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   新自由主義・再考(上)

   〜資本のための反革命的な社会改造運動
                             

                           




 新自由主義が全世界で猛威をふるっている。それは貧困と格差を拡大し、プロレタリア階級と被抑圧人民・民族に大きな困苦を強いながら、人々の生きる権利を奪いつづけている。十六世紀のイギリスには「人間さえもさかんに食い殺している」羊がいたとトマス・モアは『ユートピア』(一五一六年)に書いている。エンクロージャー(土地の囲い込み)にまつわる寓話である。牧羊地を確保するために、大量の農民たちが共有地を奪われ村落から追放されたという歴史的な出来事をトマス・モアはこのように表現したのだった。これにならって言えば、新自由主義もまた五百年前の羊と同様、人間を頭から呑み込みつづけている。しかし二十一世紀の新自由主義というモンスターは十六世紀の羊とは比べようもなく巨大である。またその姿は一定でなく、それが出現する時期も場所も限定されていない。名前さえ、さまざまだ。新自由主義はこの数十年、形を変え場所を変えながら世界各地に出没し、全体として世界を荒廃させつづけてきた。ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン』(二〇〇七年)は言う。新自由主義派の「改革が勝利を収めた国ではどこでも、人口の25%から60%にも及ぶ固定的な底辺層が生まれ、社会は一種の戦争状態を呈してきた」。資本の権力を強化する新自由主義は、労働者人民にとっては災禍以外の何ものでもない。
 新自由主義とは何か。それはどのようにして生まれ、かくも強大になったのか。その破壊力はどこからくるのか。そしてこれとどのようにたたかうべきなのか。これらの問題について研究し討議を深めていくことは、現代資本主義世界の変革をめざすわれわれにとってきわめて重要な課題である。新自由主義を知ることは、資本主義の歴史と資本主義そのものを知ることでもある。敵を打ち倒すためには、敵が何ものであるかを知らねばならない。
 だが「知る」ためには、それ相応の努力と作業を必要とする。日本では新自由主義という言葉が社会に定着するのはやっと二十一世紀に入ってからである。それが何を意味するのかに関する論議や作業はまだ始まったばかりである。前提にできるものは多くはない。さまざまな業績や論考から謙虚に学んでその成果を吸収していくこと、仮定や仮説を積み重ねつつ大胆に問題に取り組んでいくことが必要である。
 以下、「新自由主義・再考」と題して一定の問題提起を試みたい。



