共産主義者同盟(統一委員会)






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   ■中国社会主義建設で問われたもの
                        
西村徹
       
 


 
 中国では昨年の共産党第十八回大会、今年の全国人民代表大会の開催を経て、習近平指導部が発足した。前胡錦濤指導部からの未解決な社会的諸矛盾―貧富の差の極端な拡大、社会保障の立ち遅れ、党・国家官僚の腐敗汚職の増大をはじめ経済的・政治的・社会的に多くの難題を抱えての船出である。しかし、これらの問題が個別対処の政策としては解決ができず、根本政策である「改革開放」「中国の特色ある社会主義」やそれを推進する党のありかた、政府のあり方にまで手をつけねば前進しないことは以前の政権があきらかにしてきたことであった。
 党指導部はとりわけ一九九〇年代以降、経済成長を第一にして、そのための「安定、団結」を名分にして、そのもたらす諸矛盾を放置し、あるいは権力で抑圧してきた。また、これらに関する党内外の諸論争を公にすることを封印し禁止してきた。そのもとで経済成長は遂げたが、社会に大きなひずみを生んでいる。社会的格差、貧富の差は拡大し、幹部の汚職腐敗事件はとめどなく増大している。このなかで、政府の統制をかいくぐって労働者人民の不満、抵抗はインターネット上に流れ、権力の不法な濫用にたいする民主的権利の擁護の運動が抑圧を打ち破って推進され、工場における劣悪な労働条件・賃金などに対する抗議運動が存在する。これらの言論はいまや政府に脅威を抱かせるまでに成長していると同時に、そのなかから改革開放政策を問う論争、さらにはそれを推進する党のあり方を問う部分が出現しているのである。
 矛盾が深化するなかでこれらの論争・運動も深化し、押しとどめることができないものになっていく。そしてその中から労働者人民の社会主義を追求する部分か再び出現するだろう。
 本来、社会主義は、プロレタリアートが実質的に権力を握り、政治・経済・社会を運営していく主体として経験を積み、差別をなくし団結を広げ他階級を指導することができる階級として成長していくことである。一国で国家権力を握ったプロレタリアートが指導部の変質や特権化を許すことなく、プロレタリアートの独裁を強化し、国内経済建設を行ない、国際主義的任務をはたしつつ社会主義―世界革命を展望していくことである。あわせて国際的に他国のプロレタリアートの運動を実際に支援していくことである。しかし、革命の歴史は、プロレタリアートが権力を握ったにもかかわらず実際に政治経済を管理し運営することに敗北した歴史であった。
 われわれはその敗北の歴史から教訓を学ばなければならない。その敗北を規定したスターリン主義の原則的な誤りを批判してきたが、さらに、社会主義にむけた過渡期の建設路線について、とりわけ労働者が政治経済を実際に管理する問題について教訓化する必要がある。中国人民の文化大革命やそれに続く改革開放の経験と論争は多くの教訓を与えているのである。

 ●1章 社会主義への過渡期建設にむけたレーニンの道

 レーニンはこの労働者による管理の問題をどう考えどのような路線を打ち立てたのだろうか。
 プロレタリアートは資本主義のもとで支配され統治されてきた。資本は科学の成果、機械・資源や労働力の配分を自分の力として握ってきた。その国家権力をうちたおしたあと、プロレタリアートは意識的に活動し学びながら社会を建設し統治していかねばならない。結局はプロレタリアートが従来は搾取の機能としてあった監督の機能をもひきうけねばならず、科学技術を習得し、平等な管理の能力を獲得し、執行の機会をつくることによって解決するしかない。資本の指揮に服従していたプロレタリアートが目的意識的に生産し労働し、分配し、管理し、統制することを経験をとおして習熟していくのである。もちろん、そのための能力、時間、条件をあらかじめ保障されなければそれは空語である。すなわち生産的労働者の労働日を短縮し、監督労働を経験する機会や教育や労働力の養成をする時間と条件を作らねばならない。そのために、どうするのか。労働生産性の増大による労働時間の短縮が必要であり、旧資本家階級や官僚層を含めて生産的労働に従事する義務を果させねばならず、一部は精神労働・監督労働従事者の生産的労働義務によって条件を作り出すのである。
