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   被爆二世から見た
     被爆者解放運動の総括と私達の地平


     侵略反革命と闘う被爆二世の会

                           



  ●T 反帝闘争としての被爆者解放闘争

  ▼1 侵略反革命と闘う被爆二世の会結成

 一九八五年当時、日帝―中曽根政権は日本を「不沈空母」にすると言いなして、軍事大国化路線を突き進んでいた。広島・長崎の原爆被爆者を親に持つ被爆二世としてこれが許せず、「二度とアジアに対する侵略反革命戦争を許さない。そして原子力エネルギー政策を通じた日帝の核武装も許さない!」として、当時、共産主義者同盟(戦旗派)に結集していた被爆二世の同志が集い、「侵略反革命と闘う被爆二世の会」を結成した。
 結成の過程で、被爆二世はその出生から成長していく中で、自らの健康不安を抱えていることが分かった。まず生まれる過程で、親である被爆者は「子どもが健康にちゃんと生まれてくるだろうか」と原爆の影響を心配した。中には、流産・死産という形で、生きることができなかった被爆二世もいた。この世に生を受けても、歯ぐきや鼻から出血しやすかったり、免疫力が弱くて風邪を引きやすかったり、いろいろな病気にかかったりする者がおり、そうした病気が原爆と関わりがあるのではと不安になった。
 こうした不安は簡単に解消されるものではないし、私たちの責任でも、ましてや親の責任でもない。そう考えるにいたったのは、私たちの被爆二世の会が、障害者解放運動の中から生まれたからだ。障害者が自らの生存権をかけ地域で暮らしていく闘いを共にするなかで、「何で被爆二世でいけんのか? 病弱だったり障害があったら、この世界で生きていてはいけないのか?」。否、私たちには生きる権利がある。私たち被爆二世が生きづらいのは、私たちのせいではない。侵略戦争を引き起こし原爆投下を招いた帝国主義の社会にこそ、その責任がある。だから、自らが「被爆二世」であると名乗り出ることを通じて、この帝国主義の社会を、「戦争も核の被害も差別も無い社会に変えていくのだ」という被爆二世の側からの戦闘宣言として、被爆二世の会が結成された。その上で、被爆二世という存在は、ただ健康不安に脅える存在ではなく、帝国主義戦争の人民虐殺の生き証人として、自らの身体にその歴史を刻み込んだ帝国主義を打倒する解放主体であると宣言した。そして、帝国主義戦争の歴史を労働者階級人民の中に継承する存在として、階級闘争の一翼を担う革命的な階層として、被爆者(二世・三世)の団結を作り出すことを決意したのだ。
 具体的には、当初、原爆映画の『にんげんをかえせ』を上映する取り組みや、被爆二世の大衆的な組織化に取り組んだ。そして被爆二世にとって唯一の援護施策としてある単年度措置の被爆二世検診の受診を呼びかける運動をした。
 一九七九年に日帝が「核アレルギー解消」を目的に「被爆二世健康調査」を行おうとした。当時の被爆二世運動は、「モルモットになるな!ABCC(現在の放射線影響研究所)のような放射能の人体への影響を調べる軍事利用は許さない!」とこの調査を拒否した。しかし私たちが被爆二世の会を結成した当時、このような運動はすでに弱くなっていた。
 そのような中で、唯一の援護施策である被爆二世健康診断を利用しなければ、国は、今ある援護施策さえも止めてしまうのではないかと危機感を感じた。
 逆に、今ある被爆二世健康診断を利用することで、被爆二世の健康管理に役立てると共に、被爆二世の団結を作り出すことにした。被爆二世の会は、検診結果を記録できる「被爆二世健康手帳」を自主制作し、検診に訪れる被爆二世に配布した。手帳を配布する際に、多くの被爆二世の悩みや要求を聞くことができた。そこで、被爆二世の要求をもとに、県や国に対し要請行動を行った。
 また、米原子力空母エンタープライズやカールビンソンの佐世保寄港を阻止するデモや三里塚軍事空港反対闘争に立ち上がった。とりわけ三里塚二期決戦では、成田用水決戦を皮切りに9・16三里塚第一公園からの機動隊との激突戦、10・20三里塚十字路戦闘、東峰団結会館を守り抜くための東峰死守戦と木の根育苗ハウス死守戦、そして組織壊滅型の弾圧としての封印破棄弾圧に至る過程で、侵略反革命と闘う被爆二世の会の同志は獄中闘争や精神病者解放闘争に立ち上がった。この反帝政治闘争を闘いきった上で、地域の中で被爆者運動の歴史と地平を学び、そこから、被爆者(二世・三世)を組織化する闘いに入っていく。そして、被爆者の解放の基軸ともいうべき「反戦・反核・反原発・被爆者(二世・三世)の国家補償に基づく援護の実現」という路線を確立していった。

