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■10・7三里塚現地闘争に起とう 農地強奪阻止! 第三誘導路粉砕! 全国の同志、友人諸君! 三里塚芝山連合空港反対同盟が、10・7全国集会を呼びかけている。 反対同盟は、本年年頭一月七日の鈴木謙太郎さんの急逝で同志を失うという厳しい組織状況の中で、二〇一一年の攻防をたたかいぬいてきている。第三誘導路建設が強行され、天神峰、東峰の大地はズタズタに地形が変形されている。昨夏天神峰現闘本部を破壊した空港会社は、司法権力と一体となって、市東さんの農地を強奪しようとしている。 反対同盟は、三里塚現地においても、法廷においても、意気軒昂とたたかいぬいている。淡々と日々の営農に従事し、かつ、農民としての憤怒をたぎらせている。成田空港会社がその利権確保に突き進み、農地に手をかけてくることを、絶対に許しはしない。 そして、反対同盟は3・11以降の階級闘争の新たな高揚の中で、福島、沖縄をはじめとした全国の住民、農民、労働者との結合をさらに強めてきた。 階級闘争の新たな流動化と高揚の時代にあって、日本の反帝闘争の拠点―三里塚の意義をしっかりとつかみ直し、10・7三里塚現地に断固決起しようではないか。 ●第1章 激化する農地強奪攻撃を打ち破れ ▼1節 第三誘導路建設阻止! 一年前、八月六日の闇討ち襲撃で、成田空港会社は天神峰現闘本部を破壊して強奪した。 この襲撃は、訴訟―判決というブルジョア法手続きが直截に国家暴力発動であることを鮮明にした。空港会社は、天神峰・東峰の農民を叩き出すためにあらゆる手段をとってきているのだ。 「用地内」では今、暫定滑走路の第三誘導路建設の突貫工事が強行されている。空港会社は来年三月末の供用開始のためだと強弁している。仁川(韓国)、香港などとの「アジアのハブ空港」をめぐる競争、羽田との国際線・国内線をめぐる競争の中で、年間発着回数をむりやり増大させようとしている。 しかし、土地収用法でも成田治安法でも土地強奪できなかった挙句、無理に無理を重ねて作った暫定滑走路をもって「アジアのハブ空港」にはなり得ない。それは、これまでの二本の誘導路が使い物にならないからといって、新たな追加工事で第三誘導路を建設すれば「ハブ空港」になるなどという物でもないのだ。 空港会社の悪辣な本当の意図は、「用地内」農民を叩き出すことにある。 第三誘導路工事は、市東さんの家と畑を囲い込む形で強行されている。市東さん宅の間際を航空機が地上走行する誘導路を新たに作ること自体が非常識だ。団結街道の廃道、生活道路の改変、そして、この工事そのものが、農民の生活を著しく破壊し続けている。 第三誘導路建設のために、小見川県道は新たに付け替えられて、市東さん宅前の道路は急な坂道と新たなトンネルを通るようにされた。集落の農道の意味を考慮することなく地形を変えてしまい、天神峰、東峰の集落としてのつながりも、日常の営農も、破壊され続けている。 ▼2節 農地強奪裁判の現段階 空港会社は、土地収用法でも成田治安法でも奪えなかった農民の土地を、民事訴訟の形式をもって強奪する攻撃をかけてきている。 しかし、そこでなされていることは裁判とは言い得ない。ブルジョア法とはいえ、定められた農地法、民事訴訟法に基づき、公正・公平な手続きでなされなくてはならないのは、司法の前提であろう。しかし、現在、千葉地裁・東京高裁で繰り広げられている事態は、到底裁判とは言えない。 証拠調べ、実地検証を回避し続け、決定的な証人の採用は拒絶し、空港公団(現空港会社)によって偽造された文書が「証拠」として扱われている。 昨夏破壊撤去された天神峰現闘本部裁判では、千葉地裁も東京高裁も、最後の最後まで、実地調査を行わず、証拠としての現闘本部そのものを破壊し尽くしてしまった。