 レーニンは社会主義を労働者階級が階級として成長し、統治能力を獲得すべきことであると強調した。平等に労働に参加し、指揮監督し、分配することをめざし、党内においても論争し実行しようとした。レーニンはプロレタリア民主主義についても「コミューン型国家の四原則」(公務員の労働者並み賃金、リコール制、決議機関と執行機関の一体化、全人民武装)にとどまらなかった。機械制大工業が監督・報告の仕事を単純化し、その条件を利用して社会の全成員が順番に統治することをめざした。そのための基礎として教育がみなに平等に施されなければならないことを主張した。
 もちろん権力をプロレタリアートが掌握しソビエト国家ができたとしても、まだプロレタリアートと政府官僚機構の間には矛盾があり格差がある。まだ社会の全成員が統治に平等に参加しえず、階層の違いがあり教育の差や監督・管理の経験の差がある。このような段階にあってはプロレタリアートは政府から独立した立場において労働組合によって自己の利害を守る必要があり、下からの政府への統制と監視が必要である、と主張した。いまだこれらの管理・統治能力が全員の習慣や能力になっていない場合には、監督・指揮活動の独立化・固定化の危険が存在する。ロシア革命初期には労働者の経験不足が存在し、生産を維持するために企業長の任命制や単独責任制などを採用せざるをえなかった。それに対しては監督・専門家に対する労働者からの点検、統制が必要であり、労働運動や社会運動のなかで監視し、批判し、そのことによって労働者の統治能力を高める訓練を行わねばならない、とレーニンは考えた。生産においては、工場における適正な労働力編成を行い、自主的に標準的な労働強度と熟練度を決め全体が守ること、消費者のために品質を確保し改良していくこと、生産手段や原料を節約し改良に留意することなどが要求される。分配においても社会に与えた労働時間に応じて受け取る。プロレタリアートは経済計算などをつうじてこれらに習熟せねばならない。かれは市場の利用、独立採算制、生産と投資の全国的計画も、生産性の増大の観点からだけではなく、プロレタリアートが労働を監督する能力を向上させる観点から位置づけたのである。
 これらの結果として国家の死滅を展望していく。ブルジョアジーを一掃した後に、プロレタリアートが社会生活・労働過程において規律を守ることが習慣となり、全成員が監督業務をにない労働力の養成も平等に行なわれるようになるにつれて国家の死滅は進行していく。監督や社会の協同業務が一部特定の人々の職業―官僚機構になる必要がなくなり、国家の強制機能が死滅するのである。
 しかし、社会主義にいたる過渡期において、プロレタリアートが自主的・意識的・計画的に生産を組織する問題は、レーニンの死後、スターリンによって一般的な「計画経済」にすり替えられ、専門家、技術者による行政・指揮・命令システムによる生産になった。つまり生産の管理や監督が党ー国家官僚に独占され、そこから経済建設の計画と命令を行い、労働規律も行政機関の指令で行なわれた。この結果分配も不平等になった。プロレタリアートが自主的・意識的・計画的に生産を組織する方向とは逆の方向である。これらを合理化するためにスターリン主義官僚によってイデオロギーが独占され捏造された。差別は労働過程の機械化と生産性の向上のなかで自動的に解決されるとされた。〈労働の質と量による分配〉も監督・指揮労働が特権的に分配をうける理由とされた。さらにこの状態がうみだす政治的・経済的対立に対して、プロレタリアートが官僚を監視し批判する活動が抑圧された。スターリンはそれを、労働者国家だから労働組合と国家との間に矛盾はないはずだと強弁した。その後、ブルジョア出身の専門家ではない革命後の労働者出身の技術者、専門家、職員も増加したが、プロレタリアートの自主的生産とは逆に監督・行政の任務が固定化するなかで生産性の向上と行政指揮の拡大のみが進んだのである。