  ▼2 日米両帝国主義の核支配に抗して

 帝国主義国の中で、核兵器を実際に使用したのは米帝だけであり、これを被爆二世として絶対に許さない。
 現在、世界には未だに二万三千発の核兵器が存在し、核兵器保有国は更に増え続けようとしている。アメリカ軍は、湾岸戦争やイラク戦争、アフガニスタン戦争でも放射線被害を与える「劣化」ウラン弾を使用している。また、オバマ政権は二〇一〇年九月と十二月、二〇一一年二月には未臨界核実験を、二〇一〇年十一月と二〇一一年三月、七〜九月には新しい核実験(Zマシン)を行っている。われわれ被爆二世の会は、米帝オバマ政権に対して全ての核実験を止めるように抗議文を送付した。
 被爆者(二世・三世)は、NPT(核不拡散条約)体制にもとづく核兵器の削減を求めているのではない。世界中から核兵器を廃棄させるためには、まず、八月六日広島、八月九日長崎へ原爆を投下した米帝こそが、真っ先に核兵器を全廃することを求めていかなければならない。広島・長崎への原爆投下は人道上許すことのできない戦争犯罪である。米帝に、被爆者(二世・三世)に対する謝罪を要求する。そして、世界中の核兵器の九割を保有している米帝とロシアにこそ、核兵器廃絶(一つの核兵器も持たないこと)の先頭に立つことを求める。核兵器廃絶の運動の先頭に、私たち被爆者(二世・三世)は立ち続ける。
 歴史的に見れば、米帝は広島・長崎での原爆被害を覆い隠してきた。一九四五年九月には、「広島・長崎への原爆被害に遭った者は全て死に絶え、現在生き残っている者には影響は無い」と言い放った。その後、占領軍の支配の中で、広島・長崎では「プレスコード」がひかれ、原爆症や被爆地における被害が一切、公にできなかった。原爆の後遺症に苦しむ広島・長崎の被爆者は、沈黙の強制と差別を強いられた。そして、次々と多くの被爆者が原爆症のために亡くなっていった。そうした中で、被爆者と労働者民衆の最初の反撃は、一九五〇年の朝鮮戦争に反対する闘いとして繰り広げられた。峠三吉をはじめとする「原爆詩集」の発刊と「被爆の惨状」の告発が行われたのもこの時期である。
 広島では、「朝鮮戦争反対!」「原爆の使用反対!」を掲げる非合法集会やビラまきが取り組まれた。それは、ストックホルム・アピールに見られるように、世界中の原水爆禁止運動の高揚とも結合した。
 一九五三年十二月、米帝はアイゼンハワー大統領が国連で演説して「原子力の平和利用」を宣言した。
 一九五四年三月、第五福竜丸がビキニ環礁で米帝の水爆実験による「死の灰」を浴び、船長の久保山愛吉さんをはじめとする乗組員が被曝し、放射線障害に苦しむ。この事件を機に全国に原水爆禁止運動が広がっていった。この時期にはじめて、原水爆禁止運動と被爆者援護を求める闘いが一つになった。
 一九五六年には広島の平和記念資料館で「原子力平和利用博覧会」が米帝主導の下で開かれ、原子炉模型などが展示される。この年、日帝は元読売新聞社社主の正力松太郎を初代原子力委員長に就任させた。そして、英帝からJPDR(コールダホール型原子炉)の導入を目論む。それは、広島の平和資料館での原子力産業博覧会の開催に見られるように、被爆者の反核の意志を懐柔し、押しつぶすためであった。同時に、日帝は敗戦帝国主義国の総括として、独自の核武装化を実現する第一歩と考え、原子力発電を推進した。
 一方で一九五六年八月に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協=以下、被団協)が長崎の地で結成された。被爆者たちは、核被害の隠蔽や被爆者に対する差別を乗り越えて、自ら被爆者運動に立ち上がった。多くの被爆者が原爆症と闘いながら被爆者の援護と核兵器の廃絶を訴えた。残念ながら被団協の結成宣言は、「私たちは今日ここに声を合わせて高らかに全世界に訴えます。人類は私たちの犠牲と苦難をまたふたたび繰り返してはなりません」としながらも、「破壊と死滅の方向に行くおそれのある原子力を決定的に人類の幸福と繁栄との方向に向わせるということこそが、私たちの生きる限りの唯一の願いであります」という原子力の平和利用を認める中身をはらむものであった。それは、一部の被爆者が「原子力の平和利用」という幻想を抱く根拠ともなった。