裁判官が先頭に立って真実を破壊し、それを自らの「職務」だと思い込んでいるのだ。 空港会社と千葉県、そして、司法権力が一体となった許しがたい茶番が、市東さんの農地をめぐる裁判において、再び強行されている。 空港会社が市東さんの農地強奪を企図した裁判は、形式的には二つの訴訟として行なわれている。@市東さんの耕作地の一部を「不法耕作」と決め付けて明け渡しを求めた「耕作権裁判」と、A市東さんが三代にわたって耕作してきた農地を地主から買収した上で農地法に基づいて賃貸借契約の解約許可決定を千葉県から取り付けて農地明け渡しを求めている「農地法裁判」である。市東さんの側からは、千葉県の決定の誤りを追及して「行政訴訟」を起こしている。現在、千葉地裁では、「農地法裁判」と「行政訴訟」が併合されて行なわれている。 三つの裁判は形式的には別になっているが、全体としては一まとまりの市東さんの南台の畑(現闘本部となりの畑)のすべてを、空港会社側の判断で賃借地と「不法耕作地」に切り分けて訴訟を起こしているため、相互に連関している。 第一の争点は、訴訟の根幹である土地の特定が誤っているということだ。空港会社が「賃貸借契約地」だとしてきた土地のうち、「南台41―9」は市東さんが全く耕作したことのない土地であることが明らかになっている。そもそも、直接の利害関係人である市東東市さん、市東孝雄さんに対してはすべてを秘密にして、地主とだけ交渉を進め、農地そのものを現地で確認することもなく買収したからこそ、こういう結果になったのだ。 第二の争点は、成田市農業委員会も県農業会議も県知事も、誤った土地特定のまま「農地法」に基づく賃貸借契約の解約許可決定をなしたということだ。解約許可処分の根拠が誤っているのであり、千葉県は処分を取り消さなくてはならない。 第三の争点は、空港会社が「賃貸借契約地」として市東さんに明け渡しを求めている別の土地「南台41―8」は、一部が「空港敷地内」にあり、一部が「空港敷地外」となっている。つまり、県農業会議は、空港にできない土地まで「空港転用相当」なる判断で解約許可決定をなしたのだ。農地法違反である。 第四の争点は、旧地主藤崎政吉氏が「作成した」とする境界確認書、同意書、地積測量図に関して、藤崎氏自身はこれらの書面を「自分は書いていない」と否定していることだ。弁護団が本人と面談して、確認している。弁護団は、これらの偽造文書の作成経緯を追及している。 弁護団はこの争点に関して求釈明を行ってきたが、空港会社、千葉県ともにはっきりと答えてはいない。千葉地裁の裁判長(農地法裁判・行政訴訟:多見谷寿郎、耕作権裁判:白石史子)は、拙速に弁論を終結し、結審―判決に進もうとしている。 農地法裁判・行政訴訟は、本年五月から証人尋問に入っており、空港会社の現用地部長・戸井健司、〇六年当時の成田市農業委員会事務局長・山崎真一に対する証人尋問が行われている。いずれも、争点となっている事実の認識についてははぐらかし、かつ、空港会社が空港用地を「取得」した経緯が正しいかのように居直った。とりわけ、戸井証人は、市東さんの農地に関して「もしご理解いただけない場合には強制的な手段もありえる」と法廷で公言した。空港会社は空港公団時代から一貫して、国策だから、農民から農地を取り上げることが当然という意識で、空港建設を強行しているのだ。 司法権力が、空港会社側に与して、証拠調べ、証人調べの明確な決定を回避してきた中、本年七月に藤崎政吉氏が亡くなった。空港公団―空港会社の文書偽造の最も重要な証人だったにも関わらず、裁判官としての本来の職務に違背して真実を隠蔽しようとする多見谷、白石によって、重要な証人調べの機会を逸してしまったのだ。 空港会社、千葉県、司法権力―千葉地裁が一体となって、訴訟の形式をとって農地強奪を進める裁判そのものを、われわれは徹底弾劾する。