をうつものだとして「高く評価したい」とする声明を発表した。また同日、靖国神社で開かれた集まりで、自民党の稲田朋美政調会長は、「大変意義のある談話だった。未来永劫、謝り続けるのは違うのではないか」と発言して大きな拍手を受けたという。安倍談話がこうした右翼勢力の「謝罪は終わりだ」という言動を活性化させていくことは必至だ。 幕引きと同時に狙われているのが、侵略戦争を正当化することである。驚くべきことに安倍談話は、冒頭からして過去の侵略戦争の容認論から始まっている。「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました」。列強による植民地獲得競争の波に遅れまいとして、日本が侵略戦争を行なったことは、当時の状況のなかではいたし方なかったことだと、これを是認する。さらに、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」とも言う。日露戦争は朝鮮半島などの支配権をめぐる帝国主義強盗戦争であり、このように美化することは完全な歴史の歪曲である。 談話の最後には、「積極的平和主義」の主張が盛り込まれている。「……その価値を共有する国々と手を携えて『積極的平和主義』の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります」と。「積極的平和主義」はこのかん戦争法案を成立させるために安倍がくり返してきたフレーズだ。それは「世界の平和と繁栄」を掲げて新たな侵略戦争を準備する旗印だ。結論部分に「積極的平和主義」の言葉が置かれていることが、この談話がどういうものであるかをすべて物語っている。 ●2章 七十年前に終結した戦争をどうとらえるのか 年初から「先の戦争」の真実を塗り替えるための動きが、各方面から着実に進められてきた。四月の天皇のパラオ訪問(*注1)、四月末、米議会における「希望の同盟へ」と題する安倍演説(*注2)、「明治日本の産業革命遺産」の登録をめぐる動き(*注3)、そして八月六日の「二十一世紀懇談会」による報告書の提出(*注4)と、実に目まぐるしく事態は推移してきた。こうしたすべての動向のうえに、それらの集大成として安倍談話は位置づけられ、侵略戦争と植民地支配を否定する内容をもって発表されてきた。攻撃は全体的・全面的である。ではわれわれにとって、「先の戦争」とはいったい何であったのか。それを問い直すところからわれわれも始めなければならない。 ▼2章―1節 なぜ「十五年戦争」なのか 戦前の日本帝国主義が遂行した「先の戦争」は、一般にアジア・太平洋戦争と呼ばれる。旧来から使われてきた「太平洋戦争」という言葉ではアジア地域を戦域に含むことを表現できないし、アジアでの戦争が無視・軽視される危険性がある。アジア・太平洋戦争という呼称は、現在では「先の戦争」の基本的性格を示す言葉として社会的に一定定着している。 アジア・太平洋戦争は第二次世界大戦(*注5)の一部であったが、第二次大戦と一括される戦争とは、始まりの時期と期間が異なる。第二次世界大戦は一九三九年九月のドイツ軍によるポーランド侵攻を引き金にして勃発した。対して日本が行なった戦争は、一九三一年九月の柳条湖事件(いわゆる「満州事変」)をもって開始される。日本の「先の戦争」の何よりの特質は、それが一貫して中国に対する侵略戦争であったことにある。そこからとくに日本の戦争は、「十五年戦争」とも呼ばれる。「満州事変」に始まる戦争は、一九三二年のカイライ国家「満州国」建国から三七年の盧溝橋事件−日中全面戦争に至り、その後、戦域をアジア・太平洋全域に拡大したが、このなかでも中国への侵略戦争は途切れることなく継続したのである。 中国侵略から始まる十五年戦争は、日本軍の残虐な戦闘行動(南京大虐殺、三光作戦)と民族的抑圧に対する中国人民の全民族的な激しい抵抗に遭遇した。日本軍は進むに進めない泥沼にはまり込み、戦局は膠着状態におちいった。この状況を突破するために東南アジア地域への侵出に活路を求める「南進政策」が始まる。南進政策の目的は、中国への軍事支援ルートを切断し、また英米などの経済封鎖政策によって枯渇した石油をはじめとする戦略資源を東南アジア地域から略奪することにあった。