共産主義者同盟(統一委員会)






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1930年代ファシズム下の労働運動



 ●1章 安倍政権「官制春闘」と戦前の労働運動

 安倍政権は、「強い日本を取り戻す」「戦後レジームからの脱却」というスローガンの下で戦後日本の政治・経済・社会の全面的な再編を推し進めようとしている。河野談話・村山談話の見直しなどによる侵略戦争の擁護・美化、集団的自衛権の行使容認から憲法九条改悪を焦点とした本格的な戦争ができる体制の構築などが狙われている。
 同時に安倍は、このような「強い日本」の下に、労働者・労働運動を組織しようとする。政権の優先
課題として「日本経済の再生」を掲げ、「国益」と「労働者の利益」を一体のものとして結び付けようとしているのである。
 このような「強い国家の下への労働者の組織化」を象徴するのが、一四年春闘であった。甘利明経済再生担当相は、三月十一日の記者会見で、今年の春闘の賃上げについて「政府は、復興特別法人税の減税を前倒しして、原資を渡している。利益があがっているのに何もしないのであれば、経済の好循環に非協力ということで、経済産業省から何らかの対応がいる」と発言するなど、賃上げ実現に向けて徹底的に資本へ圧力をかけた。このような中で、大手を中心に賃上げ回答が相次いだ。ここには、中小企業労働者や非正規労働者など、様々な問題が置き去りにされていることは間違いがない。しかし、政府主導で賃上げにかける安倍の姿勢は、歴代政権にはなかったものであった。浜矩子氏は、「これはズバリ、強権春闘と命名すべきところだろう……むしろ、恫喝春闘と言ったほうがいいかもしれない」(三月十五日付『毎日新聞』)と述べている。
 一九二九年にはじまる世界恐慌の中で登場したファシズム運動に対して、日本の労働運動や農民運動などの無産運動は敗北をしていった。「ファシズムの弾圧と右派労働運動指導者の裏切り」―戦前の労働運動がファシズムに敗北していったことの理由として、このような表現がよく使われる。
 確かに一面では、最高刑が死刑に引き上げられた一九三二年の改悪治安維持法をはじめとするさまざまな弾圧法をもって戦争体制は作り上げられていった。弾圧は、共産主義運動にはじまり、労働運動、農民運動などの無産運動、自由主義者、さらには大本教などの宗教運動へと際限なく拡大していく。この中で、岩田義道、野呂栄太郎、小林多喜二などが無残に命を奪われていく。
 また、赤松克麿、麻生久などの右派・中間派社会民主主義者が、国家社会主義から果てには日本主義へと転向をとげていったことも間違いない。そして、労働運動や農民運動などの無産運動も、大きく右へと舵を切っていく。
 しかし、決して社会民主主義者たちは、――少なくても主観的には――「労働者、農民の解放」を投げ捨てたわけではなかった。侵略戦争を遂行するためのファシズム体制の中で、「労働者、農民の解放」を成し遂げようとしたのである。
 これは、「唯一、戦争に反対した党」を自称する共産党も同じである。もちろん、獄中非転向のたたかいや中国大陸での反戦兵士の組織化などの戦中の共産主義者によるすぐれた実践の意義を否定するものではない。しかし一方で、「アメリカ資本主義と中国軍閥に対する戦争は進歩的」とした佐野学、鍋山貞親をはじめ、治安維持法の未決・即決犯千七百六十三人のうち三割を超える五百四十八人が転向をしている。そしてこの中には、革命の展望をファシズム運動の中に見出し、侵略戦争へ自ら参加していった共産主義者も少なくない。
 日本帝国主義からの解放を求める台湾と朝鮮、中国や東南アジアの労働者・民衆の利害と対立させ、侵略戦争に自らの利害を重ね合わせていく――戦前・戦中の労働運動を見る時、このもうひとつの側面も、決して見逃されてはならない。そして何よりもこの敗北をのりこえる中で、安倍政権と真正面から対決するたたかいを作り出していかなければならない。