その上で、市東さん、萩原さん、鈴木さんをはじめ反対同盟が、この反動訴訟指揮をも突き破って、三里塚闘争の真実―正義を貫こうとするたたかいを、ともに全力で担っていく。反対同盟は、第三誘導路許可処分取消訴訟、団結街道廃道取消訴訟をもって、日々強行されている生活破壊、営農破壊の攻撃とも対決している。農地強奪絶対阻止を、現地攻防で、裁判闘争でたたかいぬいていこう。 ▼3節 LCCまで導入して「航空需要」の拡大はかる 航空運輸業における新自由主義的な改編=「航空自由化(オープンスカイ)」が進んできている。これまで、国際線の開設は、政府間の協定で路線や便数を決定し、それを受けて具体的な発着枠を調整してきた。しかし、オープンスカイ協定を結べば、航空会社の自由な判断で就航先や便数を選択できるようになる。日本は本年七月までに米国、東南アジア諸国など十七カ国・地域とオープンスカイ協定を締結してきている。 二〇一〇年十月から羽田が国際化したものの、国際線の年間発着回数は六万回に制限されている。そのため、成田空港は混雑が激しく、オープンスカイの対象から除外されている。オープンスカイ協定を結んでいても、日本の首都の空港はその対象から外されているのである。そのため、成田空港会社は、年間二十二万回の発着回数を現行二十五万回にむりやり増やした。しかし、さらに一三年には二十七万回、一四年には三十万回に増便することを方針としている。一三年夏に増便した段階で、オープンスカイを適用するとしているのだ。 この実態は何か。羽田のように四本の滑走路で運用している訳ではない。A滑走路と、危険極まりない暫定滑走路(B'滑走路)で、発着回数をギリギリまで増便しているのである。現在、A滑走路とB'滑走路の同時離着陸を強行し、暫定滑走路の発着回数を増やしている。しかし、これは「用地内」天神峰、東峰の農民に、離着陸の爆音を間断なく強制するものである。 さらに、ジェットスター・ジャパン、エアアジア・ジャパンなど格安航空会社(LCC)の「成田空港拠点化」によって、発着時間枠拡大の要求がはじまっている。LCCは、コストを抑えるために保有する航空機数を極力少なくしてフルに使い回している。内陸空港で離着陸時間制限がある成田では、最終便がこの時間枠に遅れると戻って来れず、使い回し運用ができないという事態になってしまう。このような余裕のない航空機の運用に問題があるのだが、成田空港の時間制限をなくせば問題が解決するというような、転倒した主張がはじまっているのだ。 そもそも、「航空需要」とは何なのか? 成田空港会社の会社としての収益を上げるために、むりやり航空需要を掘り起こすというような論議自体が間違っている。成田から、わざわざ国内線を飛ばし、羽田と競争するために便数を増やしていく。果ては、むりやりLCCを誘致して、鉄道やバスなど地上の交通機関とまで競争して航空運輸の旅客数を増大させようとする。そのために、莫大な費用をかけて、ジェット燃料を浪費する。 毎日、離着陸のたびに、農民の生活、営農に甚大な被害を及ぼし続けているのだ。空港会社と航空会社の利害のためにのみ、わざわざ「需要を掘り起こす」必要があるのか! 無理に「航空需要」を作り出す必要などない。まずもって、危険で無用な暫定滑走路を即刻閉鎖せよ! それが成田廃港への第一歩だ。 ●第2章 三里塚闘争46年の意義 本年一月七日に五十七歳で急逝された鈴木謙太郎さんの人生は、空港反対運動四十六年の歴史をそのまま体現していた。一九六六年、三里塚闘争が始まった当時小学生であった少年が、周りの大人、先輩の若者たちが空港反対運動に没頭する中で、そのことを日常としながら成長した。自らも青年行動隊として活動し、その生活と営農、活動の中で父=幸司さんの跡を継ぐことを自らの人生として選択した。 謙太郎さんにとって父の跡を継ぐということは、農民として生きるということと同時に、反対同盟員として生きる―三里塚闘争を担うという意味を持っていた。