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■労働者階級人民の権利奪う 自民党改憲草案徹底弾劾 昨年十二月の総選挙において、自民党・日本維新の会・みんなの党などの改憲勢力は、衆議院の三分の二以上の議席を確保した。安倍政権は、七月二十一日に予定される参議院選挙に圧勝することによって、いよいよ憲法改悪に突き進もうとしている。参議院は、三年に一度、定員二百四十二人の半数を改選する。七月参議院選挙における非改選議員(任期二〇一六年七月二十六日)の会派別内訳は、自民党四十九議席、民主党・新緑風会四十二議席、みんなの党十議席、公明党九議席、日本共産党三議席、社民党・護憲連合二議席、生活の党二議席、日本維新の会一議席、新党改革一議席である。改憲問題への態度が不明確な公明党を別としても、改憲を推進しようとする自民党・みんなの党・日本維新の会・新党改革の四会派で六十一議席を占めている。参議院の三分の二の議席は百六十二議席であり、七月の参議院選挙でこれらの改憲勢力が百一議席以上を確保すれば、参議院においても三分の二の議席を超えることになる。憲法改悪阻止闘争は、まさにいま正念場を迎えつつある。 安倍政権は、これまで国会における改憲発議の要件を衆参両院議員の三分の二以上の賛成と規定した憲法第九六条を改定し、改憲発議の要件を衆参両院議員の二分の一以上の賛成へと緩和することを先行させ、これを突破口として全面的な改憲の発議に向かおうとしてきた。しかし、この九六条先行改憲案は、最新の世論調査で半数以上の有権者が反対していることが明らかになり、安倍政権がこの案を維持するのかどうかはわからない。いずれにせよ、七月参議院選挙において、自民党をはじめとした改憲勢力による三分の二の議席の確保を阻止し、山城博治さんの当選をかちとり、安倍政権による改憲策動を葬り去っていかねばならない。本論文では、二〇一二年四月二十七日に自民党が決定した「日本国憲法改正草案」(以下、改憲草案と表記)への批判を提起する。実際に国会に提出される改憲案は、会派間の調整によってさまざまな変化があるとしても、この改憲草案が自民党のめざそうとする改憲の内容を明確に示しているからである。 改憲草案は、形式的には現憲法の改定であっても、実質的には現憲法の破棄と新憲法の制定にほかならない。現憲法の基本理念は前文に表現されており、その基本原則は「主権在民」(前文)、「平和主義」(前文、第九条)、「基本的人権の永久・不可侵」(前文、第九七条)、「平和的生存権」(前文、第二五条)などであり、「権力制限規範」という基本性格を持つ憲法である。改憲草案では事実上の新憲法を制定するために、現憲法が立脚する基本理念を表現した前文を全面的に削除して書き直し、ほぼ全章において現憲法を改悪するものとなっている。このような改憲草案に対する基軸的な批判を以下のように提起する。 ●1章 憲法性格「権力制限規範」の解体 第一には、憲法の性格を「権力制限規範」から転換させ、「国民主権」を否定し、立憲主義を破壊しようとしていることにある。改憲草案の反動性は、個々の条文の改悪にとどまらず、憲法の性格そのものを大きく転換させていることにある。近代憲法は、フランス革命など一連のブルジョア民主主義革命を通して形成されたものであった。これらの近代憲法は、私有財産制の擁護などブルジョア憲法としての根本的な限界を持つものではあったが、主権者を人民として規定し、国家権力によって個人の基本的人権が侵害されないように権力の行使を制限するという性格、すなわち「権力制限規範」としての性格を持つものであった。言い換えれば、憲法を主権者である人民による国家権力に対するしばりだとするもので、近代憲法における立憲主義の基礎はここにある。 現憲法もまた、このような近代憲法としての性格を持つものである。現憲法が、その前文において、「われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」としていることは、そのあらわれであった。また、第九九条において、憲法尊重・擁護義務を「国民」には課さず、「天皇及び摂政、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」にのみ課していることも、「権力制限規範」という性格からして当然であった。だからこそ現憲法は、天皇制の擁護(第一条)や憲法が保障する基本的人権の対象を「国民」に限定していることなど、近代ブルジョア憲法として見ても重大な限界を持つものではあるが、労働者人民の政府・国家権力に対する闘いの法的な根拠として活用されてきたのである。 改憲草案は、このような現憲法の「権力制限規範」としての性格を憎悪し、憲法を国家権力をしばるものから「国民」をしばるものへと根本的に転換させようとするものである。