 ●1章 その思想・政策・運動の特徴について

 ▼1節 新自由主義に「回帰」する世界

 ところで少し前には、「新自由主義は破産した」「新自由主義は終わった」とも言われていた。五年前の二〇〇七年に始まり翌〇八年九月の「リーマン・ショック」をもって爆発した世界恐慌のただなかでは、今回の恐慌の原因は新自由主義の横行跋扈(おうこうばっこ)にあり、このように大規模な経済の瓦解状況をつくりだした以上、新自由主義はもはや失墜していく以外にはないだろうとする見方も多かった。日本での本格的新自由主義政権・小泉政権を支えた経済学者の中谷巌は恐慌渦中の〇八年十二月、『資本主義はなぜ自壊したのか』という本を書き、世に「市場原理主義への傾倒を『懺悔』した」(〇九年一月・毎日新聞)。市場原理主義とは新自由主義の別名である。新自由主義の旗振り役をつとめたことを「反省」する中谷の懺悔(ざんげ)は、当時を象徴するエピソードのひとつである。
 この時期、何よりも各国の政治状況に少なからぬ変化が起きていた。〇八年恐慌の波が世界をしだいに広くおおっていくなかで、各国の支配階級はそれまでの政治・経済政策を見直すことを余儀なくされた。米国では〇九年一月、黒人初の大統領となったバラク・オバマによる新政権がスタートした。日本でも同年九月、民主党が政権交代をはたし、「友愛政治」を唱える鳩山政権が誕生した。前任の米国の共和党ブッシュ政権、そして日本では小泉・安倍・福田・麻生とつづいた自民党政権の経済政策の基調はいずれも新自由主義であり、これら旧政権を批判して登場したオバマ政権、鳩山政権には、新自由主義とは異なる内容の政策を打ち出していくことを不可欠とした。オバマ政権は環境・雇用・景気対策を重視する「グリーン・ニューディール」構想を、また鳩山政権は民主党〇九年総選挙マニフェストに記載された「国民の生活が第一」路線をかかげた。もちろん、こうした米日での政権交代劇を生み出したのは、新自由主義政策と急激な景気後退(恐慌)がもたらした貧困化・生活破壊に対する労働者人民の批判・憤激の高まりであったことは忘れられてはならない(*注1)。
 これら米日の新政権には、現状打破への大きな期待が寄せられた。ところがその後、二つの政権はいずれも新自由主義への妥協の道を一歩一歩と歩んでいく。「妥協」というのは必ずしも適切な表現ではないかもしれない。そうなる要因がそれら新政権には発足時から多かれ少なかれ内包されていたと見るべきだろう。時を同じくして、EU(ヨーロッパ連合)諸国においても、財政危機の深まりを受け、緊縮政策という姿をとった新自由主義が前面に登場する。そしていま各国労働者の抵抗が高まるなか、EUとIMF(国際通貨基金)は大幅な財政支出削減等をEU周辺諸国に無理矢理飲み込ませようとする干渉主義的・強権的な動きを強めている。その狙いは、それら諸国の従来の政策はもとより、社会構造をも変えていくことにある。
 世界の情勢は反転した。一度は「破産した」「挫折した」「行き詰まった」と言われた新自由主義が、急速に息を吹き返してきている。世界はふたたび新自由主義に「回帰」していっている。なぜこういうことが起こるのか。新自由主義を各国政府の一時的な政策としてとらえることはできない。またそれはやがて消え失せる「時代錯誤の」思想・政策というのでもない。新自由主義はその時々の経済情勢の多少の相違や政権の性格の違いを超えて貫徹される現代資本主義の支配的な傾向・すう勢であると、ひとまずは考えるのが適切である。現代資本主義と新自由主義とのあいだにはきわめて強い結びつきが形成されており、両者は切っても切れない関係にあると見ることが妥当である。
 新自由主義の「破産」と見えたものは、次の新たなアクションのための小休止でしかなかった。むしろ新自由主義は、「破産」や「行きづまり」を契機としバネとし、さらにそれらを利用しながら状況に合わせてみずからを変化させ、いっそう強大になっていっている。そうであるとするならばわれわれは、新自由主義の「回帰」や「復権」といった現象の背後に存在するものにこそ注意を向けていかねばならない。

 ▼2節 源流は古典派経済学

 ここで新自由主義という用語の由来について考えてみたい。一般的にこの言葉は、ある思想や政策を批判的に取り上げる時に使われる。そういう場合がほとんどと言ってよいだろう。自分は新自由主義者であると名乗る人物は少ない(*注2)。新自由主義者たちはみずからを、自由主義的価値観を持つ「真の自由主義者」であると言う。では自由主義とは何か。
 自由主義は、ルネッサンス、宗教改革などをへて、イギリスやフランスの啓蒙思想から始まる十八世紀のヨーロッパに生まれた思想である。初期の自由主義は、その後の経過を踏まえて現在では「古典的自由主義」とも呼ばれる。自由主義という用語の意味であるが、これを辞書で引くと、「個人の権利や自由を強調し、政府の権力の制限を求める政治的・経済的な基本原則」(ブリタニカ百科事典)とある。共同体や集団の利益よりも、個人の利益や権利を重視し、それを社会の基本原理に置こうという思想である。それは歴史的にはヨーロッパの絶対主義王政下で生まれ、いまだ革命的な性格を持っていたブルジョア階級の思想として発展してきた。今日の新自由主義者は、この古典的自由主義の価値観を復活させることを主張してきた。そのような意味では、新自由主義もまた自由主義の流れのうちにある。だが今日の新自由主義は、支配階級となったブルジョア階級が進歩性を失い、自己の支配体制の維持・強化に汲々としている帝国主義(独占資本主義)の時代の自由主義である。それが不断に反動・反革命として立ち現れる歴史的な背景がここにある。
 新自由主義の直接の源流は、アダム・スミス(一七二三〜一七九〇年)らに代表されるいわゆる古典派経済学の自由主義経済理論にある。古典派経済学の学説は、ヨーロッパにおいてまず成立した産業資本主義に対応する経済理論であり、自由競争段階の資本主義の発展を支える役割をはたした。
 マルクスは『資本論』(一八六七年、八五年、九四年)の副題に「経済学批判」と付けたが、ここで言う「経済学」こそ、マルクスが「古典派経済学」とも「国民経済学」「ブルジョア経済学」とも呼んだスミスやデヴィッド・リカード(一七七二〜一八二三年)らの経済理論であった。マルクスは古典派経済学への徹底的な批判を媒介にしてみずからの資本主義批判の内容を形成した。その場合マルクスは、同じブルジョア経済学であってもスミスやリカードらの古典派経済学とそれ以降の経済学とを区別して扱った。マルクスは後者のそれを「俗流」経済学と呼んだ。古典派経済学もまた、資本主義的生産様式を「社会的生産の永遠の自然形態」と誤認している点ではブルジョア経済学としての限界のうちにあるが、しかしそれらには「私利をはなれた研究」「とらわれない科学的探究」という面があると評価し、「ブルジョア的生産関係の内的関連を探求する経済学」として、これを批判・乗り越えの対象とした。古典派経済学以降、ブルジョア経済学が「俗流化」していったのは、十八世紀後半からイギリスで本格化する産業革命を背景にして、資本と労働の対立と闘争が激しくなっていったからである。マルクスは言う。「イギリスの古典派経済学は、階級闘争がまだ発展していなかった時期のものである」「経済学が科学でありうるのは、ただ、階級闘争がまだ潜在的であるか、またはただ個別的現象としてしか現れていないあいだだけのことなのである」(『資本論』第二版後記・一八七三年)。労資の階級的利害対立が階級闘争という形をとり始めるようになると、ブルジョア学問は科学性・中立性を保つことがむずかしくなる。階級対立は学説の内容にもいやおうなく反映するということである。興味深い指摘であるが、これはまた、十八世紀の古典的自由主義と現在の新自由主義との相違を考えていくうえでも重要な視点となる。