その重い責任を引き受けることであった。 その選択をした謙太郎さんが、少年として、青年として闘争の中で成長し、結婚して親となり、家族・地域の中軸となってたたかってきた。「反対同盟農民として生きる」ことは、まさに、三里塚闘争四十六年を自らの人生として生きることであった。 そのような決断と実践が、現在の反対同盟員皆それぞれにあり、それぞれの人生をかけたたたかいとしてある。農民自身が人生をかけたたたかいとして選択し、生活し、それを貫いてきたのが三里塚闘争なのである。私たちは、その三里塚農民の人生、闘争の一端を支えつつ、日本における反帝闘争の重要な戦線として位置づけてきた。そうであるからこそ、反対同盟の共闘団体としての責務を果たすために、現地の諸々の活動を積極的に担ってきたし、これからも担い続けていく。 われわれは、この決意を込めて、今一度、四十六年の三里塚闘争の歴史を学び直してみたい。とりわけ、三里塚闘争の草創期の攻防は、闘争拠点・闘争主体の形成、その反帝闘争としての成長、そして、それが階級闘争全体といかなる関係をもって展開したのかということにおいて、貴重な内容をもっている。日本労働者階級人民のたたかいが、3・11以降、反原発闘争をはじめとして大きく流動化し、新たな変革の時代へと向かおうとしている。この時代にこそ、日本の反帝闘争の支柱というべきたたかいから考えてみようではないか。 ▼1節 軍事目的、農民蔑視で決定された空港建設 一九六六年七月四日、当時の自民党―佐藤内閣は三里塚空港建設計画を閣議決定した。直前の六月二十二日に内定ということが発表されたが、空港建設の直接の地元である成田市三里塚と芝山町の農民に対しては、直接の説明は何もなされなかった。 「新東京国際空港建設」は、池田内閣が六二年に方針化したものだった。しかし、建設候補地については自民党政治家と運輸省の利権がからんで、浦安案、富里案、木更津案、霞ヶ浦案などさまざまな案がせめぎあっていた。結局、池田内閣では決定できず、佐藤内閣に持ち越された。 六五年、佐藤内閣の関係閣僚会議は「富里・八街案」を内定した。富里村、八街町それぞれで反対同盟が結成された。六五年二月七日の千葉県庁抗議行動では反対同盟二千が決起し、千葉県庁に突入・占拠する実力闘争をたたかった。こうしたたたかいの結果、六六年には政府が「富里案」を断念した。 三里塚闘争の前段において、こういう実力攻防がたたかわれ、隣接する成田市、芝山町にも、この攻防の息吹はすでに伝わっていた。 三里塚の農民は、「内定」発表直後の六月二十八日、三里塚新国際空港反対総決起大会を開催し、ここで三里塚空港反対同盟結成が宣言された。三十日には芝山空港反対同盟が結成された。七月四日の閣議決定当日には、運輸省、千葉県庁、成田市役所での抗議行動に立ち上がり、千葉県庁前に座り込んで機動隊と対決した。 七月十日、三里塚第二公園に五千名が結集して、新空港閣議決定粉砕総決起大会が開催され、ここで三里塚芝山連合空港反対同盟が結成された。戸村一作氏が委員長に選出された。この年の十二月十五日には、成田市天神峰に現地闘争本部が建設された。 反対同盟はこの結成当初の時期に、砂川、横田、立川、百里、羽田など基地や空港の実態調査を行った。羽田空港で、ベトナムに向かう米軍チャーター機が占領している状況を、反対同盟農民自らが目の当たりにしたのであった。ベトナム侵略反革命戦争のために羽田空港が満杯になり、成田空港建設の「緊急性」は、この戦争状況ゆえに生まれていた。空港建設反対は、ベトナム反戦と直接結びついていた。軍事空港反対は、闘争当初に農民自身がつかんでいた一つの確信であった。 ▼2節 強行着工に対する農民の不屈の実力闘争 しかし、政府は、地元住民である三里塚・芝山の農民に直接説明することはなかった。