 ●2章 貧困の拡大とファシズム運動の登場

 一九二九年十月にアメリカのニューヨークではじまった株の大暴落は、またたく間に世界を大恐慌の中にたたきこんでいく。これは、世界金融恐慌であった。
 日本資本主義も、これから自由ではなかった。翌三〇年に恐慌の嵐は、日本経済を直撃する。物価は、一九二九年を百とすると三一年には六十八となり、企業利益は約半分にまで落ち込む。資本は、労働者に矛盾を押し付けることで自らの生き残りをはかる。合理化政策―人員整理、賃金切り下げによる生産コスト節減が進められていく。
 これによって、全国で百五十万人が解雇され、三〇年代前期の失業者は二百五十万人に達している。賃金不払いは三一年から三二年にかけて八百五工場、十万人に及ぶ。
 労働者だけではない。農村部でも貧困は拡大する。都市労働者層の購買力の低下によって、米価は一九二九年に対し三一年には約半額、繭は三四年に三分の一に下落する。加えて、職を失った工場労働者の四割、鉱山労働者の二割が帰農し、農村経済を圧迫する。さらに、一九三一年、三四年に東北、北海道で発生した「凶作」が、貧困に追い討ちをかけるのである。
 このような世界恐慌による貧困の拡大―労働者や農民の生活の破壊は、労働運動などの無産運動の激化をもたらすことになる。
 第一次世界大戦後の独占資本主義の成立の中で、定期採用と長期勤続を基礎とする本工制が拡大し、これにともなって企業内での経験の蓄積に比例して賃金を上昇させていく年功制賃金が成立していくのである。また、第一次世界大戦後の争議で労働者が団体交渉権を求めて設置された工場委員会制度は、労働者を従業員として企業に結びつけていった。資本の一方的な決定に代えて、工場委員会という形態を通して労働者の要望をくみ取っていくのである。これは一方で、労働組合の機能を吸収していく。また、工場委員会と同時に、運動や娯楽、趣味などを媒介にして、さらに極端に労使の意思疎通組織として親睦会が大企業を中心に組織されていく。
 日本的労使関係が生み出されつつあったのだ。これによって、労働組合の成立する余地は、きわめて小さくなっていた。
 しかし、恐慌の嵐は、このように生み出されつつあった日本的労使関係を一瞬で押し流す。恐慌に直面した資本は、ただただそのしわ寄せを労働者に押し付けるだけであった。これによって終身雇用制の基礎は動揺し、経営家族主義は大きな打撃を受けることになる。
 一九三〇年の労働争議は、二年前に比べて件数、参加人数ともに二倍を記録する。一九三一年の労働争議は二千四百五十六件にも及ぶ。その内容も、それまでの賃上げなどの積極的要素にかわって、賃金減額反対、解雇反対などの生活防衛的要素が前面に出てくる。それだけに、一度争議に突入すると解決は容易ではなく、激しいものにならざるを得なかった。当時は、労働権は、いっさい認められていない時代であった。
 中間派の全国労働組合同盟は、一九三〇年の結成大会で、「今や無産階級が選ぶべき前途は、餓死か闘争の二つのうち一つである。工場に鉱山に、農村に、街頭に全大衆の新たな闘争の波は捲き起され、資本の全線戦に及ぶ攻撃を反発しようとしつつある」と宣言している。
 恐慌という情勢下で、労働運動などの無産運動は資本と鋭く対決することで貧困にあえぐ労働者や農民などの利益を反映していた。そしてこのエネルギーに立脚して、社会の中に大きな影響力を発揮していった。
 しかし、世界恐慌を背景に急速に勢力を拡大したのは、労働運動などの無産運動だけではなかった。軍部もファシズム運動を組織し、政治勢力として社会的影響力を強めていく。
 中国の労働者や農民の反帝国主義闘争に対して、日本の支配層は日露戦争以来の侵略で奪い取ってきた「権益」が脅かされることを恐れる。
 財閥に支えられていた政党内閣は帝国主義諸国との協調路線―内政不干渉主義・対米協調をその基調としていた。ヨーロッパやアメリカの帝国主義と利害を調整し、その下でのアジアからの搾取と収奪をおこなおうというものである。しかし軍部は、「満蒙分離」をかかげてこれを右から批判し、中国へのさらなる侵略戦争を独自に推し進めていく。
 一九三一年には、現地軍によって柳条湖事件が引き起こされる。自らの手によって南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国国民党の仕業に見せかけたのである。軍中央はこれをもって「満蒙問題解決の動機とする」ことを確認し、中国東北部への本格的な軍事侵略を開始する。第二次若槻礼次郎内閣は「不拡大方針」を取るが、逆に統帥権侵犯を主張する軍部によって退陣に追い込まれる。