 ▼3節 国家の役割最小限に

 スミスら古典派経済学派は、先行する重商主義や重農主義とは異なり、富の本質を労働に求めた。富の源泉は貿易差額(重商主義)や土地(重農主義)にではなく人間の労働にあると考えた。そして労働生産物である国民の富を増大させていくために、労働生産性をいかに高めていくのかを問題とした。スミスは次のように言う。「労働の生産性が飛躍的に向上してきたのは分業の結果」であり、その「分業は交換の力によって生まれるものなので、分業の程度も交換の力の強さによって、言い換えれば市場の大きさによって制約される」(『国富論』一七七六年)。つまり、市場を拡大・発展させていけばそれにつれて労働生産性は高まり、これによって社会の発展や国富の増進がもたらされるというのである。さらに、自由な競争が行なわれる市場では、本来利己的な諸個人が自分の利益だけを求めて行動すれば、諸個人の意図とは関係なく「見えざる手」が働くので、市場は自動的に調整されていく、国家や政府が市場に干渉すればかえって市場の自動調節機能は歪められるとした(*注3)。
 スミスらにとっては、市場は「自由放任」(俗に言うレッセフェール。なすがままにまかせよ!)の状態が理想的で、ここからまた「小さな政府」や、のちには「夜警国家」(国防・警察・教育・インフラ整備などに役割を限定した最小国家)などが唱えられることになる。貿易においては政府が輸出入を管理・統制する保護貿易主義ではなく自由貿易主義を支持した。
 こうした古典派経済学の「自由主義市場経済、小さな政府、自由貿易」「私有財産制、個人の自由」などの基本的価値観が、第二次大戦後、フリードリッヒ・ハイエク(一八九九〜一九九二年)やミルトン・フリードマン(一九一二〜二〇〇六年)らの経済学者によって強力にバック・アップされ創始された現在のネオ・リベラリズム(新自由主義)運動のイデオロギー的基礎となる。
 新自由主義が古典的自由主義を思想的基盤にして生まれたのはたしかであるが、両者を単純に同一視することはできない。市場主義者であるスミスは、同時に貧困や経済格差にも目を向け、道徳や倫理観を重要視していた。たとえばスミスのもうひとつの著書『道徳感情論』(一七五九年)には「富める者や権力を持った者を賛美するだけでなく、ほとんどこれを崇拝し、貧しい者や身分の低い者を軽蔑もしくは無視してしまうような性向は……われわれの道徳感情を退廃させる、大きな、そして最も普遍的な原因ともなっている」というようなことが書かれている。『国富論』では、「大部分の人が貧しく、みじめであれば、社会が繁栄していたり、幸せであったりするはずがない」などと述べられている。マルクスはこのような主張に対し、「スミスによれば、大多数が苦しんでいるような社会は幸福ではないのだから、しかも社会のもっとも富んだ状態がこの多数者の苦悩へと向かっており、そして国民経済(一般的には私的利害の社会)がこのもっとも富んだ状態へと向かっているのだから、したがって社会の不幸が国民経済の目的だということになる」(『経済学・哲学草稿』一八四四年)と批判している。たとえ社会の富が全体として増大したとしても、賃金奴隷としての労働者階級の状態は相対的にも絶対的にも悪化しうる。労働者階級の立場に立ってみれば、スミスらの主張は空論であり、欺まん的なものである。しかし、今日の新自由主義はこういう古典的自由主義の空虚な倫理観ですらしりぞけるのである。