改憲草案の前文では、「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守」る義務が明記され、各章においても「国民の義務」が大幅に増加している。そして、憲法尊重・擁護義務を規定した第百二条では、まず第一項として「すべての国民は、この憲法を尊重しなければならない」という「国民」の憲法尊重義務を明記している。そして、その後の第二項において「国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」の憲法尊重・擁護義務を規定する構造になっている。そこに、憲法の性格の根本的な転換が示されている。 ●2章 戦争国家化めざす憲法改悪 第二に、改憲草案は憲法第九条を全面的に改悪し、さらに事実上の戒厳令である「緊急事態」宣言の規定を新設するなど、海外派兵と武力行使を全面的に合憲化し、戦争への総動員を可能とするものである。現憲法第九条は、第一項で「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は。国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」ことを規定し(戦争放棄)、第二項で「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定している(戦力不保持)。これらの規定からすれば、自衛隊の存在や日米安保条約が憲法九条に違反することは明らかである。 歴代の自民党政権は、解釈改憲によって第九条をほとんど骨抜きにし、自衛隊を世界で有数の軍隊へと増強してきた。そして、イラクへの自衛隊派兵まで強行した。しかし、自衛隊を公然と軍隊と規定することはできないこと、集団的自衛権の行使や海外での武力行使ができないこと、政府の憲法解釈においても自衛隊はこのような憲法上の制約を受けてきた。また、非核三原則や武器輸出の禁止、長距離弾道ミサイルや航空母艦など攻撃的兵器を保持できないことなど、戦争国家化を推進する政府にとってさまざまな制約となってきた。改憲草案は、これらの制約を全面的に取り払い、海外での武力行使と侵略反革命戦争の発動、戦争への労働者人民の総動員を可能とすることを目的としている。それは、日本の帝国主義ブルジョアジーの悲願であった。もしイラク戦争の開戦時に、現憲法がこの改憲草案のように改悪されていたならば、政府は戦場に軍隊を派兵し、アメリカやイギリスとともに参戦し、イラクの人民を殺戮したであろう。 改憲草案は、第九条を含む憲法第二章の標題を「戦争の放棄」から「安全保障」に変更した。そして、現憲法第九条の第二項を全面的に削除し、新たな第二項として「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」ことを明記し、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍の創設を規定している。具体的には、国防軍の任務として「わが国の平和と独立並びに国および国民の安全を確保する」こと、「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行なわれる活動」、「公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動」をあげている。こう規定することによって、国防軍は海外での武力行使や米軍と共同で戦争を遂行するすること、さらには治安出動や日常的な治安維持活動など、すべてが可能となるのだ。また、国防軍に軍事裁判所(軍法会議)にあたる審判所を設置し、「国防軍の組織及び統制及び機密の保持」に関する事項を法律で定めるとしており、新たな機密保護法を含む法体系を整備しようとしている。 改憲草案は、このような国防軍の創設と不可分なものとして、第九章として「緊急事態」の条項を新設している。すなわち、「内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震などによる大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる」(第九八条)というものである。そして、緊急事態の宣言が発せられた場合、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができ、総理大臣は必要な財政上の処分や地方自治体の長への指示ができるとしている(第九九条)。さらに、「国民」には緊急事態の宣言に関連する国その他公の機関による指示に従うことが義務づけられている(同上)。この緊急事態の条項は、有事法制の制定として進められてきた戦争への総動員体制づくりの総仕上げというべきもので、事実上の戒厳令を布告する権限を政府に与えるものである。 以上のような憲法第九条の改悪と緊急事態の新設を絶対に阻止しなければならない。 ●3章 天皇元首化と政教分離の破壊 改憲草案の憲法前文は、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される」という文言から始まっている。それは、「天皇を戴く国家」であることを「国民主権」の前に置いており、新たに天皇を国家元首と規定するすること(第一条)と結合して、天皇を主権者である「国民」の上に君臨する存在とするものである。国家元首とは国家を代表する存在であって、国政に関する権能を持たない「象徴」とはまったく異なる。そこには、天皇制のもとへの「国民統合」、天皇制を支柱とした支配の強化を推進するという野望がはっきりと示されているのだ。さらに改憲草案では、現憲法に存在する天皇の憲法尊重・擁護義務を削除している。改憲草案で国家元首と規定する天皇は、憲法にすらしばられない超越した位置を持つものとなる。それは、立憲主義の原則からしてありえないことであって、天皇を主権者である「国民」および立法・行政・司法の三権の上に君臨する存在として権威づけていこうとしているのである。「国民主権」という言葉が入ってはいても、大日本帝国憲法下の天皇主権に回帰しようとする志向は明らかなのだ。 改憲草案に記載された天皇の国事行為の項目は、現憲法から変化していない。しかし、現憲法において「国事行為のみを行なう」とされている天皇について、国事行為以外に「国又は地方自治体その他の公共団体が主催する式典への出席その他の公的行為を行なう」という条項を新設し、天皇の行為を拡大している(第六条)。天皇はこれまでから、外国の元首との会見、国会開会式や国体・植樹祭への出席など、憲法上の根拠を持たないまま、国事行為には含まれないさまざまな行為を行なってきた。去る四月二十八日の「主権回復の日」政府式典への出席もそうであった。天皇の「公的行為」の新設は、これらの行為に憲法上の根拠を与え、さらに拡大していくものとなる。また、天皇の国事行為について現憲法では「内閣の助言と承認を必要」としているが、天皇の行為を内閣が承認することは畏れおおいという理由で、「内閣の進言を必要」とすると変更されている。「助言と承認」と「進言」はまったく異なる。ここでもまた天皇を内閣の上に君臨する存在ととらえる自民党の立場が示されている。そして、天皇の「公的行為」については、内閣の「進言」すら必要とされていない。 また、絶対に許せないことは、改憲草案の天皇条項に、「国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」という国旗・国歌の尊重義務を新設していることである(第三条)。これまで日の丸・君が代の強制の法的根拠とされてきた国旗・国歌法には、国旗・国歌の尊重義務」は規定されていない。国の最高法規である憲法に国旗・国歌の尊重義務を含めれば、ますます強権的に「日の丸・君が代」が強制されてくることは火を見るよりも明らかなのだ。そればかりか、「国旗・国歌冒涜罪」や「不敬罪」の制定にすらいきつきかねない規定である。また、皇位の継承があったときに元号を制定するという規定も新設された(第四条)。 改憲草案はまた、現憲法の重要な原則である政教分離の原則を骨抜きにし、天皇や首相などの靖国神社公式参拝、靖国神社国家護持への道を開こうとするものである。現憲法二〇条は、信教の自由の保障を明示したうえで、政教分離の原則を厳密に規定している。すなわち、第一項で「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」とし、第三項で「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」としている。改憲草案は、まず前記の第一項から「政治上の権力を行使してはならない」という部分を削除した。そして、第三項に「ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない」という除外規定を付け加えることによって、政教分離原則を大幅に緩和している。すなわち、「社会的儀礼又は習俗的行為」だと主張すれば、天皇や首相などの靖国神社公式参拝や各地の護国神社などへの地方自治体の首長の公式参拝、玉串料などの公金からの支出も可能となる。 自民党が靖国神社公式参拝にこだわる理由は、アジア太平洋戦争での旧日本軍の戦死者を「英霊」に祭りあげ、かつての侵略戦争の歴史を歪曲・正当化することにある。そればかりではない。国防軍を創設し、海外での武力行使を行なうならば、国防軍の中から戦死者がでることは避けられない。自民党は、この戦死者を新たな「英霊」として靖国神社に合祀し、天皇や首相などが公式参拝することによって、戦争へと労働者人民を動員していく道を開こうとしているのだ。中曽根首相(当時)は一九八五年、「戦没者を祀る靖国神社を国の手で維持しないで、これから誰が国のために死ねるか」と発言した。ここに本音が示されている。