 陸軍は、五ヵ月で「満州(ママ)」の全域を掌握し、翌三二年には傀儡政権を打ち立てて「満州国」建国を強行する。さらに、日本人僧侶襲撃をでっち上げて上海事変を引き起こし、侵略戦争を拡大。三三年には国際連盟を脱退していく。日本帝国主義は、アジアへの侵略戦争と米英などの帝国主義諸国との対立の激化への道をひた走っていくのである。
 同時に、軍部は日産や日本窒素など植民地経営の中で成長してきた新興ブルジョアジーと結び付きながら、政党とその背景にある財閥を攻撃していく。恐慌による貧困の拡大という危機を利用しながら、この危機に対応できない政党と財閥を批判し、貧困の解決をアジアへの侵略戦争に求め、それを遂行するためのファシズム体制の確立を主張する政治勢力として自らを浮き上がらせていったのである。
 一九三〇年に橋本欣五郎中佐などの情報諜報を担当していた参謀本部第二部を中心に結成された桜会は、次のように述べている。
 「国政は今や衰頽に向かおうとしている」「われわれ大和民族は到底現在における世界的地位と名誉を保持し続けることはできない」として国家的な危機を訴える。そして「現在のような柔弱な政党政治家を基礎とする政権であっては外郭(外殻)を処理することはできないので、内部の改革による強力な政府を打ち建て、これによって外交をおこなわなければ、その実行は不可能である」と主張している。
 桜会は、同時に次のようにも述べる。「現在においても辛うじて、少なくとも一定の主義と情熱をもって奮闘しつつあるのを独り左傾団体にのみに見出してはならない」。左翼運動を意識しながら、労働者や農民を右からファシズム運動へと獲得していくのである。
 陸軍は、全国に張り巡らされた在郷軍人会のネットワークを駆使しながら、国防思想普及運動に打って出る。「満州事変」直後から、陸軍軍人を弁士とした時局演説会を、全国各地で開催し、これに地域の住民を組織していく。
 ここでおこなわれた演説は、どのようなものだったのだろうか。加藤陽子氏は、5・15事件で弾圧されて田舎へ帰郷していた石堂清倫が、一九三〇年に石川県小松で聞いた演説会の内容を、彼の日記から紹介している。演壇に立った陸軍省少佐は、次のように小松の労働者や農民に語りかけている。
 「諸君は五反歩(一反は約九百九十二平方メートル)の土地をもって、息子を中学にやれるか、娘を女学校に通わせられるか。ダメだろう。……日本は土地が狭くて人口が過剰である。このことを左翼は忘れている。だから、国内の土地所有制度を根本的に改革することでは問題は解決しない。そこでわれわれは、国内から外部へ眼を転換させなければならない。満蒙の沃野を見よ。……他人のものを失敬するのは褒められたことではないけれども、生きるか死ぬかという時には、背に腹はかえられないから、この満蒙の沃野を頂戴しようではないか。これを計算してみると、諸君は五反歩ではなしに一躍十町歩(一反の百倍)の地主になれる。つまり旦那衆になれる」。
 憲兵隊の記録では、このような陸軍時局演説会は、満州事変勃発後一か月たらずの間に千八百六十六回も開催され、全国人口六千五百万人のうち、百六十五万五千四百十人が参加している。
 一九三四年には、いわゆる「陸軍パンフレット」―「国防の本義と其強化の提唱」が発刊される。上からの社会変革を主張する陸軍統制派の考えを宣伝するために、陸軍省新聞班の池田純久中佐によって執筆されたものである。
 「たたかいは創造の父、文化の母である」という言葉ではじまるこの小冊子は、「武力戦は単独で行われることなく、外交、経済、思想戦等の部門と同時にまたは前後して展開される」として「国民と軍隊は一体となって武力戦争に参加」することを求め、国家総動員体制の確立を訴える。そして、この中で「国民生活の安定を図ることを要とし、とりわけて、勤労民の生活保障、農山漁村の疲弊の救済は最も重要な政策」だとしている。
 「勤労民の生活保障、農山漁村の疲弊の救済」は、同年の陸軍計画書で具体的な政策として打ち出される。そこでは、「農民救済」として「義務教育費国庫負担、肥料販売の国営、農産物価格の維持、耕作地などの借地権保護」を、また「労働問題」として「労働組合法制定、適正な労働争議調停機関の設置」を提言している。
 軍部を中心とするファシズム運動は、決して弾圧とテロリズムによって無産運動を押しつぶすだけではなかった。一方で、侵略戦争とその戦争体制の中に、労働者・農民の「利益」を反映させ、この下に労働者・農民を組織していこうとしたのだ。