 政治的にも、ロシア革命の当初はボルシェビキの一党による支配を予定していたわけではない。党大会における「分派の禁止」の決議も、情勢との関連で一時的なものとされていた。しかし、これはボルシェビキ党内にあって、それ以降も充分に発展させることことができなかった。そして、これはスターリンの路線のもとで反動的に固定化されたのである。
 スターリンの執権以降、労働者による実質的な管理の問題は、ソ連をはじめとして、レーニンの夢物語として片付けられてきた。ソ連にあっては、管理が生産性の向上によって自動的にでき、共産主義にいたると説明されたのである。労働者の管理を制度的に保障することは決定的に重要であるが、いままでの政治権力を握ったプロレタリアートはどこでもこれを解決できておらず、今にいたる課題である。

 ●2章 文化大革命における社会主義建設をめぐる論争と闘争

 文革とその後の改革開放へと至る時代の一連の論争は、さまざまな争点があったにしても本質的に社会主義建設にむけての過渡期をどう組織していくのか、をめぐって争われた論争であった。中国の党は文革を悲惨な災禍であり極左の誤りであったという総括でもって文革についての論議を統制している。しかし、文革は党・政府の指導部以外の人民がはじめてこの問題について広く発言しえた機会であった。それはプロレタリアートが国家権力を掌握したのちに社会主義を建設していく過程で解決すべき困難な問題に逢着せねばならないことをあらわしていると同時に、われわれが理論的原則を対置するだけではその問題を解決できないことをも示している。文革について全面的に総括、批判することは別途行なわねばならない。しかし、それがいかに悲惨であれ、欠陥をもつものであれ、偶発的な過去の極端な誤ちの問題にしてしまうことはできないこと、今も続いている問題であることは明らかだ。われわれはその現実に行なわれた国際プロレタリアートの実践を教訓化する観点から教訓を汲み取らねばならない。
 文革は多くの人々に権力闘争として評価されている。もちろん、その側面は大きく存在するが、背景には、その以前の「大躍進政策」の悲惨な敗北があり、またその後の「調整政策」の過程で露呈してきた矛盾が存在したのである。
 それは国家においても、また工場においても看過できない支配・抑圧や不平等が存在したことである。
 一九四九年の革命直後は新民主主義路線にもとづいて、農業が支配的な中国でまず反帝国主義・反封建主義の革命を行い、一定の生産力を獲得してのち社会主義革命に進み共産主義にいたるという道が展望された。しかし直後から帝国主義による中国包囲網が強化され、国際環境が緊張した。五〇年朝鮮戦争がぼっ発し、中国は義勇軍を動員して米帝を中心とする帝国主義陣営と戦った。やがて米ソ平和共存のなかでソ連との確執があらわれ、中国に漸次的に社会主義建設にとりかかる予を与えなかった。毛沢東は社会主義化を急ぎ、「大躍進政策」として高い経済目標を掲げて農業の集団化と工業生産の増強を推し進めた。しかし、現実と乖離したこの政策は経済に大被害をあたえ多くの餓死者をもたらし無惨な敗北に終わった。この結果、ケ小平、劉少奇などのいわば実務派の党―国家官僚による路線が「調整政策」として、政治経済の実権を握った。そして、農業において生産請負責任制を実施し、市場を自由化し、工場では物的刺激策によって大躍進の災厄から農業・工業の生産を回復させた。