 ▼4節 勝者の自由

 古典的自由主義のブルジョア的モラルは、新自由主義ではなく、今日、リベラリズム、リベラリストと呼ばれる潮流(社会自由主義とも言う)に受け継がれているように思える。もちろん古典的自由主義の正統な継承者であることを自認する新自由主義者は、こうした見方に強く反対しているのだが……。新自由主義者は、リベラリストたちを社会主義の隠れ信奉者だと非難してきた。共和党右派がオバマを「社会主義者」呼ばわりするのもこの同一線上にある。リベラルとかリベラリズムと聞けば、封建主義的・権威主義的な思想に批判的であり、社会のあり方などを問題にする、どちらかと言えば進歩的な性格をもつ思想を想い起こす。しかし、新自由主義の「自由主義」(リベラリズム)には、かれらが「究極の目的」とする「個人の自由」や「競争の自由」はあっても、「不平等からの自由」(富の再分配、格差の是正)など社会的公平・公正さを求める内容は含まれていない。新自由主義政治家として知られたマーガレット・サッチャーは「社会というものはない。あるのは個人と家庭だけだ」と言ったという。社会に依存するな、社会の助けがなくとも個人で生きよという主張である。これとは反対に、戦前の米国大統領フランクリン・ルーズベルトのように、資本主義者であったとしても「市場の行きすぎた自由」を批判し、「欠乏からの自由」を主張するリベラルな政治家もいた。新自由主義が口にする「自由」は、基本的自由権を広く認めるリベラリストのそれとは内容的に相当異なっている。新自由主義の「自由」は、市場競争において勝利したものの特権的な自由、勝者の自由である。競争における勝者のみが享受できる自由である。この点で新自由主義は「社会ダーウィニズム」に似ている。ダーウィン進化論の「自然選択・適者生存」説を、人間社会に適用したものが社会ダーウィニズムである。生存競争において適者が生き残ることで社会は進化するという思想である。これによって、貧富の格差、さまざまな社会的差別、帝国主義の植民地支配等はすべて正当なものとして合理化されてきた。新自由主義もこうした内容を共有している。
 総括的に言えば、今日の新自由主義は自由主義の「政治的・経済的な基本原則」のうち政治的原則(個人の権利や自由を抑圧する国家の権力を制限する)を後景に追いやったうえで、自由の概念を狭く「経済的自由」(国家の経済への介入を最小化する)に収れんさせ、この面を肥大化させて強調するような思想となっている。「新自由主義の一般的形態は経済的自由主義である」と言われるゆえんである。
 新自由主義は、イデオロギー、一連の政策、その実現をめざす運動の三位一体ととらえられるが、とくにその運動的側面、この運動の「変革的」性格には注目しておかなければならない。新自由主義はこれまでの資本主義の流れ・価値観の逆転・転倒をはかりながら、既存経済・社会の「創造的破壊」を通じて、資本の利益を実現する右からの「変革運動」として現れる。新自由主義はまた、階級妥協を否定し、労働者階級人民がたたかいとってきた諸成果・諸権利を剥奪しその抵抗を粉々に打ち砕こうとする反動・反革命運動として立ち現れる。新自由主義の大きな特徴のひとつがここにある(*注4)。