政府がなしたことは、札束での買収工作、あらゆる手段での条件派づくりであった。六七年には現地立ち入り測量に踏み込んできた。反対同盟は測量阻止の実力闘争に立ち上がった。 この六七年外郭測量阻止闘争の過程で、反対同盟は日本共産党と決別し、当時の三派全学連―革命的左翼との共闘を実現していった。 日共は、反対同盟農民が外郭測量阻止を実力座り込み闘争としてたたかっている最中に、「道交法違反」だと批判し、「統制と節度ある運動」を呼びかけた。三派全学連はその対極にあり、六七年10・8羽田佐藤訪米阻止闘争に武装して立ち上がっていた。この羽田闘争を前後して、三派全学連は三里塚現地の攻防に参加した。反対同盟が革命的左翼との共闘を深める中、日共は反対同盟幹部を中傷するデマ宣伝を行った。反対同盟は六七年十二月十五日、日本共産党排除の声明を発して、日共と絶縁した。 反対同盟と反戦・全学連は六八年二月・三月、成田公団分室突入闘争を三波にわたってたたかった。この過程では、三月十日の成田市営グラウンドでの解散集会に、機動隊四千が突入して、百九十八名が逮捕され、重軽傷者は一千名を超えた。 六八年、立ち入り調査・ボーリング阻止の攻防の中で、反対同盟は自ら武装をかちとっていった。6・30全国総決起集会で青年行動隊が全員武装して登壇。反対同盟全体が鎌、竹やりなどで武装してデモを行なった。 空港公団は、国有地の「御料牧場」と県有林から着工をはかってきた。六九年八月十八日、「宮内庁御料牧場閉場式」に対して、反対同盟二百名が会場に突入し、壇上を占拠して式を粉砕した。この闘争を「理由」にして、反対同盟八名が逮捕され、萩原進青年行動隊長(当時)ら二名が全国指名手配された。この一カ月余り後の「事業認定粉砕全国集会」には、指名手配中の萩原進さんが登壇して「われわれはこのような弾圧の中で、今こそ、本当にたたかうのか、あるいは敵の前に屈するのか」と発言した。そして「現在の権力の中に、そして、たたかいを展開する中で、弾圧が加えられないようなたたかいは存在しない。弾圧が加えられておる社会は人民の社会ではないはずだ。この弾圧をはねのけてこそ、粉砕してこそ、はじめて、そこに平和が、いっさいの解放のきざしが見えるのではないだろうか」と結集していた一万三千人の人々に呼びかけた。 この実力闘争を踏みにじるかのように、空港公団は六九年九月十三日、土地収用法の事業認定申請を行なった。建設大臣はこの年の十二月十六日に事業認定した。空港公団はこれ以降、土地収用法に基づく強制的な措置をもって三里塚農民に向かってきた。 七〇年、空港公団は強制収用のための強制測量に踏み込んできた。 反対同盟は二月、五月、九月と三次にわたる強制測量阻止闘争をたたかった。青年行動隊、婦人行動隊、老人行動隊、さらには、三高協、少年行動隊もこのたたかいに立ち上がった。反対同盟は各学校長に対して「同盟休校」を宣言して、予定地に家族ぐるみで座り込んで測量阻止の実力闘争を全体がたたかった。空港公団は、強制測量に踏み込んだものの、バリケード、竹やり、黄金爆弾(糞尿弾)に押し返され、立ち入り測量を強行できなかった。結局は航空測量に切り替えて、アリバイ的に「測量」を行ったことにしたのだ。現在にいたるも市東さんの農地を精確に把握することができないのは、当然の結果である。 空港公団、そして建設省は、国策だから当然と言わんばかりに土地収用法を適用し、事業認定、強制測量、千葉県収用委員会・公開審理と手続きを進めた。七〇年十二月二十六日、県収用委は第一次代執行分について「収用および明け渡し」の採決を強行した。 ▼3節 強制代執行阻止闘争(71年) 土地収用法に基づく第一次強制代執行は七一年二月、三月に強行された。 反対同盟は一月二日、地下壕作戦でたたかうことを決定し、一月六日から地下壕堀りを開始した。そして地上には六カ所の砦と十数メートルの農民放送塔を築いた。