しかし、他方で、工場労働者の間でも農民の間でも格差を増大させ、社会に広範に幹部の特権や官僚主義を定着させた。生産現場においても労働者間の差別、抑圧が存在した。これらの矛盾に対する人民の不満も増大した。毛沢東はこの過程を集団制の解体―資本主義化として危惧の念を持ってみていた。国際的には中ソ論争が開始されており、ソ連共産党の路線にたいする批判が危惧を加速した。毛沢東はこの人民の不満と結合し、みずからの社会主義の路線を貫徹すべく劉少奇らからの奪権をめざして文化大革命を開始した。われわれは党内闘争、権力闘争に反映されている人民と権力の矛盾や階級矛盾、それをめぐる闘いをこそ基軸にみなければならない。
 中国の文化大革命においては、この労働者による管理と労働の組織化の問題が大きく論じられた。
 いわゆる四人組は「調整政策」のもたらした現実を問題にした。かれらは〈幹部と大衆の間には分業のちがいがあるだけで幹部の特権は許されない〉〈生産における人と人の関係は生産手段の共有性が成立したのち平等な関係になったが、旧い管理制度・ブルジョア的な思想が平等を妨げている〉と見た。そして、管理制度と闘い、ブルジョア思想と闘うことによって旧社会の残した関係を打破してただちに管理の平等を実現しようとした。ここにおいては専門技術や科学技術、ノルマや労働規律などはブルジョア思想として批判された。また、専門家のより高い報酬、外国の技術、輸出、技術改良、労働日の短縮、労働生産性の向上なども売国政策、資本主義の復活として思想闘争の対象とされた。しかし、プロレタリアートが自主的・意識的・計画的に生産を組織することはイデオロギーの変革一般ではできない。四人組は合理的な経済計画や労働基準、規律をもって労働し管理する活動などは提起できなかったのである。現実にある技術的、物質的立ち遅れを克服するために専門家に学ぶこと、外国の技術に学ぶこと、資本主義の残した最新の技術にまなぶことを拒否した。また、プロレタリアートがそれらを習得する時間を確保する条件でもある労働生産性の増大にも対立した。かれらは実務官僚派と異なる経済建設路線を提起できず、〈労働者は主人公である〉〈企業経営は政治工作を第一とし、金儲けのためでなく革命のためにする〉と宣伝することしかできなかった。
 その結果はどうであったのか。官僚・専門家による企業の排他的管理は変わらず、労働者大衆の積極性を引き出すことはできなかった。
 われわれは今これらの弱点や限界を指摘することはできる。しかし、翻って見れば、条件、規模は異なれ、日本の六〇年代の新左翼運動も同様な「急進主義」ともいうべき限界をもっていたのである。
 文化大革命で四人組が敗北したのちも、ケ小平が指導権を獲得し、文化大革命の総括と改革開放政策を打ち固めていく過程で論争は継続していた。七八―七九年の「北京の春」を頂点に、勤労者が国家、企業を管理する権利について、労働者も平等に管理労働に従事する義務や管理者が生産的労働へ参加する義務、労働者にストライキ権を保障し管理者・専門家を選挙・解任する権利、などについて、党内外でさまざまな論議が行われた。しかし、ケ小平が指導権を確立して後、壁新聞、集会、デモは規制が強化され、論議は抑圧された。それは在野や公式メディアの外で継続されてきたのである。

 ●3章 改革・開放路線のもとでの矛盾と論争

 一九七六年毛沢東の死去まもなく、文化大革命を象徴した四人組が逮捕され、十年にわたる文革は終了した。文革は八一年党によって公式に〈全国全人民に大きな災厄をもたらした毛沢東晩年の重大な過ち〉と全面的に否定された。
 ケ小平は一九七八年華国峰から党の指導権を奪い、いわゆる改革開放政策を開始した。その後、文革とはまるで逆の現実が進行した。人民公社が廃止され、農家の生産責任請負制が導入された。民営企業が容認され、外資の導入や外国技術の購入も行なわれた。市場も自由化された。ケ小平は「社会主義は生産力の向上である」として、論争を回避した。論争がただちに権力闘争となり党の分裂につながることを危惧し「安定団結」を強調したのである。
