共産主義者同盟(統一委員会)






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   「3・11」にふまえた
   共産主義論についての若干の提起

     
                           国際部



 ●(1)はじめに

 二〇一一年三月十一日に生じた東北、関東地方での巨大地震、大津波、原発破損の大惨事は当該地方の人々にはかりしれないほどの大きな物質的、精神的打撃を与えた。その内容および我々の基本的見解についてはこれまで機関紙『戦旗』紙上において幾度かにわたり明らかにしてきたので、それらを参照していただきたい。3・11は日本における一つの歴史を画期する時になるだろう。なぜならば、この間の事態の推移の中で、人々は復興へ向けての対応に見られる一方でのブルジョワジーの反人民性、他方でのプロレタリア人民の力強さをいやというほど感じたし、また、自らのこれまでの、およびこれからの人生について深く思考せざるをえず、これまでの現社会を支えてきた価値観について抜本的に転換せねばならないのではないかという問題に直面せざるをえなかったからである。そのことは被災者の人々のみならず、日本人民全体について言えることであろう。とりわけ、原発事故に関してのブルジョワジー、政府官僚たちの無責任さ、反人民的対応の厚顔無恥性は目にあまるほどひどいものである。
 そもそも、原発というものはその存在自体が人間によるコントロールを不可能とするものなのである。いかに堅固に原発本体をあらゆる手段を講じて防衛しえたとしても、その維持のための重要な要素である冷却のためのパイプ等々はそれほど巨大でもない地震によっても容易に破壊されざるをえないし、その破壊はメルトダウンに直結するものなのである。また、放射性廃棄物の最終処分についてはいまだどの国もまただれも完全な方策を見出せていないという現実があり、福島においても増加し続けている高レベル放射性廃棄物はいかにまたどこへ最終処分しうるかまったくわからない状態である。その結果「後は野となれ山となれ」を地で行く「第三世界諸国に金と引き換えに押し付ける」というやりかたをとらんとしているのが実情である。以上のように、ほんの少し重要な点を検討するだけでも原発というエネルギー創出手段は人類にとって絶対に用いるべきでないものであることはあまりにも明らかであろう。しかるに東京電力資本は、未だ原発事故処理の展望がなんら見えていない中で、被災者住民、原発労働者の生活、生命の危険を考慮せず、ひたすら自企業の生き残りをのみ考え、重要な情報を隠蔽し、事故処理のための資金を出し渋り、運を天に任せるかのような行き当たりばったりの対応で被災者人民を恐怖のどん底に落としこめるという犯罪的行為を続けているのである。また他の電力会社も御用学者等を最大限動員し、原発持続のための汚い宣伝戦に終始し、政財界官一体となって各地原発の再稼動を目論んでいるのである。
 価値観の転換というとき、それはそんなに難しいことを言っているのではなく、例えば、苦しんでいる人間を目の前にしたとき、手を差し伸べるといった自然な人間的言動を取り戻すということであり、そのための条件を取り戻すというようなごく当たり前のことをいうのである。最近の、東電、政府関係者の「すぐに影響が出るという放射線量ではない、大丈夫だ」等々の発言を聞くと、五十年以上前に似通った発言を繰り返していた者たち、すなわち米帝の水爆実験後、被曝者となったビキニ環礁付近のロンゲラップ村民を治療するのではなく、水爆の影響を知るためにのみ、そのデータを集めるためにのみ、米帝から派遣された医師をはじめとした科学者たちの、あたかも村民を実験動物のごとく扱った行為、発言を思い出さずにはいられない。
 我々は被災者人民の立場に立ち、その思いと連帯の立場を保持、実践しなければならないし、復興のため現地の先進的労組と手を携えて、できうる限りの支援、連帯活動を強化していく決意であるが、同時に、現在の理不尽な社会、資本家階級の利益追求のための社会に代えて、どのような社会を建設していくべきか、それはどのような価値観に基づいた社会であるべきかが問われているとの認識の下に、我々がこの間、本機関紙上で建設すべき社会について、そのために何が問われているのかについて、すなわち共産主義論について一定の問題提起をし続けてきた内容の深化が問われているのだと考える。今こそ、これまでの資本主義社会に付随したブルジョワジーどもによって押し付けられてきたいわば資本主義社会存続のための価値観からの抜本的転換、私利私欲追求の社会からより困難な状況に置かれている人々のために生きることを喜びとする社会への転換をかちとっていくことを開始せねばならない。それ故に、我々は本文書において、これまでのその領域に関する我々の見地の整理とそれらを一定さらに深めた意見を提起したいと考える。