  ●U 日帝による原爆被害の過小評価に対する闘い

 ☆ サンフランシスコ講和条約によって、日帝は米帝に対する賠償請求権を放棄したが故に、被爆者(二世・三世)の原爆被害に対して、国家補償を行う責任がある。
 ☆ アジア太平洋戦争(侵略戦争)を引き起こし、そのうえ国体護持のために、ポツダム宣言の受諾を拒否し、戦争を引き延ばした結果として原爆投下を招いた責任を日帝は取る必要がある。

  ▼1 原爆症の認定問題

 二〇〇三年に全国で始まった「原爆症認定却下取消集団訴訟」では、二〇〇六年五月の大阪地裁判決を皮切りに被爆者側勝訴の判決が出された。この裁判は、被爆者が自らの病気は原爆のせいであることを国に認めて欲しいと訴えたものだ。〇三年当時、被爆者手帳所持者約三十万人のうち原爆症が認められている被爆者は約二千数百人であり、全体の0・8%しかいなかった。しかも原爆症と認められていた被爆者は、爆心地から一・四キロメートル以内で直接被爆し、白血病やガンや原爆白内障などの限られた病気を発症した被爆者手帳所持者であった。爆心地から離れて被爆した被爆者や原爆投下後被爆地に入った入市被爆者は、たとえガンになったとしても認定は却下された。国は内部被曝の影響や残留放射能の影響は全く問題にしなかったのだ。
 それは、「一九八六年原爆放射線量評価体系」(DS86:原爆が爆発して一分以内に地上に到達した初期放射線のガンマ線と中性子線の線量を、爆心地からの距離ごとにそれぞれコンピューターで計算したもの)や「DS02」(DS86の再評価)による、日米両帝国主義の恣意的な人体への放射線の影響の判断にもとづく機械的な運用(多分な過小評価)によってなされた。
 これに対し戦後六十年を経て、それまで元気だった被爆者もガンや甲状腺障害やいろいろな原爆症(高血圧や糖尿病や肝臓病なども含まれており、特別に原爆症と言う病気があるわけではない)にかかる中で、被爆者たちは改めて原爆被害を告発した。これは、同時に米帝のアフガニスタン侵略戦争やイラク侵略戦争で劣化ウラン弾が使われていることを許さず、糾弾する闘いとしても行われた。それが、「原爆症認定却下取消集団訴訟」であった。全国各地の裁判所で、被爆者の生きてきた歴史と生活実態に沿った勝利判決が出る中で、日帝―厚生労働省は一時期、原爆症の認定件数を増やした。しかし、日帝―麻生政権下での日本被団協との和解以降、現在また原爆症認定却下の件数が大幅に増えてきている。

  ▼2 被爆地拡大の問題

  ◆被爆体験者問題


 「被爆体験者」の裁判とは、長崎で原爆に遭いながら制度上は被爆者と認められていない「被爆体験者」が、国や長崎県・長崎市に被爆者健康手帳の交付などを求めている訴訟で、第二陣四十三人が二〇一一年六月三日に長崎地裁に提訴した。第二陣の提訴者は今後も増える予定で、最終的には百三十人になりそうだ。二〇〇七年に提訴した第一陣三百九十五人は現在も係争中で、二〇一一年十二月二十六日に結審、今年六月二十五日に判決が下りる予定だ。
 現在、長崎の被爆地は、爆心からほぼ南北に半径十二キロメートル、東西に同七キロメートルに設定されている。原爆の威力を観測して無線送信するため、原爆とほぼ同時に投下された三つのラジオゾンデ(無線機付き気象観測機器)が爆心地から東に約十一〜十三キロメートルの地点で見つかっていることから考えると、被爆地はもっと広くなって当然である。被爆地の拡大が原爆投下から六十六年を経た現在も課題として残されているのだ。

  ◆「黒い雨」地域の問題

 広島では、原爆が落ちた後、放射性物質を大量に含んだ放射能雲が作られ、文字通り黒い雨が降った。その「黒い雨」が降った地域が、証言などで当初想定されていた区域より西側に広範囲にあったことがわかってきている。広島では、ほぼ同心円上に被爆地が設定されているが、実は被爆地は同心円ではなく、西広島の方に広がっている。国は「黒い雨による人体への影響はない」としている。
 敗戦直後に広島管区気象台(当時)の技師らが実施した調査では、爆心地から北西方向の長さ二十九キロメートル、幅十五キロメートルの範囲が降雨域とされた。国はこのうち強い雨が降った長さ十九キロメートル、幅十一キロメートルを健康診断特例区域に指定。「原爆症認定却下取消集団訴訟」では計八判決で、黒い雨は国の健康診断特例区域よりも広い範囲に降り、住民が被ばくした可能性があると判断している。二〇一一年十一月、広島・長崎原爆で「黒い雨」に約一万三千人(内、長崎八百人)が遭遇したというデータを、原爆傷害調査委員会(ABCC=現・放射線影響研究所〔放影研〕)が得ていたことが分かった。
 広島市と広島県による区域拡大の要望を受け、厚生労働省は二〇一〇年十二月に有識者検討会を設置した。二〇一二年一月二十日、厚生労働省の有識者検討会ワーキンググループは、「データが不足し、広島市が主張する範囲を降雨域と認めるのは科学的に困難」とする報告書を提出した。また健康への影響も精神的なものに限定した。
 この「黒い雨」を浴びた人たちが原爆被爆者手帳の交付による援護を求めている。