これらの地域をもともと支配していたのは欧米帝国主義国であり、日本のアジア侵略の拡大は、旧宗主国としての欧米帝国主義国との戦争に発展した。米英帝との対立を強めたすえに、日本は一九四二年十二月、米英に真珠湾攻撃、マレー半島上陸、フィリピン空爆をもって宣戦布告し、アジア・太平洋全域を戦場とする米英帝国主義との全面戦争に入っていったのである。(*注6) 十五年戦争は日本の近代侵略史の帰結であった。明治維新以来の日本の近代化(資本主義としての成長・強大化)は、常に対外侵略と一体のものであった。日本は帝国主義段階に入る前から、すでに帝国主義的な侵略を近隣諸国・地域に対して行ない続けてきた。その原型は、アイヌモシリの併合、一八七四年の台湾出兵、一八七九年の琉球処分などにある。日清戦争後、日英同盟をもって英帝の支援も受けつつ、日露・第一次世界大戦という大規模戦争を戦うごとに日本は権益圏を拡大した。台湾・朝鮮に植民地支配を敷き、日本資本主義の近代化・工業化に必要な多くのものを侵略によって略奪してきた。そして十五年戦争に敗北するまで、日本は戦争に絶対に負けることがない国だという「神州不滅」の妄想にとりつかれて侵略戦争を続けたのである。 ▼2章―2節 敗北の二重性 日本の旧支配階級は十五年戦争を「大東亜戦争」と称して、戦争の性格と本質を隠ぺいしようとしてきた。日本の戦争は、アジアを欧米帝国主義の支配から解放する「聖戦」であり、「大東亜共栄圏」「八紘一宇」の建設をめざす正義の戦争であると。「満州国」のでっち上げに際しては「五族協和」(満州国の民族政策の標語)や「王道楽土」(満州国建国の理念)などが掲げられた。そして侵略地域の拡大や米英帝などとの帝国主義間の戦争に際しては、それらを「自衛権の発動」「自存自衛」(「対米英戦争の開戦の詔勅」)であるとして正当化した。(*注7) しかし「アジアの解放」は、実際には植民地的支配の強要に他ならなかった。すでに台湾・朝鮮を植民地統治していた日本帝国主義は、インドネシアやフィリピンなどでは、これをモデルにした支配を敷こうとした。人民の「不穏」な言動や反抗には徹底的な弾圧を加え、言論の自由などの諸権利をはく奪して軍事支配を敷いた。各国で相違はあるが、日本は皇民化政策のもと独自の民族文化を奪い、日本語を強制し、神社を建て、土地・食糧の略奪、強制連行、強制労働、日本軍への徴兵、軍隊「慰安婦」の強制などを常態的に行なってきた。 世界的に見てもその暴虐性・暴力性で突出する日本帝国主義の侵略と植民地支配に対して、アジアの民衆は黙ってはいなかった。アジア各地で解放・独立を求める広範で頑強なたたかいが生み出された。抗日抵抗闘争はそれこそ各国・各地に無数に存在した。十五年戦争以前から、朝鮮では三・一独立運動(一九一九年)、中国では五・四運動(同年)台湾では霧社事件(一九三〇年)(*注8)などの抵抗闘争がたたかわれていた。第二次大戦中には、中国共産党に指導された抗日運動、朝鮮における抗日ゲリラ戦争、フィリピンの反日武装ゲリラなどが日本軍に大きな打撃を与えた。そして第一次世界大戦がロシア革命を生み出したように、十五年戦争は中国革命を誕生させた。 やがて日本帝国主義の敗北の日がやってくる。一九四五年八月、日本の戦争指導者たちは日本に降伏を要求する連合国のポツダム宣言をついに受け入れた。日本の敗戦は、帝国主義間戦争における連合国(その後の国際連合)への敗北ではあったが、またそれ以上にアジア民族解放闘争への敗北であった。敗北のこの二つの面は切り離されてはならない。戦後の米帝占領軍支配と日本の高度経済成長のもとで、日本は米英だけでなく、何よりも中国をはじめとするアジアの民族解放闘争にも敗北したのだという歴史的事実は意図的に封印されてきた。(*注9) ●3章 戦争終結工作と民衆の犠牲 一九四五年の初頭にはすでに日本の敗戦は避けられないものと、日本の一部支配層には認識されていた。元首相の重臣・近衛文麿はこの年の二月、天皇に対して、日本の敗戦は確実になったが、敗戦によって国体(天皇制)が否定されることはそれほど心配することはないと次のように言っている。「敗戦は遺憾ながら最早必至と存知候(ぞんじそうろう)」「英米の世論は国体の変革とまでは進み居らず、随(したが)って敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存候」。