 ▼5節 モン・ペルラン協会以降

 ここまで、新自由主義思想の原点とそのコアについてふれてきた。次に新自由主義の戦後の歩み、その発生と発展の過程を簡単に見ておこう(*注5)。
 新自由主義と呼ばれる思想は、一九三〇年代のヨーロッパで生まれた。新自由主義が一つの思想運動として本格的な動きを開始していくのは、戦間期一九三八年のウォルター・リップマン・シンポジウムと第二次世界大戦後の一九四七年のモン・ペルラン会議をへて以降のことである(この時期の新自由主義は「古典的・新自由主義」と呼ばれることもある)。とくに後者、モン・ペルラン会議がもつ位置は大きい。一九四七年四月、ハイエクの呼びかけで、スイスのモン・ペルランに欧米の三十六人の自由主義経済学者、歴史学者らが集まり、モン・ペルラン協会なる団体を結成した。出席者のなかには、その後ハイエクとともに米国のシカゴ大学を拠点に新自由主義学派(シカゴ学派)を形成していくフリードマンも含まれていた。「文明の中核的価値は危機に瀕している。人間の尊厳や自由の基本的条件は、地上のかなりの部分でもはや失われた」―協会の創立宣言(「目的についての宣言」)はこのような危機意識にみちた言葉で始まる。「人間の尊厳や自由」という「文明の中核的価値」を崩壊させようとしているのは「全体主義」の社会主義・共産主義、ファシズムであり、また「私的所有や競争的市場に対する信念」(宣言)を衰退させたケインズ主義・社会民主主義である。これらに反対し、自由主義的価値観と自由主義市場経済の重要性を外に向かって、とりわけブルジョア政治家に対して訴えていくことが、モン・ペルラン協会設立の基本的目的であった。出発時のモン・ペルラン協会は、国際的反共組織というべき性格の色濃い学者集団であった。この当時の新自由主義者はフランス、ドイツ、英米の大よそ三つのグループに分かれていたと言われる(権上康男・編著『新自由主義と戦後資本主義』二〇〇六年)。そのなかでハイエクやフリードマンを中心とした英米の「『市場原理主義』型の新自由主義」グループがその後、最大勢力となっていくのである。
 戦後直後の新自由主義派は、ドイツやフランスなどで一定の政策的影響力を持ったものの、全体として小さな勢力にとどまっていた。フリードマンはのちに、「大きな政府を標榜する福祉国家論やケインズ主義の勝利は、自由と繁栄を脅かすのではないか――そう危惧していた私たちは孤立した少数派で、学者仲間の大半から異端視されていた」と回顧している(一九六二年『資本主義と自由』八二年版・まえがき)。戦後復興が問題となっていた第二次大戦終結から間もない時代においては、「福祉より自由を」などという主張が受け入れられていく条件は限定されていた。だが以下に概括するような戦後世界の変容が、それをじょじょに変化させていく。
 第二次世界大戦後、戦争によって疲弊した資本主義世界経済は急速な回復に向かった。圧倒的な経済力・軍事力を有した米帝を中心国として戦後世界支配体制の編成が行なわれ、「パックス・アメリカーナ(アメリカによる平和)」と呼ばれた相対的安定期のもとで、世界資本主義は高い経済成長をつづけていく。欧米資本主義諸国では、財政金融政策による経済への介入、国家財政出動による需要や雇用の拡大を重視するケインズ主義や、福祉国家路線をかかげる社会民主主義など国家主導型の修正資本主義路線(*注6)が主流になった。それはフォーディズム(グラムシ命名)という新たな資本主義的生産様式(ベルトコンベア・システムによる耐久消費財の大量生産→賃金上昇→大量消費の循環)と結合して、資本主義的繁栄・安定の一時代をつくり出した。
 しかし、一九七〇年代に入るとこうした状況は一変する。七〇年代初頭のドル金兌換停止―国際通貨体制の崩壊、ドル危機の進行、石油危機とスタグフレーション(不況とインフレの同時進行)、米をはじめとする各国財政赤字の顕在化、さらに一九七五年にはベトナム戦争で米帝が完全敗北するといった資本主義・帝国主義にとって大きな危機的事態が、この時期、あい次いで発生する。「深刻な資本蓄積危機」(デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』二〇〇五年)とともに戦後資本主義の行きづまりがあらわになり、世界資本主義のトレンド(傾向・すう勢)にふたたび転機が訪れる。深まる危機を前にしてケインズ主義や社会民主主義の修正資本主義路線は無力であった。ケインズ主義の財政金融政策が経済回復に効果的な役割を果たさなくなったことを決定的な契機として、新自由主義は台頭していく。「国家」から「市場」へ、「大きな政府」から「小さな政府」へ、さらに「生産」から「金融」へのシフトが世界的に起こり始める。かくして現在まで三十年間つづく新自由主義の一時代が幕をあける。一九七九年の英国サッチャー政権の誕生、一九八一年の米国レーガン政権の成立は、先進資本主義国における新自由主義化の画期となった。日本では一九八二年に中曽根政権が誕生し、臨調・行革、国鉄分割・民営化など新自由主義的な政策に着手していった。
 その後、一九九〇年代に入ると、ソ連・東欧圏が崩壊し、資本の動向に制動をかけてきたそれらの体制・経済が資本主義統一市場に解体的に組み込まれ、世界市場はいっきょに拡大した。グローバリゼーションの時代の本格的到来という客観的状況は、新自由主義の台頭をさらに後押しした。こうして資本の新たな経済学、資本主義再活性化の処方箋として新自由主義はその地位を固めていったのであった。