  ▼3 在外被爆者問題

 韓国や朝鮮民主主義人民共和国や中国に住む被爆者は、日帝の侵略の歴史によって、土地を奪われ、名前を奪われ、生活のために日本に渡ることを余儀なくされた。また、強制連行されて、日本の軍需産業や炭坑や鉱山などで監視のもとに強制労働をさせられた。広島・長崎は当時軍都であり、長崎の三菱造船や広島の三菱の工場などで多くの朝鮮人が過酷な労働を強いられた上、総数約七万人が原爆被害を受けた。本来なら、日本人被爆者より先に、賠償と援護を受けるべきであるが、この人たちは戦後もずっと放置され、未払い賃金も支払われなかった。
 日本の敗戦後、韓国人被爆者の内、約二万四千人が母国に帰ったと言われるが、家も田畑も仕事もなく貧困にあえいだ。ある韓国人被爆者は松の枝を水でふやかしたものを食べ空腹を紛らわせたという。
 一九六五年の日韓基本条約締結の直前に韓国の被爆者の現状が初めて日本に知らされる機会があり、在韓被爆者たちは、日本からの補償を受けられると期待した。しかし、日韓基本条約の内容には被爆者の補償に関する項目はなかった。日本政府や韓国政府に被爆者が補償をもとめると、「日韓基本条約で解決済み」といわれ放置された。韓国の被爆者は「このまま座して死を待つことはできない」と一九六七年に社団法人・韓国原爆被害者援護協会(後の韓国原爆被害者協会)を発足させる。
 原爆症の治療のため何度も日本に自主入国を行った韓国人被爆者の孫振斗(ソンジンド)さんは、一九七〇年再び自主入国して、不当にも逮捕され獄中闘争をしながら、被爆者手帳の取得を要求した。しかし日本政府は、一九七四年に四〇二号通達(厚生省公衆衛生局長通達:「日本国の領域を越えて居住地を移した被爆者については原爆特別措置法の適用がないものとして失権の取り扱いをするものと解される」)を発し、在外の被爆者の援護を拒んだ。一九七八年三月、最高裁で孫さんは勝訴する。判決は、「原爆医療法には国家補償的配慮が制度の根底にある。被爆者であって、現にわが国に現存する限りは同法は適用される」としながらも、「同法適用と退去強制手続きは別」とするものだった。一九七八年四月、やっと孫さんに申請時にさかのぼって「被爆者健康手帳」の交付が実現した。日本政府は一九七九年に孫さんの最高裁判決を踏まえ、原爆二法(原爆医療法、被爆者特別措置法)の再検討をするために、原爆被爆者対策基本問題懇談会(略称:基本懇)を作り、基本懇は一九八〇年に園田厚生大臣に意見書を提出した。しかしこの「基本懇答申」は、国家補償の見地に立った対策を講ずべきだとしながらも、戦争被害に対する「国民受忍論」を展開し、原爆二法を追認するひどい内容のものだった。
 その後、日本の労働者民衆及び被爆者(二世)と韓国人被爆者との交流・連帯運動の前進の中で、一九九二年に金順吉(キムスンギル)裁判が始まる。在外被爆者問題を裁判闘争で日本社会に問うていく闘いの始まりだった。金順吉さんは、「強制連行され、虐待的な労働に従事させられた挙句、原爆にまで遭った多くの仲間の代表として、日本国と三菱の戦争責任を問いたい」として立ち上がった。また、「正義は必ず勝つ。二度と日本と韓国(朝鮮)の若者の間に不幸な歴史を作り出してはいけない。これは日本と韓国(朝鮮)の未来を正す裁判だ。私にとって、原爆よりも強制連行による非人間的な扱いの方が重くのしかかっている」と訴えた。国はこの訴えを、「国家無答責」で切り捨て、三菱は「新旧三菱別会社論」で逃げた。金順吉裁判は敗訴したが、その後に続く韓国人被爆者をはじめとする在外被爆者の立ち上がりの突破口となった。
 一九九五年に提訴した「三菱広島元徴用工裁判」では、原告は原爆三法(原爆医療法、被爆者特別措置法、被爆者援護法)の在外被爆者に対する国外不適用の違法性を問い、国と三菱重工業に損害賠償を請求し、二〇〇七年の最高裁判決で国家賠償を勝ち取った。この最高裁判決の最も大きな意義は、一連の戦後補償裁判の中で初めて国の賠償責任を認めたことだ。
 一九九八年十月、郭貴勲(カクキフン)裁判が提訴された。これは、「韓国に帰国すると被爆者手帳を失権させて健康管理手当ての支給を打ち切ったのは違法だ」と、国と大阪府を相手に処分取消と二百万円の損害賠償を求め、大阪地裁に提訴したものだ。地裁、高裁と勝訴し、坂口力厚生労働大臣は二〇〇二年十二月、上告を断念した。この決定に合わせて厚生労働省は、「今後の在外被爆者への対応」として「1.今後は、日本において手帳を取得し、手当の支給認定を受けた場合には、出国した後も、手当の支給を行うこととする。そのため、所要の政省令の改正や通知の見直しを行うこととする。2.この場合、過去に、いったん手当の支給認定を受けていて、国外に出国することにより手当が支給されなくなった方については、公法上の時効(五年)を考慮しつつ、支給認定期間の未支給期間分について、遡及して、手当を支給することとする。3.なお、これら一連の措置は、あくまでも人道的見地から行うものであり、国家補償を前提とするものではない」とする文書を発表した。翌年、厚生労働省は前出の四〇二号通達を廃止する。厚生労働省はこの後も申請は来日を条件にしており、制度があっても在外被爆者は実質、申請できない状態が続いた。二〇〇五年から在外公館での申請ができるようになった。二〇〇七年には未払い手当の時効が撤廃される。しかし、日本に住む被爆者については病院の医療費は全額国が負担しているが、在外被爆者の場合上限がある。現在、在外被爆者は上限の撤廃を求め提訴中だ。
 約二万四千人いた韓国人被爆者は今では二千四百人位しか生き残っていない。日本に住んでいる被爆者の生存率が50%なのに対し、あまりにも少ない。韓国原爆被害者協会は、多くの韓国人被爆者が飢えと病気が原因で亡くなったと分析している。韓国に住んでいても健康管理手当が受け取れるようになったとき、「これで飢え死にしなくてもすむと思った」とある韓国人被爆者は語った。しかしまだ日本に住む被爆者との間には差がある。「徴用されて被爆させられた韓国の被爆者が、日本に住む被爆者と同じ制度が利用できないのは日本政府が韓国人を侮蔑しているからだ。日本政府は我々が裁判をおこすと、後追いで制度を改正する。人権感覚をもって対応してほしい」と、ある韓国人被爆者は憤る。