むしろ恐れるべきは敗戦の混乱のなかで日本が共産主義化することだと。 ▼3章―1節 民衆は国体護持の犠牲にされた 日本帝国主義の実体をなした最高戦争指導者たちは、「国体」を継続させることを敗戦を受け入れる際の絶対的な条件と考えていた。この点では天皇・側近・重臣・軍部・政府に不一致はなかった。天皇制が存続することは、支配体制が継承されていく可能性を意味していたからだ。旧支配層たちは、国体護持の点での確証が得られるまで、表向きは「徹底抗戦」「本土決戦」を主張しながら、ずるずると戦争を引き延ばしていた。人民の生命や生活のことなどは、はなから度外視された。 戦争末期の四四年から、日本の各主要都市への空爆が激しくなる。全国で二百以上の都市が被災し、百万人以上が亡くなったとされる。三月十日の東京大空襲では死者・行方不明者は十万人を超えた。このなかには当時東京に在住していた一万人以上の朝鮮人が含まれていた。植民地支配下にあった台湾でも米軍の空爆が行われた。四五年五月三十一日の台北大空襲では約三千人が死亡した。 四五年三月、沖縄戦が始まる。四月一日、沖縄本島に米軍が上陸。沖縄戦は日本帝国主義にとっては、最初から負けることを前提とした戦争であった。それは国体護持のために時間かせぎをするだけの捨石戦として位置づけられ、米兵を含む二十万人以上が戦死した。うち住民の戦死者は九万四千人にのぼる。沖縄出身の軍人・軍属を含めると沖縄の死者は十二万人を超える(沖縄県平和祈念資料館・資料)。 四五年七月、連合国が日本に無条件降伏を迫るポツダム宣言を発表。これを日本の新聞は「笑止千万」と書き、日本政府は虚勢を張って降伏拒否の態度を示した。いたずらに時が経過した。宣言受諾を遅らせたことは、米帝による八月六日広島・八月九日長崎への原爆投下への格好の口実を与え、民衆の側の被害をいっそう拡大させることになった。広島の原爆ではその年の十二月までに十四万人が死亡したと推定される。広島原爆の被害者のなかには強制連行された人々も含む朝鮮・台湾や中国大陸出身者、中国や東南アジアからの留学生、アメリカ軍捕虜などの外国人も多数含まれていた(広島市・資料)。長崎の原爆では七万人以上が死亡した。 八月八日、仲介役として頼みにしていたソ連が国連憲章に基づき対日宣戦布告し、つづく九日、対日参戦すると、日本はとうとう宣言受諾を決めざるをえなかった。八月十四日の御前会議で天皇は国体維持について「毛頭不安なし」と断言。そして八月十五日を迎える。 ▼3章―2節 「聖断神話」 一九四五年八月十五日、日本の「先の戦争」は天皇による「玉音放送」によって「終わった」とされている(*注10)。8・15の「玉音放送」は「戦争終結の詔書」であり、たしかに日本の支配層が「戦争を終わりにしたい」という意思を表明したのは事実である。だが、それは国体(天皇を中心とする支配体制)護持を目的とする、戦争に負けた側の戦争終結宣言でしかなかった。これに当時の日本民衆の民意が反映されたわけではない。「玉音放送」を聞くために集まった人のなかには、天皇は「徹底抗戦」に向けた決意を表明するものと「誤解」していた人もいたという。政治的自由が暴力で禁圧されていた天皇制支配国家のもとでは民衆が戦争終結に関与できる余地はなく、ただただそれは「御前会議」という密室のなかで、ごく少数の戦争指導者の合意で決定された。「朕(ちん・天皇の自称)深く世界の大勢と帝国の現状に鑑(かんが)み……」で始まる「詔書」は、ポツダム宣言受諾の意思は表明したが、正面から敗戦を認めるものではなかった。戦争の目的は「帝国の自存と東亜の安定」「東亜の解放」であり、侵略の意図はなかったとされた。 8・15の「玉音放送」は天皇自身を含む日本側の最高戦犯たちによる身勝手な降伏宣言であった。これにより「天皇の御聖断によって戦争が終わった」「玉音放送は戦後日本の出発点であり、戦後の日本の平和と繁栄はここから始まった」という幻想が形成された。「聖断神話」という。天皇制は、戦後民主主義という新たな統治体制に順応する形で、象徴天皇制として生き残る。戦前・戦後が継続し、戦犯の復権にもつながった。 くり返すが、8・15の「御聖断」によって戦争は終わったというのは、ひとつのフィクションにすぎない。