 ▼6節 経済政策

 競争的で自由な市場という理念を世界に流布し、自由市場を世界各地に創出・拡大していくことを新自由主義者は使命としている。このために国際機関や各国政府に影響を与え、新自由主義的な経済政策を採用させていくことがかれらの重大な関心事となる。
 新自由主義派が提示する経済政策の内容は、具体的にはどのようなものか。それはたとえば、フリードマンが『資本主義と自由』のなかで示したリスト(*注7)や、第三世界の累積債務問題へのIMFや世界銀行の対応の内容をまとめた「ワシントン・コンセンサス」(*注8)などに散見される。
 こうした一次資料とは別に、われわれが新自由主義的経済政策の現在の内容を把握していくうえで参考になる簡便な文書がある。そのひとつは、「ネオ・リベラリズムとは何か?」と題したエリザベス・マルチネス、アルノルド・ガルシア(移民・難民の権利のための全米ネットワーク)著の短い文書である。二〇〇五年ごろに書かれた文書で、さまざまなところで取り上げられている。「活動家のための簡潔な規定」とのサブタイトルが付けられたこの文書は、「『ネオ・リベラリズム』とは、この二十五年ほどのあいだに広まったワンセットの経済政策のことである」としたうえで、「ネオ・リベラリズムの主要な特徴」として次の五点をあげる。
 少し長いが以下、関連する部分の全文を紹介する。「@市場の支配。『自由な』企業、言いかえれば民間企業を、政府(国家)が強制するいかなる束縛からも自由にすること。たとえそれがどれほど大きな社会的損失を引き起こそうとも。NAFTA(北米自由貿易協定)のように、国際貿易と国際的投資にさらに広く門戸を開放すること。労働組合をつぶして賃金を下げ、長期の闘争によってかちとられてきた労働者の権利をはく奪すること。価格統制はしない。資本、商品、サービスの動きをすべて完全自由化すること。これらがすばらしいものであることを人々に信じ込ますために次のように言うこと。『規制のない市場は経済成長を実現する最良の道だ。それは最終的にはすべての人に利益をもたらす』と。レーガン政権時の『サプライ・サイド』経済や『トリクル・ダウン』経済とよく似ている。しかしなぜか富がたくさんしたたり落ちてくる(トリクル・ダウン)ということはなかった」「A教育・医療など社会サービスへの公的支出の削減。政府の役割を小さくするという名目のもとで、貧困者に対するセーフティ・ネットの縮小。道路や橋、水道などの修復さえも予算削減の対象とする。もちろん企業は、ビジネスのための政府の補助金支出や税金の優遇には反対はしない」「B規制緩和。労働環境・労働安全基準の遵守など、企業の利益を減らすおそれのあるすべてのものに対する政府基準の緩和」「C民営化。国有の企業、物品、サービスを民間投資家に売却すること。民営化の対象には銀行、基幹産業、鉄道、高速道路、電気、学校、病院、真水さえも含まれる。より高い効率性をもたらすという名目で民営化は通例行なわれてきたのだが(そうすることがしばしば必要であるのだが)、主として、富をさらに少数者に集中させ、公的資金をさらに少数者の必要のために使うという点においてこそ民営化は効果をあげてきた」「D『公益』や『コミュニティー』という概念を抹消し、それを『自己責任』に取り替えること。社会の最も貧しい人たちに、医療・教育・社会保障の不足をすべて自分自身で解決するように圧力を加えること。もしそれが解決できなければ、それら貧困者を『怠け者』と非難すること」
 まとめれば、@市場の支配A公的支出の削減B規制緩和C民営化D公益概念の排除、以上の五点である。新自由主義経済政策の共通点を抽出した包括的規定となっている。ただ、@の領域では、貧困と格差を拡大する大きな要因となっている労働市場の規制緩和、労働法制の改悪、それによる不安定雇用労働者の政策的創出という点についてはもっと強調されて良いのではないか。また新自由主義の台頭は、世界経済の金融化・投機化と軌を一にしたものであり、新自由主義は今日の金融のグローバリゼーションを一気におし進める役割を果たしたことも重視されるべきとも思う。