  ●4 被爆二世(三世)に国家補償にもとづく援護を実現する問題

 被爆二世とは、両親又はどちらかが被爆者で一九四六年六月一日(広島被爆)か六月四日(長崎被爆)以降に生まれた人のことを言う。一九九四年に成立した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」の附帯決議には「被爆者とその子及び孫に対する影響についての調査・研究及びその対策について十分配慮し、二世の健康診断については、継続して行なうとともに、その置かれている立場を理解して一層充実を図ること」とあるが、被爆二世に対し国が行っているのは年一回の健康診断(単年度措置)のみ。しかも各自治体にまかせているため、自治体によっては二世が健診を希望しても「予算の都合」という理由で健診ができなくなる場合がある。その上、この健康診断には被爆二世の最大の不安要素であるガン検診は含まれていない。被爆三世については健康診断すら行われていない。
 被爆二世の全国組織としてある全国被爆二世団体連絡協議会では、「原爆被爆二世の援護を求める署名」を集めている。これまで三十七万筆集めて厚生労働省に手渡した。要求項目は「『被爆者援護法』を、国家補償と被爆二世への適用を明記した『被爆者援護法』に改正すること。@被爆二世健康診断にガン検診を加え、充実させること。A健診の結果に応じた医療措置をおこなうこと。B被爆二世の実態調査を行い、被爆二世へ『被爆二世健康手帳』を発行すること。併せて希望する被爆三世の健康診断の開始も強く求める」というものだ。
 具体的に、各地の被爆二世対策の状況を見てみよう。
 被爆二世運動の前進のなかで、被爆二世健康手帳につながる施策を作り出した所もある。山口県では、「被爆者二世健康診断記録表」を二〇〇〇年五月に発行した。当初は、山口被爆二世の会と県が把握している被爆二世約三百名の使用者しかいなかったが、二〇一一年三月時点で、千四百名を超える被爆二世が、この県発行の「被爆者二世健康診断記録表」を活用している。そして、島根県では島根県被爆二世の会の要求で、保健所が被爆二世に、親が被爆者である証しとして被爆二世証明書(原子爆弾被爆者証明書)を発行している。
 また、全国的には地方自治体独自の被爆二世援護施策を講じているところもある。例えば東京都には、条例で定められた健康診断受診票(被爆二世健康手帳に類するもの)があり、健康管理手当に該当する疾病に半年以上かかった場合、医療費の自己負担分が公費負担となる。そして、東京都では被爆二世に対し年一回のガン検診も実施している。
 静岡県では被爆二世健康手帳は発行していないが、年一回のガン検診を実施している。神奈川県ではガン検診は無いが、被爆二世が健康管理手当に該当する疾病にかかった場合に、医療費の助成を行っている等である。
 在外の被爆二世に対しては、日本に来れば被爆二世検診を受診できるが、住んでいるそれぞれの国では、日本政府の責任による施策は全く無い。
 このように被爆二世の援護施策が住んでいる国や地方自治体によって異なる根本原因は、被爆者援護法の中に、被爆者(まだ法律に明記されていないが「第五の被爆者」)として被爆二世・三世が位置づけられていないからだ。私たちは、全ての被爆二世(三世)の国家補償に基づく援護を要求する。