8・15が「終戦の日」というのは、旧支配層によって意図的につくられた虚構である。あえて言えば、8・15は「ポツダム宣言受諾の日」「降伏の日」である。厳密に言えば日本は降伏を宣言しただけであって、戦争を終わらせる権限は連合国側にあった。日本のポツダム宣言受諾の表明を受けて、日本の敗戦が正式に承認されるのは早く見ても九月二日、東京湾に浮かぶミズーリ号の甲板上で行なわれた米英をはじめとする連合諸国との調印式であった。これによりアジア・太平洋戦争と第二次世界大戦はいちおう終了したといえるが、その後も各地で降伏調印式はつづいた。九月三日フィリピン、七日沖縄、九日中国、十二日にはシンガポールで日本軍の降伏調印式が行なわれた。 ▼3章―3節 敗戦と解放 日本帝国主義の敗北は植民地支配・侵略を受けた国々にとっては日本の支配からの解放であった。日帝の敗戦を機に、アジア諸国で被抑圧民族人民の民族独立と解放の胎動が高まった。中国では日本の敗戦は抗日戦争の勝利であり、つづく中国革命の出発点となった。ベトナムで独立宣言が発表されたのは、ミズーリ号で日本が降伏文書に調印した九月二日である。日本国内でも、強制連行され炭鉱などで強制労働させられてきた中国人・朝鮮人労働者が敗戦を受けて決起した。 だが朝鮮半島では、植民地支配からの解放の喜びもつかの間、米・英・ソによるヤルタ秘密協定に基づき南北分断が開始された。沖縄では沖縄戦の終結は米軍政支配の開始であった。四七年、「天皇メッセージ」で天皇は沖縄・琉球列島の占領の継続を米帝に要望した。天皇は沖縄を売り渡した。(*注11) 日本人民にとっても日本の敗戦は日本軍国主義の圧政からの解放であった。しかし日本の人民はアジア人民のたたかいに連帯して、アジア解放の一部として日本の解放・革命を展望できなかった。米帝を中心国とした帝国主義の戦後世界支配体制の構築が始まろうとするなか、日本共産党は「米帝占領軍」を「解放軍」と規定する誤りを犯した。戦後革命期が終わったあと、日本は米帝の軍事支配のもと、「反共の砦」に組み込まれた。日本の人民はみずからの力で戦争犯罪・戦争犯罪人を裁くことができず、天皇制をはじめとする旧体制を打ち壊すこともできなかった。 ●4章 戦後七十年と我々の主体的立場 「先の戦争」の評価をめぐるイデオロギー攻撃の先頭に立つ首相・安倍の背後には、祖父・岸への強い追慕・憧憬と、岸が果たせなかった改憲への強烈な執着心がある。戦後を代表する保守政治家の一人である岸は、「自主憲法制定」を通じて日本の再軍備をはかることが日本の真の独立、国家としての自立の道につながるということを自身の政治信条にしてきた。戦前、東条内閣の商工大臣の地位にあった岸は、戦後、A級戦犯の容疑者として逮捕されたが、米国に救われて死刑をまぬがれ、その後、第五十六代の首相に就任した。戦後、公的活動の中心に復帰した多くの財界人・政治家・官僚・軍人などが戦争犯罪人と目される人物であったが、岸は戦犯が政治的復権を果たした典型例であった。カイライ「満州国」建国を推進した中心人物の一人にして戦犯であった岸は、むろん十五年戦争が侵略戦争であったことは全面否定していた。六十年安保においては、安保反対の大闘争が巻き起こるなか、岸は強行的に安保延長・改定をはかった。その先には改憲実現、「押し付け憲法の破棄」という目標があった。岸の路線は対米自立でありながら親米である。強烈な国家主義者の立場から国家の自立を追い求めたが、安保改定後、首相辞任に追い込まれた。祖父・岸が成し遂げられなかった改憲・九条破棄を実現し、国家の栄光を「とりもどす」ことを安倍は政治信条としている。 安倍のやろうとしていることは、別の言葉で言えば、日本自身が主導して「新たな逆コース」を始めることである。いうまでもなく「逆コース」とは、一九五〇年の朝鮮戦争勃発を前後して始められた米帝占領軍の日本統治政策の転換のことである。四五年ポツダム宣言受諾から五二年サンフランシスコ講和条約の発効までの七年間が占領期間である。逆コース政策を肯定するためにこの占領期間を二つに分け、前半期を否定的に、後半期を肯定的に評価するという議論がある。この詐欺的歴史評価を安倍もまた利用している。前半期には、日本国憲法発布、極東軍事裁判の判決があり、教育基本法などが制定されている。一九五〇年の朝鮮戦争開始以降は警察予備隊結成、サンフランシスコ講和条約発効、日米安保条約締結などがある。