 しかし、計画経済のもとで一部を市場化すれば、政府や国有企業の実権を握る党幹部が特権を利用し不法な利益をえる構造を作る。さっそくこの特権を利用して金をもうける「官倒」が発生し市場経済への転換に苦しんでいる人民の怒りの的になった。人民の間に政治改革の声が広まり、学生の民主化運動が高まっていった。そして八九年の胡耀邦の追悼をきっかけに百万人のデモが組織され、解放軍が投入されて鎮圧するという天安門事件がおきた。天安門事件は決定的に党・国家と大衆の紐帯を裂いた。天安門事件ののち、党内左派の攻勢や九一年のソ連解体に危機感を抱いて、ケ小平はみすからも掲げていた政治改革(党と政府の分離、人民との対話制度確立)の論議を禁じた。そして、九二年南方を視察し、経済成長の加速を呼びかけた。保守派からの「資本主義か、社会主義か」という批判に対し「生産力向上になるなら何でも行え」と対抗した。ケ小平は政治的には共産党一党支配を堅持し、経済的にはいわゆる党内「保守派」の反対を抑えて市場経済を中国で拡大した。
 以降、党は「社会主義市場経済体制に関する決議」(二〇〇三年)をおこない、株式制を承認した。その結果、重要な産業は国有企業にとどめて党と政府が株式を握り、それ以外は民営化された。こうしてかつて全人民の財産であったはずの国営企業その多くが、従来の管理者であった党幹部が株主となる民間企業にかわった。
 一般的に、経済の停滞という現実を突破するために、プロレタリアートの独裁のもとで市場を利用し、あるいは資本主義的手法を部分的に利用し、それによって社会主義の物質的基礎を作ろうとすることはそれ自体否定することはできない。だが、その手法が成功するにつれて小生産者・小ブルジョアジーの勢力も増大するし、社会主義の目標は掘り崩されていく。したがって、プロレタリアートが経済の管制高地を握り、その手法の性格、目的が率直にプロレタリアートに提起され、プロレタリアートからの監視、批判などの統制が実行されねばならない。中国においてはこれらとはまったく切断された「社会主義市場経済」であり、改革開放であった。党の官僚機構は資本主義化をおし進め有産階級を保護する役割を果たしてきた。共産党の一党支配によって人民の民主的権利が制限され、それはとりわけプロレタリアートの階級的成長に大きなくびきになっている
 二〇〇二年には党大会で江沢民が提起した「三つの代表」論が党規約のなかに採択された。これは、党を〈先進的な生産力、先進的な文化、もっとも広範な人民の利益の三つを代表する〉と規定するものである。これによって今まで入党できなかった私営企業家が「先進的生産力の代表者」として入党し、党のなかで企業家党員は大幅に増加した。かれらを抜きにして社会運営ができない状態の反映でもあろう。これは国外では、共産党のなかで経営者層、国営企業を経営する上級の党幹部の発言力を強め、労働者・農民の階級政党から国民政党へと転換する動きであるとして報道された。
 この改革・開放と社会主義市場経済は、年平均10%近いGDPの伸張という経済成長のかげで、社会矛盾を増大させていった。しわよせは本来の党の支持基盤であった農民と労働者にのしかかった。都市では多くの労働者が企業改革の名のもとにリストラされ、失業させられた。とりわけ人口の七割をしめる農民は所得の減少に苦しんでいた。農民は農村戸籍に縛られており、都市戸籍に移る権利はない。農地を耕作する権利はあるものの土地は村の集団所有であり、実際には農村党幹部が管理している。改革開放のなかで農村党幹部が上級政府のコネを使って土地収用の許可をとりつけて、わずかの補償金で農民をたたき出し、農地を転売して大きな利益をえる事件が各地でおきた。また、農村の党幹部は「地方政府」の赤字を補うためにさまざまな名目をつけて農民に負担を強制した。農村で生活できなくなった農民は「農民工」として沿海部の工業地区に出稼ぎに出かけた。その総数は二億人に及ぶといわれる。その労働は中国の輸出主導の経済発展を低賃金・無権利でもって支えるものであり、その上、都市戸籍がないために社会福祉、教育、住宅などの保障から排除された。