  ●V 被爆者差別と闘うために

  ▼1 原爆被爆者に対する差別

 被爆者の中には、被爆六十六年を経た現在、ようやく被爆者健康手帳の申請に踏み切る被爆者がいる。それは、「子どもが結婚するまでは」「孫が産まれるまでは」と被爆者だと名乗るのをためらっていた被爆者たちだ。被爆者には社会的差別がある。被爆者が結婚をするとき、広島、長崎の出身というだけで断られたという話をよく聞く。
 この差別は被爆二世に対してもある。被爆二世の会へ電話やメールで来る相談は「私の父は被爆者だ。結婚相手の親から遺伝的影響がないかを調べろと言われた。調べてくれる機関はあるのか?」「夫が被爆二世と知らずに結婚し、今、妊娠している。子どもを生んでも大丈夫だろうか?」「被爆二世の会に入りたいが家族には被爆二世であることを隠している。郵便物は被爆二世の会からのものとわからないようにしてほしい」などである。被爆二世のAさんは「子どもが生まれたとき障害があった。夫が『お前の親父が被爆者だからだ』と言った事が忘れられない」と言って泣いた。こうした相談は3・11の福島原発事故前からあった。先も述べたように私たち被爆二世の会は障害者解放運動の中から生まれた。障害があっても病弱であっても生きる権利がある。それを差別するほうが間違っている。障害者や被爆二世が差別を受けて、生きづらい社会こそ変革していかねばならない。
 また、ある被爆二世は自身が病気になったとき、「母親が『私が被爆したせいだ』と責任を感じていた。被爆二世が遺伝的影響を言うと親を責めることになるからそれは言うべきではない」と言った。こうした考えは被爆二世の団結を阻害する。なぜ被爆二世が遺伝的影響を心配することが、親(被爆者)を責めることになるのか。その責任は日・米両帝国主義にこそあれ被爆者個人が背負うものではない。これまで日・米両帝国主義による原爆被害の過小評価が、原爆被害の全体像を隠蔽し、社会的差別を助長してきた。現在の被爆二世(三世)の置かれた援護無き差別の現実を変えて行くことが絶対に必要だ。そのためには被爆者解放運動に被爆二世(三世)を組織し、多くの労働者民衆と共に日本政府の国家補償にもとづく被爆二世援護施策を実現しなくてはならない。それは、再び帝国主義戦争も核の被害も許さない闘いだ。