 ▼7節 軍事独裁下の市場自由化

 こうした新自由主義政策は、どのようにして世界に拡散していったのか。
 新自由主義は、一九七〇年代に資本主義救済の切り札として登場した。しかし意外なことに、それが七〇年代の世界において初めて現れたのは、欧米日の先進資本主義国ではなく、一九七三年の南米チリであった。ここで簡単に当時のチリの状況をふり返っておこう。
 一九七〇年、チリの大統領選挙で人民連合のサルバドール・アジェンデが当選をはたし、左派政権が誕生した。アジェンデ政権は成立後、産業の国有化などに着手する。当時の米帝・共和党ニクソン政権とチリに利権を持っていた米・多国籍企業はアジェンデ政権を危険視し、この政権の転覆と体制転換をもくろんだ。アジェンデ政権打倒のために米CIA(中央情報局)が資金援助などを開始し、同時にシカゴ・ボーイズと呼ばれた米国とチリ国内のシカゴ学派が、アジェンデ追放後の経済政策を作成し始める。一九七三年九月十一日、アウグスト・ピノチェト将軍らによって軍事クーデターが引き起こされ、アジェンデ政権は暴力的に打倒された。この時、数千人の労働者人民が軍によって処刑されたり、行方不明となったりした。人々を恐怖に震え上がらせ、抵抗を排除したうえで、アジェンデ打倒後、今日「ショック療法」と呼ばれる新自由主義政策が実施に移された。前出の『ショック・ドクトリン』はその内容について次のように述べている。「経済プログラムの最終原稿に盛り込まれた提案は、ミルトン・フリードマンが『資本主義と自由』で行なった提案――民営化、規制緩和、社会支出の削減――と驚くほど似ていた」「いくつかの銀行を含む国営企業の一部(全部ではなく)を民営化し、最先端の新しい形態の投機的金融を許可し、長年チリの製造業者を保護してきた障壁を取り除いて外国からの輸入を自由化し、財政支出を一〇%縮小した(ただし軍事費だけは大幅に増大した)。さらに価格統制も撤廃したが、これはパンや食用油など生活必需品の価格を過去何十年間も統制してきたチリにとって急進的な措置だった」。こうして、クーデター後のチリにおいて、新自由主義の経済政策が世界に先がけて実施に移されたのである。
 この「もうひとつの9・11」と言われるチリの歴史的事件は、ピノチェトと米帝によるいわば合作クーデターであった。米帝国主義はピノチェトの軍事独裁を強力に支え、シカゴ学派は独裁政権の頭脳として反革命的な役割を十二分に果たした。フリードマンやハイエクはチリ現地を訪れてピノチェトと親交を深め、チリ社会の改造過程に直接関与した。全体主義や専制に反対するという新自由主義者の自由主義的価値観は口先だけのものであることが明白になった。ここでは新自由主義の理念と実際、理論と実践は大きく乖離する様相を示した。しかしそれでも良しとされた。ハイエクは過去に次のように述べていた。「自由主義の基本原理には、自由主義は固定した教義であるとする考え方は、まったく含まれていない。またこの原理に、一度決めてしまえばもう変える必要のない厳密な理論的原則があるわけでもない」(『隷属への道』一九四四年)。新自由主義は目的達成のためには手段を選ばず、自己の学説の内容や原理さえ歪めることもいとわない。新自由主義は単純な「自由放任(レッセフェール)」主義者ではない。逆にハイエクらは、「『自由放任』の原則」というのは「未熟な法則」「初期の形態」であり、市場経済の拡大のためには国家に積極的な役割を与えねばならないと当初から考えていた(同前)。新自由主義者には、ピノチェトのような軍事独裁政権と手を結ぶことは何の矛盾もなかったのである。
 チリは新自由主義の一大実験室となった。多数の人々を血の海に沈めたうえで、経済的には失敗したこの「実験」は、新自由主義を世界政策としていくための新自由主義者たちの挑戦、その国際的な奪権闘争のために利用された。
 チリの「実験」は、新自由主義が世界各地で拡大していく合図となった。新自由主義はその後、「三つの戦場」で、すなわち先進資本主義国、第三世界諸国、旧ソ連・東欧圏で猛威をふるうようになる。そのあらわれは基本において同一だが、とくに第三世界ではより略奪的・暴力的であり、ネオコロニアリズム(新植民地主義)と固く結びついている。(つづく)

 (※次回から、D・ハーヴェイ著『新自由主義』に対する評価、日本における新自由主義などについて扱っていく予定である)