安倍の「戦後レジームからの脱却」は、「逆コース」によっても否定し切れなかった四五年から五〇年までの戦後改革期の諸政策、とりわけその中心を占める憲法の破壊を実現すること、これを日本自身による「逆コース」として完遂することである。 安倍もまた岸と同様、親米保守の道を進んでいるが、保守陣営のなかからは「安倍を保守と呼べるか」という声もあがっている。元自民党副総裁の河野洋平は、安倍について「保守ではなく右翼」と批判している。「保守」と「右翼」を泰然と区別できるかどうかは別にして、安倍政権が戦後保守の枠組みを外れた危険な性格をもっていることは事実である。一言で言えば中曽根政権が開始し、小泉政権が進めようとした「グローバリゼーションの時代の保守」「新自由主義」という性格をきわめて色濃く持っているのである。単なる戦前回帰ではない、グローバリゼーション−資本の運動の世界化のなかでの「保守」であり「血も涙もない新自由主義」である。この点はたしかに協調や融和を一応は主張してきた戦後保守政治家とは違う。安倍政権は、国際競争力を急速に低下させ、他帝国主義・新興資本主義国との激しい競争に見舞われる、グローバリゼーションの時代の日本帝国主義のもっとも強力な尖兵である。 日本帝国主義は米帝とともに中東地域や朝鮮半島に出撃していく準備を整え始めた。あるいは中国敵視をあおりたて、その延長に対中軍事行動を起こす可能性も排除していない。安倍政権は戦後の政治・経済・社会の枠組みを作り変えて、9・11以降の米帝の「対テロ」戦争と共同した対外戦争を可能とする国家体制づくりを狙っている。戦後七十年をへて、ふたたび侵略と反革命の新たな戦争の時代が始まろうとしている。「安倍七十年談話」は、それを宣言しようとするものであった。 敵の側は戦後七十年の総決算をかけて歴史的な政治攻撃をくり広げている。われわれは、新しい安保闘争の創出をもって、歴史を右から転換させようとする政治的重圧を打ち破っていかなければならない。その時、われわれの側には、六〇年安保闘争、七〇年安保闘争、ベトナム反戦闘争、三里塚闘争、被差別大衆の自己解放闘争など、われわれが主体的に担ってきた諸闘争の蓄積がある。それがわれわれのたたかいの武器である。 最後に、とくに戦後七十年と同様、節目の年を迎える次の二つの闘争・経験が重視されるべきことを主張しておきたい。ひとつは、本年で四十年を迎える一九七五年7・17ひめゆり・白銀闘争である(*注12)。二つ目は正式な発足から二十年を迎えるAWC(アジア共同行動)の活動である(*注13)。この二つの闘争・経験は戦後の日本階級闘争においてはっきりとした独自の位置を持つ。これを、われわれの今後のたたかいの礎(いしずえ)として生かしていくことが必要である。 【注】 (*注1) 本年四月八・九日、天皇・皇后はアジア・太平洋戦争の激戦地の一つ、パラオへの「慰霊の旅」を行なった。それは、南太平洋の島々を侵略戦争の軍靴で蹂躙したことに対する謝罪を表明するためではなかった。目的の中心はあくまでも「日本軍戦死者への慰霊」であり、日本が引き起こした戦争を美化しようというものである。天皇は述べた。「ここパラオの地において、私どもは先の戦争で亡くなったすべての人々を追悼し、その遺族の歩んできた苦難の道をしのびたいと思います」と。日本の植民地統治下のパラオには、現地住民とともに日本「本土」、沖縄、朝鮮、台湾からの移住者(強制連行された人たちも含めて)が住んでいた。そこで日本軍と米軍の激戦が展開されたのである。当然、日本の植民地統治および現地住民などを戦争に巻き込んだことへの反省があってしかるべきだが、天皇の言葉にはそれもない。日米の軍人を含む「先の戦争で亡くなったすべての人々を追悼」するというのは欺まんである。天皇は「先の戦争」が正しい戦争であったと強弁せぬまでも、それを根本から否定しない。「二度とこのような戦争をしない」という強い決意を示すわけでもない。そのうえで、南の島で散った「英霊」のおかげで今日の日本の平和と繁栄があるとアピールしたのだ。 (*注2) この演説全体で安倍が示したのは、それ自体は戦後保守政治家に共通する政治信念であった。安倍は日米関係基軸論、日米同盟中心論にもとづいて日米安保同盟のいっそうの強化をはかっていくと述べた。