国のために死ねる人間をつくること、ここに靖国神社公式参拝や国家護持の目的があるのだ。 ●4章 首相権限強化、基本的人権と政治的自由の制限 改憲草案は、内閣総理大臣(首相)の権限を飛躍的に強化するものとなっている。現憲法は、「行政権は、内閣に属する」(第六五条)と規定し、首相による行政権の行使は閣議決定にもとづき、内閣を代表して行なうものとされてきた。しかし、改憲草案は第六五条に除外規定を設け、@衆議院の解散権、A行政各部の指揮・監督権、B国防軍の最高指揮権については、閣議決定なしに首相個人が行使できるものとしている。「緊急事態」宣言の導入とあいまって、首相は大統領的な強大な権限を保持するものとなっている。 他方で改憲草案は、基本的人権に大幅な制限を加えるものとなっている。現憲法における基本的人権の条項は、保障されるべき基本的人権を明確に規定し、これへの国家権力による侵害を抑止するためのものである。しかし、改憲草案における基本的人権の条項は、国家権力による基本的人権の制限と侵害を正当化するというまったく正反対の目的で作成されたものである。ここに、「権力制限規範」からの転換が、はっきりと示されているのだ。 大日本帝国憲法においては、「臣民の権利」は法律に定める範囲で国家から恩恵として与えられたもので、法律によっていくらでも制限することができるものであった。それに対して現憲法は、基本的人権は国家から与えられたものではなく、それぞれの個人が生まれながらに持っている侵すことができない権利だとする天賦人権論にもとづき、次のように規定している。「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は過去幾多の試練に耐へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」(第九七条)。そして、この憲法が保障する自由と権利が制約される根拠としては「公共の福祉」だけをあげ、「国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」(第一三条)としている。 改憲草案は、この天賦人権論にもとづく基本的人権の規定を全面的に削除している。そして、憲法が保障する自由と人権が制約される根拠を「公共の福祉」ではなく、「公益および公の秩序」に置き換えている。それは、単なる言葉の言い換えではない。「公共の福祉」とは、ある人権が他人の人権と矛盾・衝突する場合の解決をはかるための調整、基本的人権の保障についての実質的な公平の原理であり、人権に必然的に内在する制約である。例えば言論・表現の自由と個人のプライバシーや尊厳の擁護は、矛盾する場合がありうる。そのとき、言論・表現の自由は無制限に保障されているのではなく、個人のプライバシーや尊厳を侵害しない範囲で保障されているとするものである。それは、国家権力によって外部から強制された制約ではなく、基本的人権が内包している内在的な制約である。改憲草案における「公益及び公の秩序」による制約とは、このような内在的制約とはまったく異なる。例えばそれは、戦争の遂行など「国益」を理由とした基本的人権の制限、大日本帝国憲法のもとでの国体護持のための言論・表現・結社の自由の制限など、国家によって外部から強制される制約のことである。このような外在的制約を認めるならば、法律によっていくらでも基本的人権を制約することができる。改憲草案は、このような大日本帝国憲法と同じ立場に回帰するものなのである。 改憲草案は、この「公益および公の秩序」を理由として、個々の基本的人権についてもさまざまな制限を加えている。現憲法二一条は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」という表現の自由を規定した条項である。改憲草案はこの二一条に、「前項の規定にかかわらず、公益および公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」という項を付け加えた。「公益及び公の秩序」とは、いくらでも広く解釈できる。この条項は、まちがいなく政治的権利と自由を決定的に侵害するものとなる。現社会の根本的変革をめざす闘いは言うまでもなく、戦争の準備や原発の推進などの「国益」を理由とした政府の政策に反対する闘いなど、さまざまな抵抗運動・反政府運動を広範に抑圧する憲法上の根拠となるものである。 さらに改憲草案は、結社の自由に関連して、現憲法六四条に「政党に関する事項は、法律で定める」という事項を付け加えた。自民党がこれまで何度か試みた政党法の制定を想定した規定である。一九八三年に作成された自民党の「政党法要綱」(吉村試案)は、@体制変革をめざす政党の否定、A政党承認案件として一定割合以上の得票又は三十五人以上の国会議員、有権者十万人以上の連署が必要、B政党の出版物の提出義務、C政党助成金、D規制違反に対する処罰を規定したものであった。