二月二十二日から三月二十五日まで一カ月にわたる死闘がたたかいぬかれた。 反対同盟農民は、命がけで地下壕に立てこもり、われとわが身を立ち木やバリケードに鎖でしばりつけて、強制収用と対決した。日帝―国家権力は、木に登った農民もろとも立ち木を切り倒すなど暴虐の限りを尽くしたが、一番・二番地下壕と農民放送塔を奪うことはできなかった。 千葉地裁の「排除の仮処分」を根拠として、空港公団は七月、仮処分攻撃をかけてきた。地下壕・放送塔死守の激戦がたたかわれた。 空港公団は、第二次代執行分に関しては、七〇年段階で「特定公共事業の認定」を申請した。「公共用地の取得に関する特措法」が適用され、七一年六月に緊急裁決がなされた。この裁決に基づいて、空港公団は代執行を請求し、千葉県知事友納は「九月十六日から二十九日までに代執行する」と発表した。 反対同盟は、駒井野、天浪、木の根の各団結小屋を要塞化し、この砦死守戦と、三里塚各所での遊撃戦をもって、国家権力―機動隊との激戦に突入した。 代執行開始が宣言されていた十六日早朝、東峰十字路で検問捜索活動を開始していた神奈川県警堀田大隊に対して、遊撃戦が敢行された。福島小隊が粉砕され、三名が完全殲滅された。堀田大隊そのものが撃破され、潰走した。 決戦となった駒井野では、「日本農民の名において収用を拒む」という垂れ幕を掲げた大鉄塔を、決死隊十一名をのせたまま、機動隊が引き倒した。決死隊員は瀕死の重傷を負った。十六日、不当逮捕者は三百七十五名にのぼった。 千葉県知事友納は九月十九日、「二十日は中止。代執行は二十一日から」と一旦発表しておきながら、二十日午前十一時三十分、突如として大木よねさん宅の代執行を開始したのであった。脱穀作業をしていたよねさんは、このだまし討ちに対して、脱穀機にしがみついて抵抗した。機動隊はよねさんの顔面を殴りつけ、引き離そうとした。歯がぐらぐらになりながら、よねさんは脱穀機から離れなかった。機動隊は十人がかりでよねさんをねじ伏せて、かかえて、排除したのである。 「公共用地特措法」での代執行は戦後初めてであった。さらに、三里塚においても、団結小屋ではなく、家屋・宅地を強制収用するという攻撃は初めてであった。 空港公団は、だまし討ちと国家暴力発動でしか「用地」取得ができなかった。空港建設と土地収用法に一片の正当性もなく、ただただ残虐であることをまざまざと示した。そして、大木よねさんの正々堂々としたたたかい、その執念こそが、それまでの三里塚闘争の地平と、その後の三里塚闘争のたたかい方をはっきりと示していた。人民が実力闘争に立ち上がることの正しさが、労働者階級人民の心にしみ通っていったのである。 大木よねさんに対する蛮行に続いて、警察権力は、東峰十字路戦闘に対して徹底的な報復弾圧に踏み込んできた。青年行動隊をはじめとして百三十数名を逮捕し、六十四名を起訴した。 七一年の強制収用阻止決戦を頂点とした三里塚闘争は、ベトナム反戦運動、七〇年安保闘争、七二年沖縄解放闘争という日本階級闘争の激動の中で、国家権力と実力対決する反戦闘争の拠点としての位置を占めていた。 ▼4節 開港阻止決戦、二期決戦 七二年開港攻撃と対決する岩山大鉄塔建設、七七年五月六日の鉄塔破壊、七八年開港阻止決戦へとたたかいは登りつめていった。横堀要塞戦、そして、空港突入―管制塔占拠・破壊がたたかいとられた。政府が掲げていた「3・30開港式典」は粉砕された。危機に陥った政府は、団結小屋を撤去し三里塚闘争圧殺を狙って、成田治安法を一カ月余りで強行可決し、五月十五日には岩山団結小屋と木の根団結砦に「使用禁止命令」を適用した。 六六年当初から、空港公団は、暴力的農地強奪の一方で、金銭とさまざまな利権をもって条件派づくりをなしてきたが、二期工事を前にして、成田用水をもって農民を切り崩す分断攻撃に出てきた。この最大の条件派工作との闘いとして、八三年3・8分裂はあった。