 ●(2)我々の共産主義論に関するこれまでの主張の整理

 まずもって、共産主義とはなによりも現資本主義社会の否定的現実を変革する闘い、実践であることが大前提として確認されねばならないことは、我々が幾度となく主張してきたことである。そうであるがゆえに我々は国際共産主義運動の再建、強化の前提、出発点として全世界の革命運動を実践する諸勢力、全世界の反帝反資本主義の闘いを実践している諸勢力との共闘、連帯実践をなによりも重視し、実行してきたのである。「一言で言えば、共産主義者は、いたるところで、現存の社会ならびに政治状態に反対するすべての革命運動を支持する」というマルクス『共産党宣言』の見解は我々にとっても国内外のすべての運動に対する基本的立場なのである。
 我々は共に共通の敵、全世界の帝国主義と闘い、それらを打倒する闘いを実践することを国際共産主義運動再建のための大前提においてきた。それなくして国際共産主義運動の総路線をめぐる国際的党派闘争も意味がないからである。そして国際的反帝統一戦線の再建、強化をめざして闘う多くの信頼しうる党派、運動体をアジアをはじめ、欧米、中南米等に見出し、共に闘ってきた。とりわけアジア太平洋地域での我々の国際的反帝統一戦線は強固なものとして実態を固めつつあることはこれまでにも何度となく本紙上で報告している。我々ははこれまで培ったこの統一戦線をさらに強固なものとして打ち固めつつ国際共産主義運動再建の闘いを着実に前進させていく決意である。
 ここで最近までの世界各地での反戦反帝、革命運動の推移概況をこれまでの報告に続いて見ておこう。先ずフィリピンでのフィリピン共産党(CPP)に領導された民族解放民主主義革命勢力はアキノ(ジュニア)政権が徐々に親米カイライ的性格をあらわにしてくる中で、昨年十二月にむこう五カ年で現在のフィリピン革命戦争を戦略的防衛段階から対峙段階へとステップアップすることを宣言し、着実に運動と組織のうち固めにまい進している。韓国においても様々な分野での韓国労働者人民の闘いは前進し続け、いよいよ本格的な革命党建設が展望される段階に入りつつあるといえる。それは過去の共産主義運動の総括を不可欠とする厳しい闘い、時には激しい党派闘争もはらんだものとなるだろうが、その過程を経て初めて強固な革命党の誕生を現実のものとしうるであろう。ネパールにあっては王制を打倒し、共和制を宣言しはしたものの、未だ新たな憲法も作成しえず、安定した労農人民のための新政権も樹立しえず、主としてNC(ネパール会議派)とCPN(ネパール共産党)統一毛沢東主義派の綱引き状態が長い間続いている。その中でどのような社会を建設していくのかをめぐってそれぞれの党内でも激しい党内論争が巻き起こっており、党派を超えた新たな内容を提示する政権が人民の手により樹立されねばならないと考える。さもないと未だ実力を有したままである旧国軍の動向が危惧される事態も招きかねないであろう。
 キューバにおいてはフィデルからラウルへとキューバ党の指導権が移行し、政策上いくばくかの変化を余儀なくされているが、基軸は変化しておらず、基本的な共産主義建設路線においてはフィデル路線は継続されていくであろう。キューバ、ベネズエラを軸とした中南米の反米帝民族解放社会主義革命勢力は引き続き拡大、前進している。最近にあっては六月、新たにペルーにおいても反帝反自由主義の立場が鮮明な左派のオジャンタ・ウマーラ大統領が選出され、反米帝の象徴的組織としてのALBA勢力は拡大、強化を続けていくであろう。ちなみに我々が共産主義建設の重要な要素の一つとして評価してきた中南米でのソビエト的組織の建設に関して、『世界』(六月号)においてさえ、ベネズエラでの「人民権力」強化の基軸としての「地域住民委員会」の建設が紹介され、ボリビア、ブラジル、アルゼンチンでも社会的な連帯精神を育む共同性の回復をもたらす動きが見られるとして評価されるにまで至っている。
 米国ではPSL(社会主義解放党)が引き続き反戦反自国帝国主義闘争を大衆的に拡大しているし、それに基づき党勢も拡大もしているようである。欧州においても、反原発運動の拡大は目を見張るようであり、とりわけドイツ、フランスにおいては旧スターリン主義党にかわる新たな労働者党の誕生、前進が顕著である。また運動の性格は若干異なるとはいえ、中東地域においても、いわゆるアラブ民衆革命がチュニジア、エジプトをはじめ各国で爆発的に拡大し、もってながらくイスラエルに押さえ込まれ続けてきたパレスチナ解放闘争もハマスとファタハの共闘を実現し、反イスラエル闘争の局面を大きく変えようとしている。