「戦後世界の平和と安全は、アメリカのリーダーシップなくしてありえませんでした」と、安倍は米帝が中心国として戦後世界において果たしてきた反革命的役割をこの上もなく賛美した。そして、「日本はいま、安保法制の充実に取り組んでいます」「この法整備によって、自衛隊と米軍の協力関係は強化され、日米同盟は、より一層堅固になります」と日米軍事一体化の必要を強調した。さらに安倍は、日本で国会審議が始まる前に、戦争法案の成立を「この夏までに、成就させます」と米国に約束したのである。安倍の対米追随の姿勢はきわめて明確であった。注目を集めたのが、「先の戦争」について安倍がこの演説でどのように述べるのかという点であった。安倍は、あたかも「先の戦争」が日米友好関係の出発点であったかのように述べ、「熾烈に戦い合った敵は、心の紐帯が結ぶ友となりました」と言う。そして、米国と戦い敗れたことで、日本は「明確な道」を選ぶことができ、戦後の成長と繁栄を実現したとするのである。「かつての敵」は「今日の友」という主張のもとで、東京大空襲、沖縄戦、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下など、米国の戦争犯罪行為には一切言及しなかった。他方、アジア地域などへの日帝の加害の事実については、「自らの行いが、アジア諸国民に苦しみを与えた」とのみ、わずかに抽象的に語っただけであった。性奴隷制度・強制連行・植民地支配などの戦争被害、日本の戦争責任・戦後責任の問題は完全に捨象された。これに対しては当然のことながら、アジア諸国・地域から激しい批判が起こった。「先の戦争」は日米戦争ではあっても侵略戦争ではなかった、それは結果的に日米両国の絆を強めることにつながったというのが安倍の戦争総括である。 (*注3) 日本がアジアで初の近代化に成功した国であることを誇示するために、日本政府は二十三の「産業革命遺産」を世界文化遺産としてユネスコに登録しようとしてきた。それ自体、大国主義的な思惑を秘めたものであり、取り上げられた施設が「世界遺産」の名に値するかどうかは最初から疑わしい。何よりも日本の近代化はアジアの犠牲と収奪の上に成り立ってきたという歴史がある。そのことを隠すために、政府は登録を申請した「資産」は一九一〇年(朝鮮併合の年)までに限定するという小細工を行なった。これに対して韓国政府から厳しい批判が出された。韓国政府は、申請された七つの施設で日本の植民地支配の時代に約六万人にのぼる朝鮮人の強制連行・強制労働が行なわれており、世界遺産としてはふさわしくないと指摘した。官営八幡製鉄所、三菱長崎造船所、端島炭鉱(軍艦島)などで強制労働があったのだ。日本政府は、韓国側の批判は「政治的発言だ」(菅官房長官)と反発した。これもまた日本による歴史歪曲の一部である。 (*注4) 二十一世紀懇談会は安倍の私的諮問機関であり、安倍はこの会の報告書を「七十年談話」の「参考」にするとしていた。自分に近い「有識者」を集め、討議をさせて報告書を提出させる、その内容を「聞いて」政権の政策を決めるというのは安倍政権の常套手段である。幅広く意見を聞いて政策を決定しているというポーズを示したいのだ。報告書の提出は実際には「出来レース」であり、その内容は大枠、安倍政権の考えと一致するものであった。また安倍の「積極的平和主義」などの主張については、これを応援し後押しするという姿勢を示した。日米関係については、「全面戦争を戦った日米が短期間で堅固な同盟を持ったことは、世界史において稀有な成功を収めた二国間関係で歴史的意義は極めて大きい」と述べており、米国議会での安倍演説とまったく同様の考えを示す。日米関係基軸論で歴史を総括しようとする分、アジアでの戦争を記述する部分はおざなりになっている。「侵略」については触れておけば良いだろうとする態度が明白で、たしかに安倍談話とは異なって、「大陸への侵略を拡大し、世界の大勢を見失い、無謀な戦争でアジアを中心とする諸国に大きな被害を与えた」と述べはしたが、アジアでの日本の戦争の扱いはきわめて小さい。何が「侵略」であったのかについて、具体的な言及に欠ける。おまけにこの部分には、「複数の委員より、『侵略』という言葉を使用することに異議がある旨表明があった」との注釈が付けられている。