反対同盟は、成田用水事業を空港建設のための懐柔策―条件派工作として見抜き、これを打ち破って、二期工事絶対阻止に向かった。 この反対同盟の八三年の決断は、八四〜八五年の成田用水決戦の実力攻防として貫かれた。反対同盟農民が再び、国家権力―機動隊との実力攻防の前面に立って闘った。それは、八五年10・20戦闘を頂点とした二期決戦の実力武装闘争として発展していった。 土地収用法の事業認定は八九年十二月十六日という二十年の期限があった。この期限までの強制収用に焦る空港公団は、一坪共有地の強奪、各団結小屋の撤去を強行してきた。 八七年に木の根団結砦を破壊撤去。これに対して断固として死守戦がたたかいぬかれた。 そして、八九年十二月東峰団結会館死守戦、九〇年一月天神峰現闘本部封鎖阻止闘争に始まる成田治安法決戦が一年間にわたってたたかいぬかれた。国家権力と空港公団は、団結小屋の除去、封鎖によって、三里塚闘争を圧殺しようとしたが、三里塚闘争は不屈であった。反対同盟と支援の共闘関係は、この攻防の中で、むしろ強化された。 これら反対同盟と三里塚勢力の実力武装闘争の中で、八九年十二月十六日、土地収用法の事業認定は期限切れとなった。強制収用が困難になった事実を空港公団は即座には認めようとはしなかったが、ブルジョア法制度において自己矛盾的な土地私有の制限―強制収用を行うには、それなりの条件があるのは当然なのだ。端的にいえば、事業認定から二十年を超えての「緊急性」「公共性」は存在しないということだ。そうであれば、土地収用法でさえ困難な農地強奪を、成田治安法や、一般の民事裁判をもって強行することが、できる道理はない。 空港公団は二〇〇四年四月に成田国際空港株式会社(株式は100%政府所有)となったが、農地強奪攻撃は変わらない。「話し合い」をもっての切り崩し攻撃、そして、訴訟の形式をとった農地強奪攻撃と、あらゆる手段をとってきている。最初に述べたように、この攻防は今も激烈に続いている。 われわれは、反対同盟のたたかいの歴史の中から、その人民闘争としての正しさを学ぶとともに、現在もなお空港建設―空港施設拡張工事を当然のように進める空港会社、国土交通省、あるいは、これに荷担する千葉県、千葉地裁のあり方を根本から批判し、打ち破っていかなくてはならない。 ●第3章 反原発闘争、反基地闘争の只中での三里塚闘争 ▼1節 3・11以降の日本階級闘争 ブルジョア法制度の下での民主主義がいかなる民主主義なのか。反対同盟農民こそが身をもって知っている。議会が、法律が、裁判所が、労働者人民の権利を自動的に守ってくれる訳ではない。現在の政治体制を誰が支配しているか、誰の利害で動かされているのかを四十六年間、はっきりと見続けてきた。 法律が捻じ曲げられ、憲法が停止され、裁判官までもが全面的に空港会社に与して、右往左往する。 この日本の権力構造に対峙して、反対同盟は決してあきらめることはなかった。 それは第一に、反対同盟自身が農民として農地を耕して生きることに誇りをもっており、そこに人生と闘争の大義の根拠をもっているからだ。市東孝雄さんは、数億円の単位の買収金よりも、一本百円の大根を作ることが自分にとっては大事なことだと言っている。空港会社社長夏目誠には決して理解できないだろうが、しかし、この農民の意思を金で変えることはできない。もちろん、暴力によっても変えることはできない。そして、この市東さんの決意とともにたたかおうとする人々が三里塚に結集し、それが力になる。 反対同盟農民は、空港反対運動とともに、無農薬有機栽培の野菜産直運動を進めてきた。不屈に闘争を続けるとともに、その闘争と生活の根拠となる営農を共同で推し進めてきた。営農に展望を持ち、営農を根拠にして空港絶対反対をたたかいぬく。持続しうる生活と闘争の体系がつかみとられているのである。 