 ●3章 無産運動のファシズム運動への合流

 ▼3章―1節 中国侵略戦争下の無産運動


 一九三一年の柳条湖事件にはじまる中国への侵略戦争の下で、日本の労働運動などの無産運動の中から、軍部によるファシズム運動に対する期待が広まっていく。右派から順次、運動の右転落がはじまるのである。ここでは、無産政党と労働運動の動きを見ていきたい。
 「満州事変」に対し、右派の社会民衆党は、片山哲、中島雄三、小池四朗を現地調査委員として送り込む。同調査委員会は、「満州が支那(ママ)の一部であるという従来の考え方は誤り」と報告する。それまで小池四朗らは、植民地朝鮮や「満州」の放棄を主張していたのである。さすがに党内からの反対の声もあり、中央執行委員会に一任されることになった。ところが中執は、「(「満州事変」は)支那軍閥の不当なる計画的排日行為と、わが国政府に誤れる伝統的ブルジョア外交と満蒙政策とに共同責任」があり、「日本国民大衆の生存権確保のため、満蒙での我々の条約上の権利が侵害されているは不当であると認める」と現地調査委員会の方向を追認し、侵略戦争を支持する。
 翌一九三二年の第六回全国大会では、赤松克麻書記から「新運動方針要項」が提案される。「日本の国体を尊重する精神をいっそう明確化すること」「国民的利害関係を無視し、全世界の無産階級的共同利益のみを強調し、かつ機械的画一的国際闘争を企図するマルクス主義は空想的誤謬なることを明らかにし、無産階級の国民的立場を明確化する」というものである。
 赤松克麻はこれだけに飽き足らず、国家社会主義をめざし日本国家社会党を組織。一九三三年には国家社会主義をすて「一君万民」の日本主義へ転向、国民協会を組織していく。また、小池四朗も国家社会主義から日本主義へ転向し、三七年には日本革新党へ合流していく。
 中間派社民の全国労農大衆党(一九三一年結成)は、満州事変勃発に対しては本部書記局会議で「帝国主義戦争反対」の態度を決定する。そして堺利彦を委員長とする対支出兵反対闘争委員会を組織し、東京、大阪、静岡、福島、北海道などで講演会を開き、反戦ビラを配布するなどして戦争反対の闘争を展開していく。
 しかし、同党の松谷与一郎議員が衆議院議員満蒙視察団として現地に派遣され、「わが居留民に保護ならびに権益擁護のためわが国政府のとりつつある処置は自衛上当然にして、出兵また止むを得ず」という意見書を党本部に提出。また、同党の支持基盤であった全国労働組合同盟、日本労働組合総連合が、党本部に「共産主義排撃」を明確にするよう迫り、翌三二年には「平凡社」社長の下中弥三郎らが国家社会主義政党―日本国民社会党準備会を結成すると、これを支持するようになる。
 このような中で、同党は麻生久、稲村隆一、田所輝明らを中心に右派社民の社会民主党と統合して社会大衆党を結成する。この中で、「日本民族の歴史的使命達成に聖戦を積極的に支持する」として、陸軍と結んでファッショ化に同調していく。
 労働運動も、無産政党と並行して、これと同じ道をたどっていく。
 一九三〇年には、右派社民系の日本労働総同盟を中心に、海員組合、中間派の日本労働組合総連合が合同して、労働倶楽部が結成される。「満州事変」が起こるとこれを追認し、「満州国」を承認していく。
 一九三二年には、右派系が総結集し、日本労働組合会議が組織される。十一組合二十八万人で、組織労働者の75%を糾合していた。翌三三年には「産業及労働の統制に関する建議」を提出し、労働組合法の成立を前提にして労使関係に対する国家の介入を求め、国有国家管理を最終目的とする重要産業の国家統制を主張する。同時に、中小企業の労働組合を中心に階級闘争の否定を宣言し、労働協約によって企業採算を前提にしたうえで労働条件の改善を勝ち取るという産業協力運動を展開していく。