 改革開放のかげでは、一部の富める層と貧しい農民層・農村出身労働者を生み出した。それはまた、グローバリゼーションが生み出した、持てる者と持たざる者への人民の二極分化の現れと言いうる。
 もちろん、農民たちはこういう状況に抵抗をしている。各地で農村幹部の腐敗、重税、土地取り上げ、不合理な負担要求に抵抗する集団陳情やデモを組織しはじめた。それは政府統計ですら二〇〇六年で全国で九万件に上り、その後も増加の道をたどっている。
 また、地方都市においても開発や都市化の名のもとでの地上げ、土地収用や環境汚染にたいする集団行動・抗議行動が増加している。言論・表現の自由に制約があるなかで人民は法を駆使して異議申し立てをしたり、激しい直接行動を行なっている。それにたいして政府は社会の安定を損なうものとして、法の枠を超えて厳しい弾圧をうち下ろした。背景には改革開放のなかで既得利益を享受する者がますます豊かになり、その恩恵を受けられない者との格差が開くという現実がある。固定資産税、相続税がないなど税制による所得再分配も充分に機能しない。社会の貧富の格差を示す「ジニ係数(0が社会の富が完全平等をあらわし、1が富が一人の手に握られていることを示す)」は0・5の危険なラインに達しているとの推計もある。
 二〇〇八年、米国発の金融危機は、この弱い立場の農民工にもっとも激しい打撃となった。沿岸の工場は倒産に見舞われ、多くの農民工が失業した。「和諧社会」(調和のとれた社会)を掲げていた前胡錦濤政権も極端な格差と農民の不満に対して、農民政策を重視し農民工の状況の改善にとりくんだ。「都市と農村双方に対する社会保障体系の確立」を掲げて、農地にかける農業税を廃止し、農民に負担を強いてきた農村義務教育を公費負担するなど部分的には成果をあげてきた。しかし、いまだ医療保険、養老保険、生活保護などは内容も不充分であるといわれている。
 政府は金融危機対策として四兆元(約六十兆円)という多額の景気刺激策をとった。これは内陸中心に民生用(安価な住宅建設、医療、衛生、教育)の投資として打ち出された。にもかかわらず、内陸部のインフラ整備、都市開発などにかたより、投資ブームをよびおこした、とされている。
 これに対し、二〇〇九年、党の十六名の老幹部は意見書を公表して、四兆元の投入に同意したうえで、〈これを利用して特権と腐敗分子が私服を肥やし、党と人民の関係を破壊し、社会矛盾を激化させること〉に懸念を表明した。そして〈決定と実施の全過程を公表し、すべてのメディアに追跡報道させること〉を求めた。
 以上の粗略な概観でもみられるように、改革開放路線は当初から度々の転換の局面において党内外で激しい論議を呼んでいる。党と国家官僚が資本主義化のもとで一丸となって進んでいる、という状況とはいえない。
 広く知られている主な議論としては一九七八年に「真理の基準」論争があった。ケ小平は「実践は真理を検証する唯一の基準である」として〈毛沢東の指示をすべて〉とする華国鋒を打ち破った。人民は政治経済の改革を支持し壁新聞などで民主化を求めて立ち上がったが、党―政府中枢の批判に進むなかで弾圧された。
 八九年には天安門事件がおこり、改革をめぐる党内の闘争を全世界に明らかにした。学生、知識人はじめ労働者、党内「改革派」も参加しはじめ、ケ小平は動揺する統治体制を総書記の解任と戒厳令でのりきった。
 九二年には私営企業と個人経営を認める「社会主義市場経済」という提起をめぐって「社会主義か資本主義か」の論争が戦わされた。ケ小平は〈生産力至上主義であり資本主義だ〉という批判にたいして「社会主義・資本主義の区別は計画経済か市場経済か、ではない」として決着をつけ、「南巡講和」で改革開放路線を推進するよう号令をかけた。