第二には、自らのたたかいの正義性に関して、階級的な確信をつかみとっているからだ。 司法権力までが結託したところでなされる形式的な法の適用と、それに基づいた国家権力=暴力発動に正義はない。労働者階級人民の意思とかけ離れた「農地強奪」の強制は、絶対に放置されてはならない。人民の力によって正されなくてはならない。 反対同盟の政治的想像力は、金と利権、警察権力の暴力を大きく超えている。それは、三里塚闘争四十六年、とりわけ、草創期における闘争の爆発的成長の中でつかみとられた、農地死守―実力闘争、軍事空港反対の確信である。 その上で、七〇年安保闘争、七二年沖縄解放闘争と結びついてたたかいは発展した。革命的左翼との共闘があった。さらに、労働運動、部落解放闘争、障害者解放闘争、女性解放闘争をはじめとした全国のさまざまなたたかいとの結合の中で、内容が紡ぎ合わされて、強力なたたかいへと成長してきた。労農学共闘、あるいは全人民闘争としての三里塚闘争というべき内容をもって、たたかいが成長し豊富化したのである。 三里塚闘争が先頭に立ちつつ、三里塚だけではない、全国の住民闘争と結びついているという確信が、反対同盟農民にはある。 たたかう農民、たたかい続ける農民ゆえにつかみとってきた確信が、現在の反対同盟の中に脈々と生きている。階級攻防の新たな流動と高揚へと向かう現在にあって、人民の自然発生性の賛美に止まることも、また、その批判に終始することも、誤りである。農民(人民)の主体的たたかいが反帝闘争として、全国的かつ国際的結合をもったたたかいとして成長し発展してきたことをこそ、三里塚闘争の歴史的教訓として、われわれ自身が今こそつかみ取っていかなくてはならない。 ▼2節 日本階級闘争の新たな前進をかちとろう あらためて、10・7三里塚全国集会に全力で決起することをよびかける。 三里塚の地に自ら赴いて、実際に反対同盟農民とともにたたかうことである。 第三誘導路建設の意味は、天神峰、東峰の地に立ってみれば、一目瞭然である。国際空港の「公共性」などということは全くの欺瞞である。農民の生活を押しつぶすようにして空港施設工事が強行されている様は、まさに、空港会社という独占資本がありとあらゆる圧力をかけて農民を叩き出そうとする残忍な攻撃である。 この現地状況と一体に、空港会社の側からする農地強奪裁判がある。国家・資本の側があらゆる権力をもって農民を排除するための戦術として訴訟を手段とする、まさに究極のSLAPP訴訟である。絶対に打ち破っていかなくてはならない。 成田空港の年間離着陸「三十万回」が航空行政の発展であるかのような主張は、現実を見ない危険極まりない暴論である。東峰・天神峰に立ってみれば、だれにでも判ることである。農家の上空四十メートルという離着陸をさらに増便しようというのだ。「三十万回」とは、事故の危険と絶えがたい騒音地獄を意味しているだけである。絶対に阻止し、暫定滑走路を即時閉鎖させなければならない。 反対同盟は、3・11以来、原発事故―放射能汚染の中で農民としての生活をいかに守るのかということにおいて苦闘してきた。同時に、同じ農民として福島の農民と共闘してきた。そして、反基地闘争の島ぐるみ闘争として発展する沖縄人民との共闘を前進させてきた。昨年、本年と六月の「三里塚・沖縄集会」を実現させてきた。 階級闘争の新たな高揚が始まった中で、われわれは、三里塚闘争が実力闘争、反帝闘争として発展してきた歴史的事実に今こそ立ち返ってみるべきである。現実の階級攻防の中で、労働者階級人民が主体的に立ち上がり、自らの拠点をしっかりと確保していく。そして、さらなる連帯と団結に踏み出していく。三里塚闘争の豊かな内容の中からこそ、そういう階級闘争の大胆な発展をかちとっていかなくてはならない。 |
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