  ▼2 福島原発事故における被曝者・二世差別について

 3・11事故後、多くの人が被曝させられた。この責任は住民を直ぐに避難させなかった国と東京電力にある。事故後、日本政府や、マスコミにこぞって登場した原子力推進派の専門家たちは「直ちに人体に影響を及ぼす数値ではない」と言い続けた。絶対に許せない! そのため、福島県内では避難した人たちに対し「故郷を捨てた」「住民を捨てた」と非難する状況が生まれた。一方他県では避難した福島県民に対する差別が巻き起こっている。「避難先の小学校で『放射能がうつる』と子どもが言われた」「福島の人はもう結婚できないよね。と女子高生が話していた」などとマスコミが取り上げる。広島・長崎の被爆者が受けた差別が繰り返されようとしている。
 一九八六年四月二十六日にチェルノブイリ原発事故が起きた。翌年、フィンランドの女性たちが、自国の政府に対して「全原発を廃炉にしなければ、私たちは子どもを産まない!」と抗議した。「放射能の影響で障害児が生まれる」としての行動だ。
 「私たち被爆二世は生まれてはいけない存在なのですか?」。ある被爆二世はこうした運動に抗議して言った。
 先に述べたAさんの子どもは小学生の頃は障害をからかわれることもあったそうだ。でも今は、自立し仕事についている。「私はすごく心配で、一人暮らしをしている子ども(三世)のアパートを訪ねたいけど、嫌がられる」。Aさんはそう言って笑う。
 私たち被爆二世・三世は生まれてはいけない存在ではない。
 私たちは、被爆二世・三世の悩みや思いを共有化して、励まし合い、差別と闘う団結を作り出していかなければならない。私たち被爆二世(三世)は自らを肯定し、社会を変革して生きていく存在なのだ。
 私たちの被爆二世の会は結成当初から原発反対を貫き、地方自治体や電力会社に何度も申し入れを行った。申し入れ書を作る際、「新たなヒバクシャを生む原発はいらない」という文について議論しあった。「ヒバクシャ」とカタカナ表記をする時、この言葉は原爆などの核兵器による「被爆者」と原発などによる「被曝者」の両方を意味している。「新たなヒバクシャ」という言葉の中には、今後生まれてくる原爆被爆者の子ども(被爆二世)や、孫(被爆三世)が含まれるのではないか。「新たなヒバクシャを生むな」と言うと、被爆者は子どもを生むなということになるのではないか。それでは、自らの存在を否定することになりはしないか、という意見も出た。しかし原発では日々、労働者が被曝させられており、それはどうしても許せない。核兵器による被爆者も原発の作業などよる被曝者もこれ以上作ってはならないと言う意味を込めて「新たなヒバクシャを作り出す原発はいらない」と表現している。
 今回の福島第一原発の事故を受けてホームページ等で緊急声明を出している被爆二世の会もある。これ以上、核兵器や原発によるヒバクシャを作り出したくない。それが、私たちの願いだ。私たちは、ヒバクシャ差別を断固許さない!


  ●W 福島原発事故から一年、ヒバクシャ問題として見えてきたもの

  ▼1 福島第一原発の事故における政府の対応について

 二〇一一年三月十一日に起きた東北地方太平洋沖地震は、福島第一原発の一号機から四号機の電源を喪失させ、原子炉につながる配管を破断させた。しかも、津波で、非常用電源装置も水没し動かず、冷却水の供給も絶たれた。そのため、原子炉の圧力容器の中は、空焚き状態となった。一号機は早くも翌日の十二日に爆発を起こし、大量の放射能が大気中にまき散らされた。十四日には、続けて三号機が赤い炎を出しながら、大爆発を起こした。その翌日、二号機でも爆発があり、壁の一部に穴が開いた。その同じ時刻に、四号機でも爆発があった。日本政府は、福島第一原発がそうした事態に落ち入っていることを知っていながら、適切な避難命令を出さなかった。政府が、二十キロメートル以内の避難命令を出したのは、一号機が爆発して三時間後(三月十二日十八時二十五分)であり、三十キロメートル以内の住民に屋内退避を指示したのは、四号機が爆発した後の十五日十一時六分だった。その上、広がった放射能に対して、「直ちに健康に影響を与えるものではない」と言い放った。そのため、事態を知らされなかった多くの地域住民が避難することも出来ず、不要な被曝を強制させられた。到底、許すことはできない。しかも、事故が起きた際に放射能の拡散分布を予測するはずのSPEEDI(スピーディー:緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)のデータは公表されなかった。実は、このSPEEDIの情報は、三月十四日に米軍に伝えられているが、日本のマスコミと民衆には、三月二十三日に初めてその一部が公開された。しかも、国会での論議を経てやっと五月になって、その全容が公開されたのだ。
 もっと早く放射能の拡散状況が民衆に知らされていたならば、ホットスポットと呼ばれた飯館村などに避難する住民はいなかったと思うし、飯館村や他の被曝線量の高い地域の人も不要の被曝をせず避難できたと思うと、政府の対応に怒りが湧いてくる。実際に、政府が計画的避難区域に飯館村を指定したのは、四月二十二日であり、あまりにも遅すぎる。
 この時アメリカ政府は、日本在住のアメリカ人に対して、福島第一原発から八十キロメートル以遠に避難するように呼びかけていた。
 この福島第一原発の事故に最も迅速に対応したのは、米海軍であり、三月十四日には仙台市近くで救助活動を行っていたヘリコプター要員が、放射能被曝をしていることがわかり、福島第一原発の風下から艦船と空母を避難させた。しかも、三月十二日から四月三十日まで日米両軍は「トモダチ作戦」と称した核戦争下の軍事訓練を行った。初めて統合軍の形態を取って活動しており、被災地を軍事訓練場とみなして訓練に活用したのだ。この震災と原発事故を利用した軍事訓練を私たちは許すことは出来ない。