これでは、「侵略」があったのかどうかという肝心な点で結論が出なかったと言っているに等しい。問題をあいまいにしようとする意図が透けて見える。懇談会報告書は予想通り「安倍談話」を下支えするものとなった。 (*注5) 第二次世界大戦(一九三九年〜四五年)は、帝国主義国どうしの植民地獲得をめぐる強盗戦争であった。分割された世界の再分割を目的にして戦われたこの戦争は、帝国主義国を連合国と枢軸国の二つの軍事ブロックに分ける世界的規模での戦争であった。それは史上初の帝国主義世界戦争であった第一次大戦を、その規模、それが生み出した悲惨さにおいてはるかに上回る破壊的性格を持つ戦争であった。戦争当事国であった帝国主義国にとっては、この戦争は第一次大戦と同様、自国の生産力と国民を総動員して徹底的に戦う総力戦という性格をもっていた。敵をどれだけ大量に短時間に殺戮できるのかという観点からさまざまな兵器が開発された。空母、戦略爆撃機、生物・化学兵器などの開発に加え、究極の大量破壊兵器として原子爆弾が実際に使用された。総力戦としての第二次大戦は、帝国主義の強盗的抗争の戦場となった植民地・半植民地国の民衆に筆舌に尽くしがたい犠牲と苦しみを強いた。同時に、帝国主義国の労働者民衆にも、大量の戦争動員、敵国による大規模空爆、慢性的な食糧不足などにより累々たる戦死者と飢餓的生活苦をもたらした。 (*注6) 歴史学者・家永三郎はその著『太平洋戦争』(一九八六年)のなかで、対米戦争のそもそもの原因は中国侵略戦争にあったという見解を次のように示している。「対米開戦が柳条湖事件に端を発する中国侵略から派生した戦争であり、十五年戦争の中心がどこまでも中国侵略に求められるべきことは、反論の余地のないところであろう」。 (*注7) ちょうど百年前の一九一五年八月、第一次帝国主義世界大戦を前にしてレーニンは「社会主義と戦争」と題した論文を書いた。このなかで彼は、この戦争の性格、戦争に対する社会主義者の態度などについての考えを述べた。次の文章はこの著作のなかの言葉である。「現在の戦争でブルジョアジーが人民をだましている嘘のなかで、いちばんひろまっているのは、戦争の略奪的目的を『民族解放』というイデオロギーでおおいかくすことである」。「実際には、……この戦争は、世界の大多数の民族を抑圧しているもの同士が、このような抑圧をつよめひろげることを目ざしてやっている戦争なのだ」。略奪的目的を持つ戦争を、「民族解放」のための戦争だとした点は、日本の十五年戦争にもそのままあてはまる。 (*注8) 霧社事件。「台湾原住民」(台湾ではこう呼ばれる)が日本の過酷な支配に対して起こした反日武装決起のこと。霧社の「社」とは村をさす。武装決起ではまず霧社各地の駐在所が襲われ、その後、学校の運動会が襲撃されて日本人約百四十人が死亡した。これに対して日本軍は、一カ月以上をかけ、大量の武器・兵員を動員して徹底的な弾圧を加え決起を鎮圧した。事件は『セデック・バレ』というタイトルで二〇一一年に映画化され(監督ウェイ・ダーション)、台湾で大ヒットを記録した。 (*注9) こうした観点の重要性を強調しているのが歴史学者・纐纈厚である。纐纈は著書『「日本は支那をみくびりたり」 日中戦争とは何だったのか』(二〇〇九年)のなかで次のように述べている。「それでも敢えて、『日本は誰に敗北したのか』の問いを発すれば、多くの日本人が『日本はアメリカに敗北したのだ』と答えるかも知れない。だが、私はこうした解答や、これに同調する声には、どうしても違和感を抱いてしまう。私の解答は、『日本は中国に敗北し、アメリカに降伏した』である」。また次のようにも言う。「アジア太平洋戦争として一括して把握すべき先の戦争の起点は、間違いなく満州事変(一九三一年九月一八日)である。満州事変から開始された日中十五年戦争の延長として対英米戦争があり、この二つの戦争は戦場域こそ違え、ひとつの戦争と把えるべきであろう」。 (*注10) 半藤一利著『日本のいちばん長い日』(一九六五年)は、一九四五年八月十四日から十五日にかけて、日本の戦争最高指導部がどのように振る舞い、天皇による「戦争終結の詔書」「玉音放送」にまでいかにしてたどり着いたかをドキュメンタリータッチで描いている。それまでは、あまり知られていなかった陸軍主戦派の反乱などの事実も盛り込まれている。