 【注】

 (注1)米国のマイケル・ムーア監督が〇九年に作製した映画『キャピタリズム』では、住宅ローンが払えずに自宅を強制的に差し押さえられる人々が何度も登場する。この映画には、大統領選でのオバマの勝利は、そうした過酷な現実を強いられたぼう大な民衆の怒りの反映でもあったことが描かれている。日本では〇八年以降、「派遣切り」と呼ばれた非正規雇用労働者への解雇の嵐が吹き荒れた。これに抗し、〇八年末から〇九年にかけて「年越し派遣村」が都心・日比谷公園の一角に出現した。派遣村の取り組みは日本社会に広く共感を生み出し、当時の自公政権への批判が高まっていく大きな契機となった。
 (注2)労働経済学者の八代尚弘は二〇一〇年八月に『新自由主義の復権』という本を出した。本の内容は小泉構造改革路線を評価しその復活を求めるものであるが、ここでは新自由主義という言葉は肯定的な意味合いで使われている。こうした用法は、いまのところ例外的である。
 (注3)ここでは、資本主義社会の三大階級である資本家・地主・労働者がそれぞれ資本・土地・労働を所有する商品所有者としてみなされ、三者が市場において何の特権もなく自由・平等に商品を交換し合うという市場観が前提とされている。マルクスはそうしたスミスらの主張を取り上げて、「労働力の売買が、その限界のなかで行われる流通または商品交換の部面は、じっさい、天賦の人権のほんとうの楽園だった。ここで支配しているのは、ただ自由、平等、所有、そしてベンサムである」(『資本論』第一巻・第二篇・四章・三節「労働力の売買」)と痛烈に皮肉っている。労働者と資本家の関係が市場ではたとえ平等に見えようとも、それは外観にすぎない。「楽園」である市場の外部に存在する「隠れた生産の場所」では、資本家は本性を発揮して労働者に対する指揮・監督・命令者としてふるまうのである。
 (注4)新自由主義は労働組合を徹底的に敵視する。ハイエクは一九四七年に次のように述べた。「いかに労働組合の権力を法律ならびに現実のなかで適切に制限することができるかという問題が、私たちが注意を払うべき問題のなかでももっとも重要なものの一つであります」(モン・ペルラン会議での報告)。こうした反労働組合思想は、現在の新自由主義者にも共通している。
 (注5)十九世紀の後半から、マルクス主義経済学に対抗する形で、スミスらの古典派経済学を継承する新古典派経済学が形成されてきた。日本で近代経済学(近経)として分類されてきたブルジョア経済学の中心部分はここにルーツをもっている。二十世紀に入るとこの流れから、多種多様な新古典派、ケインズ派、あるいは新古典派総合と呼ばれる経済学が生まれた。新自由主義は現代の新古典派経済学の一潮流である。
 (注6)国家が上から経済過程に積極的に介入していくことにより、資本主義が生み出す諸矛盾(恐慌、失業、貧困、社会不安の増大…)を緩和し、労働者階級を包摂しながら資本主義体制の防衛と安定をはかっていこうとする階級協調路線をここでは修正資本主義路線と総称する。それは一九一七年ロシア社会主義革命の勝利とその後のソ連の存続、一九二九年に始まる大恐慌、資本主義国内における階級闘争の発展などの要因に規定されて生まれた。
 (注7)フリードマンは『資本主義と自由』のなかで、米政府が行なっている事業(一九六二年時点)のうち、次の十四項目を中止すべき事業の「一部」として例示している。@農産物の買取保証価格制度A輸入関税または輸出制限B農産物や原油の産出規制C家賃・物価・賃金統制D法定の最低賃金や価格上限E細部にわたる産業規制Fラジオ・テレビの規制G現行の社会保障制度、とくに老齢・退職年金制度H事業・職業免許制度I公営住宅や住宅建設の補助金制度J平時の徴兵制K国立公園L営利目的での郵便事業の法的禁止M公有公営の有料道路
 (注8)「ワシントン・コンセンサス」とは、米国の国際経済研究所(IIE)のジョン・ウィリアムソンが、一九八九年に発表した論文のなかで定式化した用語である。ワシントンに本拠をおく米財務省、IMF、世界銀行などの共通合意(コンセンサス)という意味でこう呼ばれる。その内容は十項目あり、新自由主義の世界的な経済政策として知られている。十項目とは、@財政赤字の是正A補助金カットなど財政支出の変更B税制改革C金利の自由化D競争力ある為替レートE貿易の自由化F直接投資の受け入れ促進G国営企業の民営化H規制緩和I所有権法の確立である



 

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