 三五年からは、日本労働組合会議に代って、国家社会主義労働運動、そして日本主義労働運動が台頭していく。右派社民の一部は同年七月に日本国家社会主義労働同盟を結成。十一月の創立大会で日本労働同盟に改称した。綱領では「一君万民の日本建国の精神」による「搾取なき新国家の建設」と「労働組合が資本主義打倒の全面的政治に於ける経済部門を担当する」と掲げた。
 日本主義労働運動は、一九二六年に神野信一による石川島造船所の石川島自彊組合にはじまる。三二年には石川島自彊組合を中心とする造船労働連盟は、国防献金運動に取り組み、これを母体として十組合、約八千六百名で日本産業労働倶楽部を結成する。この行動方針として、労資融合による労働報国運動、搾取による利潤追求批判と労使一体が掲げられた。日本主義労働運動は、三六年には五万人を擁する愛国労働組合全国懇談会へと拡大していく。
 左派系は、加藤勘十らの合法左翼労働運動家を中心に、一九三四年に「階級的労働組合の全線的合同」を掲げて日本労働組合全国評議会を結成する。これは、中国への侵略戦争に反対し、反ファッショ統一戦線を展開した、唯一の労働運動であった。しかし、弾圧によって追い詰められていく一方で、右傾化の中に自らの活動領域を求めていく。
 三七年には合法左派の中堅組合である日本交通労働総聯盟は、中央委員会で「一、我等は健全なる自主的労働組合を強化し、団体協約を結び労働条件の維持改善を図り、叉自ら相互扶助的事業を興し労働大衆の福利の増進を期す 二、我等はファシズム並に共産主義を排除、国情に即した合法的手段により諸種の社会立法に充実を図り、進んで資本主義に改革を期す」と宣言する。また同年、日本労働組合全国評議会の常任委員会は、その綱領草案で「我等はよく産業人として社会的責務を自覚し以て労使紛争の極小化を期す」と掲げていく。
 このような労働運動の右傾化は、米英との正面戦争を見据えて推し進められていった国家総力体制構築と結び付いていく。
 一九三八年に半官半民の協調会時局対策委員会の「労使関係調整方策」が発表され、産業報国運動が始まる。事業場単位に単位産業報国会が組織されはじめる。都道府県警察本部―警察署が組織化の中心になり、財閥系企業の多くは単位産業報国会となった。翌年には、厚生省と内務省に指導権が移り、道府県から地域別に産業報国会連合会が結成される。単位産業報国会には労使一体として労働者の代表が組織されていたが、道府県産業報国会連合会ではそれも排除されていく。三九年には協調会から政府に主導権が移り、翌四〇年に単位産業報国会の中央組織として大日本産業報国会が成立する。
 産業報国連盟の拡大に対して、全日本労働組合総同盟のうち全国労農大衆党系の河野密、菊川忠雄らは総同盟を解散して、産業報国倶楽部を結成して産業報国運動に参加。国策に協力することで労働者の利益を拡大することを目指していく。社会民衆党系の松岡駒吉や西尾末広は組合(日本労働総同盟)を残して産業報国運動との共存をはかろうとする。しかし、唯一独自性を保っていた日本労働総同盟も、一九四〇年には解散へと追い込まれる。
 「国体の本義に基く皇国産業の本質と、皇国産業人の真使命に立脚して産業報国精神を確立し、其の普及徹底を図ると共に、新産業勤労体制を確立して、真の全機能を振興発露し、天業を翼賛し奉らんとする官民一体の組織的国民運動」―戦争体制を担うファシズム労働運動に労働者が組織されていくことになる。大日本産業報国会には、四一年までに約五百四十七万人が組織され、組織率70%にもなっていく。