原作は六七年に映画化され、「名作」という評価を得た。ただし岡本喜八監督になるこの映画では、天皇は常に後ろを向いていたりして姿を隠し、正面から描かれてはいない。肝心な部分で欠陥があった。戦後七十年を迎える本年夏、アジア・太平洋戦争をテーマとした映画があい次いで封切られている。『日本のいちばん長い日』(原田眞人監督)、『野火』(塚本晋也監督)、『この国の空』(荒井晴彦監督)、『天皇と軍隊』(渡辺謙一監督)などが公開されている。 (*注11) 二〇一四年九月十日付『琉球新報』社説は、宮内庁が公表した『昭和天皇実録』について取り上げている。そこで「沖縄の運命を変えた史実は、十分解明されなかった」として次のように述べている。「昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも三回、切り捨てられている。最初は沖縄戦だ」。「二つ目は四五年七月、天皇の特使として近衛をソ連に送ろうとした和平工作だ」。「三つ目が沖縄の軍事占領を希望した『天皇メッセージ』だ」。「私たちが知りたいのは少なくとも三つの局面で発せられた昭和天皇の肉声だ。天皇の発言をぼかし、沖縄訪問を希望していたことを繰り返し記述して『贖罪(しょくざい)意識』を印象付けようとしているように映る。沖縄に関する限り、昭和天皇には『戦争責任』と『戦後責任』がある。この点をあいまいにすれば、歴史の検証に耐えられない」。 (*注12) 一九七五年7・17ひめゆり・白銀闘争。昭和天皇が決して足を踏み入れることのできなかった沖縄の地に、天皇の「名代」として上陸した当時の皇太子アキヒトに対する糾弾闘争である。沖縄戦を強要して多数の住民の命を奪い、戦後は沖縄を米軍の差別軍事支配のもとに差し出すことによって復活をとげた日本帝国主義と天皇制。これに対して、四十年前の七月十七日、沖縄と「本土」の四名の青年たちが共同の闘争を決行した。沖縄人民の怒りを受け止めて、皇太子の車列の進行に立ちふさがり、ひめゆりの壕の前では火炎瓶を投てきして実力糾弾した。同じ日、糸満から那覇に向かってデモを展開していた数百の実行委の部隊は、この快挙を聞いて歓喜した。当時、皇太子の沖縄上陸策動に対しては沖縄全島で反対の声が上がっていた。労働運動をはじめとする沖縄の社会運動は、「皇太子は沖縄に来るな」のデモ・集会をくり返していた。皇太子アキヒトに対する実力糾弾闘争の成功は、ただちに沖縄人民の強い共感・支持をもって迎えられた。「7・17」は天皇制に対する糾弾闘争であり、沖縄人民の自己解放闘争であり、そして沖縄―「本土」青年の団結にもとづく共同闘争として大きな意義をもった。「7・17」は沖縄―「本土」間に横たわる隔壁をたたかいによって打ち破っていこうとする先進的な闘争・経験として、その精神は現実の闘争のなかに刻み込まれている。 (*注13) 一九九二年、戦後初となる自衛隊の海外派兵がカンボジアPKO派兵として強行された年、フィリピン、韓国、台湾、ネパール、インドネシア、バングラデシュなどアジアを中心に十二カ国・地域から大衆運動団体の代表が日本に集まった。そこで、米日帝国主義の侵略・支配に対するアジア規模の共同闘争を推進していくことが決議された。反帝国主義・国際共同闘争体としてのアジア共同行動(AWC)の事実上の出発であった。その後、一九九五年からは団体名称を「日米両帝国主義のアジア侵略支配に反対するアジア・キャンペーン」(略称・AWC)とし、アジア各国・地域で定例的な国際会議、国際共同闘争を積み重ねてきた。韓国ではAWC韓国委員会が結成され、二〇〇一年からは米国のANSWER連合もAWCの隊列に加わった。われわれはこのAWC運動を支持してたたかってきた。AWCは二十年を超える活動の蓄積をもつアジア規模の国際的大衆運動団体として活動を堅持し成長してきた。いま日米帝の新たな戦争政策のなかで、この運動のさらなる発展・拡大が求められている。帝国主義の国際的展開、資本の運動の国際的拡大・連携に比べ、人民の側の国際連帯・国際共同行動は圧倒的に未発展である。それだけにAWC運動の発展には大きな期待が寄せられている。ここにこそ未来がある。 |
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