一九九四年に政党交付金に関する政党助成法が制定されたが、包括的な政党法は未だ存在していない。改憲草案の狙いが、前述した表現の自由の制限と同様に、あらゆる政党の活動を「公益及び公の秩序」の枠内に制限し、改憲草案がめざす国家体制と対立する勢力を排斥することにあることは明らかである。 また改憲草案は、労働者の団結権・団体交渉権など労働三権を規定した現憲法二八条に、第二項として次のような公務員の労働三件の制限条項を付け加えた。「公務員については、全体の奉仕者であることに鑑み、法律の定めるところにより、前項に規定する権利の全部又は一部を制限することができる(後略)」。現在の公務員への労働三権の制限について、最高裁判例は合憲としてきた。しかし、ILO結社の自由委員会は二〇〇二年、日本政府に対して「国の行政に直接従事しない公務員への結社の自由の原則に沿った団体交渉権及びストライキ権の付与」を勧告した。このようななかで、憲法に公務員の労働三権の制限を規定することは許しがたいことであり、公務員の労働運動の抑圧を目的としたものであることは明らかである。 以上の部分以外にも、改憲草案の批判されるべき条項はいくつもある。列挙しておきたい。まず、家族についてである。大日本帝国憲法のもとでは、家族は国家の支配秩序の一部に組み込まれ、家父長制のもとに女性の隷属が強制され、個人よりも家族が優先された。現憲法は、個人の尊重を基礎としたもので、家族に関する規定はなく、第二四条に婚姻に関する規定を設けているだけである。これに対して改憲草案は、前文に「家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」という文言を盛り込み、再び家族を国家の支配秩序の一部に編成する意図をあからさまにしている。また、二四条を「婚姻と家族の原則」という条項に変更し、その冒頭に「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」という規定を挿入した。しかし、家族を構成するかしないか、家族のあり方をどうするのかは、個人の自由に属することで憲法で言及したり、国家が介入すべきものではない。また、生存権を規定した第二五条の前にこのような家族に関する条項を設定する目的は、国家による社会保障・社会福祉の充実の義務を後景化させ、家族による相互扶助義務の強調に帰結する。 次に地方自治について。改憲草案は、地方自治について規定した第九二条に、新たに「地方自治の本旨」と「地方自治体の種類、国及び地方自治体の協力等」という規定を挿入した。地方自治体を「基礎地方自治体」と「広域地方自治体」に区分していることは、明らかに道州制の導入を想定した規定である。この地方自治体の条項において強調されていることは、「国及び地方自治体は、法律の定める役割分担を踏まえ、協力しなければならない」ということである。国と地方自治体の関係において、政府が直面してきた最も大きな課題は、沖縄の米軍基地問題であった、この条項は、あらためて安保・外交を国の専管事項として明確にし、沖縄県や市町村が国の政策に反対することを抑圧し、国の政策への協力を迫る根拠ともなるものである。また改憲草案は、国政選挙のみならず地方自治体の選挙に関するすべての条項において、参政権を日本国籍を保持する者に限定することを明記し、在日外国人の参政権を否定したものとなっている。これら以外にも、拷問や残虐な刑罰の禁止条項の緩和(第三六条)、奴隷的拘束の禁止条項の削除(第一八条)、教育への国家の介入の余地の拡大(第二六条)など、批判すべき諸点をあげていけばきりがないほどである。 最後に改憲草案は、第九六条に規定する国会の改憲発議の要件を衆参両院の総議員の三分の二以上の賛成から二分の一以上の賛成に緩和している。現憲法が改憲発議の要件を通常の法律の成立よりも厳しいものにしている理由は、憲法が国の最高法規であること、そして「権力制限規範」という性格を持つことにある。すなわち、憲法によって縛られている国家権力の側が、自分たちに都合がよいように安易に憲法を改定できるようになれば、憲法の最高法規としての位置は失われ、「権力制限規範」という性格もまた大きく後退するからである。発議要件の緩和は、憲法の位置と性格の変更につながるものであって、絶対に認めることはできない。 以上から明らかなように、自民党改憲草案は現憲法の「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」という原則、憲法の国の最高法規という位置と「権力制限規範」という性格を根底から破壊しようとするものである。そして、多くの部分において、大日本帝国憲法に回帰しようとするものである。全力をあげて、安倍政権による改憲攻撃を粉砕しなければならない。闘いはまさに正念場なのだ。 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