 ▼3章―2節 出征兵士の解雇反対争議と陸軍の介入

 このように、労働運動、無産運動の中に軍部への期待が広まっていく中での、象徴的な労働争議がある。東京地下鉄争議、玉川電車争議などの一連の関東での交通関係の争議である。以下、これらの争議とそれを巡る無産運動の動きを紹介していく。
 東京地下鉄は、根津嘉一郎系の資本による経営で、一九二七年に開通する。最初は、上野駅と浅草駅の二・二キロの運行だったが、順次、延長されていく。
 労働条件は劣悪で、公休は十日に一日、午前出は午前六時から午後八時まで、午後出は午後三時から午前〇時までという長時間労働で、労働環境も日光がなく湿気やほこりまみれで非衛生的なものであった。
 労働者は、度々、サボタージュや請願書の会社への提出などの抵抗を組織していた。本格的な労働組合は、左派系の日本労働組合全国協議会に参加する日本交通運輸労働組合のオルグと結び付く中で組織され、一九三一年に結成される。そして翌年には、ストライキに突入する。
 ストライキの引き金になったのは、出征した労働者の解雇問題であった。当時は、入営者職業保証法があり出征兵士の除隊後の復職は保証されていた。しかし会社は出征する労働者に「帰ってきたら再入社させるのだから辞職していくように」求め、除隊後もなかなか復職をさせなかったり、復職をさせても初任給からの再スタートを強いたりしていた。
 東京地下鉄の労働者は、「一、出征兵士は休職とし、給料全額支給」「二、入営兵士は休職とし、除隊後は直ちに元給を持って復職さすこと(但し現役中の者も含む)」「三、兵役のため減給されたものは元給支給すること」など、兵役に関する三項目を先頭に二十七項目を要求してストライキをたたかっていく。
 電車庫への引き込み線に終電車を止めてバリケードにして籠城、全車両を車庫から出せなくし、三月二十日をもってストライキに突入。二十三日まで四日間にわたって若い男女労働者百五十六人によってたたかわれた。この結果、要求した二十七項目のうち、出征した労働者の解雇問題をはじめ三分の二が勝ち取られた。
 東京地下鉄争議と前後して、関東の交通労働者は、出征兵士の解雇に反対する争議を相次いでたたかっている。東京地下鉄争議に先立つ三月七日、東京市郊外電鉄従業員郊友会玉川支部が、召集された三名の従業員を解雇した玉川電車に対して、首切り反対、日給全額支給を要求。九日には、出征中は欠勤扱いとし、独身者三十五日分、妻帯者五十日分のほか、餞別金百円を支給させている。
 東京地下鉄争議の後には、この動きは関東一円に拡大していく。京浜電鉄では駅員が中心になり、出征兵士の問題をとりあげて要求書を提出。小田急でも出征兵士の問題で要求書が提出されている。西部電鉄では出征兵士を送っての帰途、地下鉄のストライキを聞き、要求書を提出。東武電鉄では従業員が兵役応召者給料全額支給を中心とする要求を提出、これを拒絶されると四月二十二日からストライキに突入している。
 これら一連の関東の交通労働者のたたかいに、思わぬ「援軍」があらわれる。陸軍が、労働者の出征兵士に関する要求を支持するのである。
 一連の争議の初戦を切った玉川電車争議が起こった翌日の三月八日には、陸軍省は直ちに談話を発表する。「世間の一、二の会社において、応召者の解雇問題を原因として争議突発が伝えられる。そもそも入営者職業保証法は兵役義務履行による失業防止の大道を示し、必要最低限度を定めたものにすぎない。だから今回の事変のような場合は、雇い主もその根本精神をくんでできる限り労働者に優遇を与えることを希望してやまないのである」と。
 さらに、続く個々の争議にも、「法律の条文をたてとして応召者を遇し労資の協調和解を破るが如きは、吾人の甚だ遺憾とするところ」などと声明を出し、これに介入していく。
 さすがに陸軍の介入の前には、個々の資本は労働者の要求をのまざるを得なかったようである。すべての争議で、出征兵士問題での労働者の要求は認められている。
 一連の動きを通して、無産運動の中に陸軍に対する期待が広がっていく。左右を問わず、無産政党は反戦運動の一環として出征兵士家族の待遇改善運動に取り組んでいた。左派の農民労働党は「徴兵より起こる家族の経済的困窮に対する国家補償」をその政策としており、中間派の全国労農大衆党は一九三二年の選挙スローガンで「服務兵士家族の国家補償」を訴えていた。この問題の解決を、陸軍に期待するようになるのである。
 「日本交通労働新聞」は、「世論は轟々として会社の無暴(ママ)を糾弾し、遂に内務、陸軍の両省から会社に警告が発せられるに至った」(第十二号/一九三二年三月三十一日付)と陸軍の介入を歓迎する。
 この動きは、中間派の全国労農大衆党に、とくに顕著だったようである。全国労農大衆党の杉山元治郎は、五月二十三日召集の第六十二回臨時議会における国務大臣の演説に対する質疑において、次のように演説をしている。「ともかく陸軍当局は都会労働者については、いわゆる労働争議が起きた時に、この出征軍人のために相当に努力をしたことは、私は感謝をせざるを得ない」と。
 この杉山演説の前の五月十四日には、全国労農大衆党代表の四名が陸軍省を訪問し、次の要請書を提出している。
 「出征兵士家族土地取上問題に関する要望書 出征労働者家族生活保障問題に関する労働争議において陸軍当局が、これを斡旋しつつあることは社会の関心をよびおこしつつあるが、農村においても出征兵士家族土地取上を巡って異常な社会戦が起りつつあることに注意を喚起し、出征農民家族の社会保障の為に努力せられんことを、目下解決未済の二、三の事実を具体的に記して要請する 昭和七年五月十四日 全国労農大衆党本部 陸軍大臣 荒木貞夫殿」。
 出征兵士家族の土地取上問題とは、主要な働き手の出征により小作料の納入困難とみた地主が、出征兵士家族の土地を取上げ、小作料の取れる他の小作人に代えようとして起こった問題である。当時の農村部で大きな問題となっていた。労農大衆党は、この問題にも介入するように陸軍に要請するのである。
 「満州事変」による出征兵士の家族の困窮は、大きな社会問題となっていた。『産業労働時報』三一年五月十日付は、出征兵士の家族問題を次のように伝えている。
 「最近満州への出征者が殆ど東北の凶作地から出ていたこと、従ってそのために如何に惨事が惹き起こされたかということについてはここでくり返すまでもない」「上海攻撃のための陸軍派遣には大部分予・後備役兵の人々が引き出された。彼等は二十五から三十位の働き盛りで一家の中の働き手である。而も兵士の殆ど全部は労働者・農民であるから、これ等の人々を奪われた家庭の困窮は推察に難くない」。そして、池貝鉄工所の労働者が、病気の父母と弟妹四人を残して出征、そのため一家の生活は破綻し、病気の母が井戸に身を投げた悲劇を伝えている。
 このような労働者や農民の家族の貧困は、「満州事変」にはじまる陸軍による中国侵略戦争が引き起こしたものに他ならない。しかし、労農大衆党などはその解決を、陸軍に期待していくのである。