  ▼2 フクシマから見えてきた広島・長崎の原爆被害の実相

 福島第一原発の事故は、私たちに広島・長崎の原爆投下時及び直後の状況を彷彿とさせるものであった。福島や関東の人が少しでも被曝しないようにと願わずにはいられなかった。放射能は目にも見えないし、匂いも味もしない。しかし確実に存在している。事故後、水道水やお米、お茶、野菜、魚などから放射性物質が検出され飲食禁止になった。また原発から三十キロメートル以上離れた飯舘村で高い放射線量が確認されたり、東京でもホットスポットが確認されている。それらの放射性物質の半減期はヨウ素なら八日、セシウム134は二年、セシウム137は三十年、プルトニウムに至っては二万四千年にも及ぶ。
 一九四五年当時、一般の人には放射能に対する知識がなかった。そのため放射能が充満する被爆地に多くの人が救助に入り、入市被爆した。広島が原爆の被害にあった後、被爆地から持ち帰った塩を親戚に分けた被爆者は、「親戚にガンが多いのはそのせいかも知れない」と心配する。また広島では、被爆地がほぼ同心円上に指定してあるが、福島第一原発事故の放射能の拡散状況を見て、改めて被爆地は同心円ではないと確信した。風やその日の気象条件によっても、「黒い雨」や放射性物質が多く積もる所が出てくるのだ。また広島・長崎の原爆の場合、原爆投下後、二週間以内に被爆地に入ったものは被爆者とされているが、十五日目に被爆地に入ったものは被爆者とされない。放射性物質の半減期から見ても二週間以内という基準は合理的ではない。
 現在の放射能の人体に与える影響とは、放射線影響研究所(元ABCC)が持っている広島・長崎の原爆被爆者のデータをもとに検討したものであるが、入市被爆者などの内部被曝の影響は、全く考慮に入れられていない。
 福島第一原発事故の状況をみていると、改めて原爆被害の過小評価が明白になる。

  ▼3 被爆二世の役割

 日帝―野田政権は、二〇一一年十二月十六日に福島原発事故の「収束」宣言を行い、事故収束に向けたステップ2(冷温停止状態の達成)を終えたと発表した。これを、徹底弾劾する。いまだ、福島第一原発の一号機から三号機までの原子炉内の燃料棒は、メルトダウン(溶け落ちていること)しており、核燃料は、現在何処にあるかさえも分かっていない。放射線量が高すぎて、現場検証さえ出来ない状態だ。しかも、四号機の燃料プールは水位が低下し、二〇一二年一月初頭には、大量の放射性物質を放出している。にもかかわらず、日本政府はまた避難命令を出すことはなかった。まさに、一九四五年九月に米軍が「広島・長崎の原爆被害者は死すべきものは死に、生き残った者は現在何ら放射能の健康への影響は無い」と発表したのと合致する。これからも、日本政府は、内部被曝の健康への影響を否定するであろうが、私たちは決してこれを許さず、放射能の人体への影響を遺伝的影響の可能性も含めて、告発し続ける。
 今大事なのは、一兆円もかけて「除染」作業をすることではない。なるべく多くの民衆を福島第一原発から出来るだけ遠くへ避難させて、少しでも被曝を少なくすることだ。「除染」とは、放射性物質を拡散させたり、一箇所に集めたりすることで、決して放射性物質が無くなるわけでは無い。日本政府が今なすべきことは、フクシマ原発事故の被害者全てに、「被曝者手帳」を交付することだ。そして定期的な健康診断を行い、少なくとも、広島・長崎の原爆被爆者の健康管理手当に該当する疾病にかかった時は、医療費を全額国費で負担することである。
 併せて、こうした原発事故を再び起こさないために、全ての国内の原発を廃炉にし、再生可能エネルギーへの転換を図ることが重要だ。
 最後に、私たちは帝国主義の原発開発が核兵器の維持・使用のための原子力政策であることを暴露し、これを絶対に許さない闘いを最後まで進めていくことを宣言する。原発の他国への輸出は、核による侵略と同義であり、それをもって他国を帝国主義国に従属させるものだ。決して、トルコやベトナムなどへの原発輸出を許さない。また、モンゴルの大地を高レベル核廃棄物の処理場に決してしてはならない。これは、核による新たな侵略そのものだ。
 私たちは、反戦・反核・反原発・被爆二世に国家補償を求める闘いを被爆者解放運動の地平の上に発展させ続けることを改めてここに誓う!

                           二〇一二年一月二十五日

【参考資料】
・「侵略反革命と闘う被爆二世の会」結成論文(『戦旗』一九八五年七月二十日号)
・日本原水爆被害者団体協議会ホームページ



 

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