 九〇年代中期には増大する私有経済のなかで「公有制か私有制か」の論争がおこなわれた。九五年には改革開放政策を激しく批判する「万言書」と呼ばれる文書が党内に配布され反響をよんだ。それは国有部門の衰退と逆に外資を含む私営部門の拡大を指摘して社会主義体制とはいえない、と断じ、貧富の差の拡大、党・政府幹部の腐敗の深刻化を批判するものであった。また、資産階級の台頭を指摘し、党員がマルクス主義へ無関心な現状を批判するものであった。
 九〇年代中期は改革開放政策がもたらした格差拡大などの矛盾が社会的に大きな問題になり、改革開放を疑う気運も増大した。以降は農民・都市労働者住民の抵抗運動が増加し、党外のインターネットでの言論・論争も活発化していった。
 二〇〇二年には前述した江沢民の「三つの代表」論が資本家の入党の是非をめぐって論争されたし、二〇〇九年には前述の老幹部の意見書も提起された。
 社会的な論争の中からは一九九〇年代から新左派と総称される潮流が登場し、自由主義派と激しい論争を行なった。概括的にいえば新左派は〈市場経済そのものが問題であり格差や不平等や腐敗の原因である〉と論じた。他方自由主義派は〈経済改革そのものが社会の歪みや格差・腐敗をもたらす原因ではなく、むしろ改革の不徹底が原因である。旧権力体制が特権を維持して社会資源を独占するなど市場経済に巣食い歪めているのである。したがって、政治体制改革を推進して特権を消滅させ権力への監視を強化し、経済改革を徹底することで解決しうる〉と反論した。そして〈新左派の論は階級闘争を要とする文革をくりかえすことになる〉と批判した。これらの言論は党の統制と監視をくぐって拡大した。
 中国には三層の言論があるといわれる。共産党の一党支配のもとで諸階層の利害対立・調整はまず党外には明らかにされない党内指導部の論争として反映する。第二に、知識人や中間層のインターネット言論があり、第三に労働者・農民大衆の言論であり、社会矛盾にたいする運動、政府批判の運動として、またネットでの言論として行なわれている。インターネット利用者は世界最大の四億人に達したといわれるなかで、在野の言論空間は拡大の一途をたどった。中国政府はこれを警戒し統制してきた。しかし、これを無視できず、権力への監視や批判などをつうじて一部この言論が政府の政策に影響を与えている事例もある。
 中国がグローバリゼーションの大波のなかにますます能動的に入り込むなかで、労働者人民は巨大な矛盾に包囲され立ち上がらざるをえない。この矛盾に対してそれに対抗する人民の抵抗が存在する。抵抗闘争と並んで、七〇年代以降の左右の論争も社会の底流においていまだ持続している。それは権力によって統制され表面化するには至っていないだけである。
 中国革命以来の中国プロレタリアートの力はいまだ失われていない。社会主義市場経済の深化は社会の多様化、分裂をもたらした。それを統合するべき社会主義イデオロギーは無力となり、経済成長のみとなっている。中国社会主義の未来は人民の抵抗からうまれ、それが在野の言論に結びつき、党内にも影響していくであろう。
 そのための土台として、まずわれわれは中国人民への帝国主義の攻撃と闘わねばならない。中国への米・日帝国主義の介入、対中包囲・解体攻撃、グローバリゼーションへの徹底的な武装解除要求、人民が共同でたたかい、とりわけ、日帝の侵略策動、排外主義の扇動とたたかうことはわれわれの義務である。そのなかで中国プロレタリアートも階級としての形成を促進し、社会主義建設の主体として前進する条件を握ることができるであろう。これと連帯したたかうことによって国際プロレタリアートの戦列を強化しなければならない。


 

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