 ▼3章―3節 侵略戦争の中での「労働者の解放」

 「一君万民の一大家族国家」―天皇の下では資本家も労働者も平等だという主張の下で、社会的不平等を国家の力で解消するという幻想が労働運動や無産運動を覆っていく。そしてその多くは、戦争総動員政策のなかに進歩的意義を見出し、これに積極的に協力していくのである。
 合法左派の『日本交通労働新聞』は、次のように戦争総動員体制への期待を表明している。
 「ともあれ、いまだ徹底していない恨みはあるにしても、資本家、事業主の営利追求本位の建前はここに『国家全体の利益』の上に立って制約を受ける、新しき体制の芽が生まれて来た」「精神的範囲を出ていない不十分なものであるが、産業報国会運動を通じて労使間の問題について政府は、従来の傍観的態度から進んで責任ある途に就こうとしている」(一九三八年九月号「戦時体制下に於ける労働組合の新任務に勇躍せよ!」)。
 少なくない共産主義者も、この幻想からは自由ではなかった。満州事変を引き起こした石原莞爾らが、一九三一年に組織した「東亜連盟協会」の例を見てみよう。
 石原らは、「欧米帝国主義の圧迫より東亜を解放し、数十年後のアメリカと世界最終戦に勝つために東亜諸民族の全能力を総合的に発揮するために日本を盟主とする東亜連盟を作」り、「自由主義政治が清算されて一国一党の全体主義政治が確立」され、一億国民が天皇の「聖断を信受」することを目指す。そしてこの中で、「満州国」の経済建設方針を踏襲して私経済に対して国家が計画的な経済指導を与え、重要企業に対しては経営の全般に対して国家管理をおこなうこと、農村復興として二町歩の耕地を保有させるために五百六十万農家のうち二百六十〜三百六十万戸を「満州」に移住させる政策を打ち出していく。
 私経済の統制と国家による経済政策を主張する石原らの運動に、多くの共産主義者も合流していくのである。日本ではじめてモスクワ大学へ留学し満鉄のマルクシストと呼ばれた宮崎正義、三〇年に八幡製鉄所争議を指導した全国労働大衆党の浅原健三、新潟県農民連盟で新潟県木崎村争議を指導した共産党員であった稲村隆一、青森勤労農民党で三五年の青森凶作地赤化事件で治安維持法違反によって検挙された淡谷優蔵らが、このファシズム運動に参加している。
 確かに、侵略戦争遂行のための総力戦体制の中で、労働者や農民の「利益」が反映された一面もまったくなかったわけではなかった。一九三〇年代後半から四〇年代前半の総力戦体勢の中で、上からの社会関係の平均化、近代化、現代化が推し進められていく。この中で、労働者や農民の経済的、社会的地位が、一定程度、相対的に向上していくのである。
 革新官僚や軍部が推し進めた新経済体制は、市場原理を矮小化し、計画経済を肥大化させていく。これは民有国営方式として具体化され、所有と経営の分離が推し進められていく。この中で、貨幣資本家=株主の地位低下と経営者・労働者の地位の向上が相対的に進んでいく。
 この所有と経営の分離をさらに徹底的に推し進めたのが、一九四三年の軍需省設置と民間工場の軍需会社指定であった。軍需省がすべての航空機を発注・生産し、企業の経営権は国家官僚の手に移されていく。四四年には軍需会社として民間企業の第一次指定がおこなわれ、航空機関連会社百五十社が指定される。これは四五年までに金属・石炭・電気などへと順次拡大し、その数は五百七十一社に達していく。
 これらの企業では、国家官僚が民間企業の経営内部に介入し、強力な統制をおこなっていった。民間企業の社長を生産責任者とし、労働者には服務義務を課して生産・労務管理・賃金調整まで一切の命令権、さらには企業の重役の解任権や懲戒権まで持った。株主に対しては、利益金処分・役員選任などの株主権を停止し、配当も縮小制限した。一方でその利益を、経営者や労働者で配分する利益分配制度が実施された。
 農村の場合にも、生産者(小作人)重視の政策が打ち出される。一九三九年に小作料統制令、四〇年には米穀国家管理がおこなわれ、生産者農民を疲弊させる地主による高率な小作料制限が加えられるとともに、自由な米穀市場から国家が直接米価を公定していくことになる。四一年には生産者米価を地主米価・消費者米価より高くする二重米価制が実施され、生産者保護政策が強化されていく。
 このような生産者保護、地主抑制の中で、実質的小作料率(地主の取り分)は、四一年の48・9%から四六年(農地解放直前)には13・2%と減少していくことになる。

  ●4章 労働運動における反戦と国際連帯

 しかし、戦前の労働者が、旧日本帝国主義の侵略戦争と対峙しなかったわけではない。日本の労働運動や社会主義運動は、一九〇四年の日露戦争からはじまる反戦運動をたたかいぬいてきた。
 日露戦争に対しては、交戦国のロシアの社会民主党と連帯した反戦運動が取り組まれている。
 一九〇四年三月十三日付『平民新聞』に、幸徳秋水は「露国社会党に与うる書」を発表し、「諸君よ、今や日露両国の政府は、各帝国主義的な欲望を満たすために、浸(みだ)りに兵力の端を開こうとしている。けれども社会主義者の眼中には人種の別はなく、地域の別もなく、国籍に別もない。諸君と吾等とは同志であり、姉妹である。断じて闘うべき理由はない。諸君の敵は日本人にではない。実に今の……軍国主義者である」と呼びかける。
 これに対してロシア社会民主党は、機関紙『イスクラ』において、「日露両国の好戦的叫声の中で、彼等の声を聞くは、実に善美世界よりやって来た使者の妙音に接するようである。……軍国主義撲滅、万国社会党万歳!」と返答を寄せる。
 そして、八月十四日からアムステルダムでおこなわれた第二インターナショナル第六回大会に片山潜が参加。ロシア代表のプレハーノフと片山潜が副議長に選ばれて、壇上で握手を交わし、参加者の拍手喝さいを浴びる。
 大会では、片山が日本社会主義者の反戦提案を紹介している。そして、これを受けて、フランス代表が「いまやツァーリズム政治が戦争のために打撃を受けたるにさいし、吾人社会党は、資本制度と政府のために犠牲とせられ、虐殺せられたる日露両国の平民に対し、ここに謹んで敬意を表し、各地社会党の力によってこの戦争の蔓延と永続とに反対せんと欲す」という決議を提案し、満場一致で可決されるのである。
 一九二七年の田中義一内閣による山東省出兵に対しても、無産運動各派はこれに対する反対運動を組織していた。そこでは、左右で「中国共産党か南京国民政府か」という違いはあったようだが、中国の抗日運動との連帯も掲げられていた。
 一九二七年の第一次山東省出兵に対しては、労働組合評議会、労農党、日本農民組合本部などによって「対支非干渉同盟」が組織される。これは、中国国民党駐日総支部の呼びかけに答えたものであった。四月には「対支非干渉同盟準備会」が組織され、メーデーでは「対支非干渉」のスローガンがかかげられる。
 「対支非干渉同盟」は五月に正式に結成される。東京、大阪、京都、名古屋、神戸、青森、岩手、長野、静岡、奈良、三重、岡山、福岡の各地方の代表者、中央組織として労働組合評議会、出版、鉄道従業員、東京合同、東京市従、関東金属、関東電気、統一労働同盟などの労組、労農党、無産青年同盟、日本農民組合本部、同東京出張所、さらに台湾農民組合、関東俸給生活者組合、無産者新聞、プロレタリア芸術、産労などがこれに結集する。
 本部から「対支非干渉ニュース」を発行して出兵計画などを報道し、各地でそれに反対する闘争が展開される。「出兵反対」「派遣軍の引き上げ」「支那から手をひけ」をスローガンに七月二十五日〜三十日、八月九日〜十五日の闘争週間、現地視察団の派遣運動、十一月七日のロシア革命十周年記念闘争などが取り組まれていく。
 さらに、一九二八年の第二次、第三次の山東省出兵に対して、『無産者新聞』は、反戦同盟の結成を呼びかける。同年に反戦同盟関東準備会が結成され、これは国際反帝同盟支持運動へと発展していく。国際反帝同盟は、一九二七年に創立され、正式名称を「国際反帝国主義・民族独立支持同盟」という。二九年に国際反帝同盟の第二回世界大会が開催され、これに片山潜、千田是也、平野義太郎が日本代表として参加するのである。
 この過程で反戦同盟が中心になり七月に反戦同盟日本支部準備会が組織され、十一月には正式に発足する。
 これには、政治的自由獲得労農同盟、赤色救援会、無新、全協、全農、無産青年新聞社、日本無産芸術団体協議会、自由法曹団、関東消費者組合有志、労農青年同盟有志、社会青年同盟有志、朝鮮労働総同盟、台湾農民組合、朝鮮新幹会有志、朝鮮プロレタリア芸術連盟、国際文化研究所、台湾文化協会などの各団体や大山郁夫、千田是也、河上肇、鹿地亘などの個人が参加する。
 だが、労働者や農民の反戦運動は、「満州事変」以降は差別排外主義と国益主義に取り込まれ、急速に解体していくことになる。保阪正康氏は、「私たちの国は、わずか五、六年でファシズム体制をつくりあげた」(『毎日新聞』掲載「昭和史のかたち」)と指摘している。
 日中戦争下の一九三七年の第二十回総選挙では、無産政党は三十六議席を獲得し、帝国議会の第三党に躍り出ている。労働者や民衆の間に、一定の反軍部・反戦意識は存在し続けていたことは間違いない。このような条件をいかしきれないままに、自ら侵略戦争とファシズム体制の中に身を置いていくのである。
 ファシズム運動の中で実現しようとした労働者・農民の「利益」とは、侵略戦争によるアジアの労働者・人民からの搾取と収奪によって実現しようというものであった。ここでは、アジアの労働者・民衆の「利益」が、日本の労働者・農民の「利益」と対立させられていくのである。そして、アジアの反帝国主義運動は日本の利益を不当に奪うものだという差別排外主義と国益主義が日本の労働者・農民の上に打ち下ろされていく。日本の労働運動などの無産運動は、日本帝国主義からの解放を求めるアジアの労働者民衆と切り離され、国益に取り込まれていのである。
 この点では、帝国主義足下の労働運動にとって、自国帝国主義の侵略とたたかい、これからの解放を求める植民地や占領地の民族解放闘争への連帯―このたたかいに不断に自らの階級的な利益を置ききることの重要性は、いくら強調してもしすぎることはない。
 そしてこれは、八十年前の話だけではない。安倍政権は、日米安保体制の強化を軸とし、「戦争のできる国家」を目指して、日本社会の全面的再編をおこなおうとしている。そして、差別排外主義と国益主義をもって、この下に、労働者・民衆を統合しようとしているのだ。
 連合結成―労働戦線の右翼的再編に対して、各地で階級的労働運動の再建をかかげた努力が継続されてきている。このような努力と結びつきながら、労働運動の反戦運動、そして国際連帯運動の前進をかちとっていこう。

    【※注】―文章中の引用については、一部を著者の責任で、現代文に直しています。



 

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