 マクロな視点で見れば、世界各地での運動は確実に資本主義とは異なる新たな社会構築へ向けて着実に前進しているといえるだろう。
 さて、新たな問題提起に入る前に、これまで我々が本紙上で明らかにしてきた共産主義運動、共産主義論に関しての整理を行っておくことにする。二〇〇七年二月に我々は国際共産主義運動は何を基盤として創成されるべきかについて、次のように提起した。第一には、反帝国主義、反資本主義という実際の共通の闘いを基盤として形成すべきこと、第二には、各国における真のプロ独権力―ソビエト組織の形成・持続の闘い、第三には、あらゆる領域での現状を変革する運動の組織化とその結合、そうすることによる資本主義全体との闘いへとプロ人民を領導していくこと、第四に、資本主義を支えるイデオロギー、価値観を根底的に批判、暴露し、それに代わり得る新たなプロレタリア的イデオロギー、価値観の創出戦を共通の任務として形成していくべきことを提起した。それらの内容についても、実践的な見地を展開しておいたが、詳しくは当該号を参照されたい。
 そして二〇〇八年四月の本紙上で、我々ブントはこれまで権力問題に関しては多くの見解を明らかにし、実践してきたが、共産主義論についてはほとんど提起し得なかったこと、権力問題と共産主義論は結びついたものとして提起せねばならないことを主張した。また、共産主義とは否定的現実を変革する革命的実践であることが第一義的に確認されねばならないこと、未来社会像としての共産主義を描くことは控えるにしても、現実の様々な革命運動、資本主義との闘いの中に、多くの学ぶべき点があること、とりわけ、キューバ、ベネズエラをはじめ最近の中南米におけるさまざまな闘い、試みの中からもおおいに学ぶべき点があり、その闘いのなかにも共産主義建設の内容がはらまれていること、共産主義の二つの段階―「労働に応じて」から「必要に応じて」に関して、これを機械的に解釈すれば生産力主義に陥る危険性があること、「ある時点まで社会主義を建設しており、この時点から共産主義を建設する、というのは間違いである」というカストロの見解に同意し、この区別をすることの意義についても再検討の余地があることを示唆した。また権力論については、いわゆる「国家の社会による再吸収」という見地から、擬制的民主主義に基づく擬制的権力ではなく、直接民主主義に基づく真のプロレタリア人民権力の形成、社会の上に立ち強大化した国家を解体し、新たに編成しなおした社会に従属する国家機関に置き換えるべきことを提起した。そして最後に五点にわたり国際的な党派の評価をする際の基準を提起したが、これについては今後異なった視点からも、再検討、再提起せねばならないと考える。


 ●(3)共産主義論に関しての深化のための若干の問題提起

 これまで幾度となく触れてきたが、マルクスは共産主義社会について具体的な社会像を提示することなく、その基本的考えとして[私有財産制の廃止と生産手段の社会的所有制]を構想した。その他、「もしそれが資本主義制度にとってかわるべきものだとすれば、もし協同組合の連合体が一つの共同計画にもとづいて全国の生産を調整し、こうしてそれを自分の統制のもとにおき、資本主義的生産の宿命である不断の無政府状態と恐慌とを終わらせるべきものとすればー諸君、それこそは共産主義、[可能な]共産主義でなくてなんであろうか!」(マルクス『フランスにおける内乱』)とも「階級と階級対立とをともなう旧ブルジョア社会にかわって、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような一つの協同社会があらわれる」(『共産党宣言』)とも基本的かつ抽象的に表現している。
 しかしながら、共産主義とはマルクスにとって、現にある資本主義社会の状態を変革し、廃絶してゆく現実的運動であり、実践的イデオロギーである以上、具体的内容についてまったく触れなかったわけではなく、例えば、『共産党宣言』の二章の最後において、もっともすすんだ国々における全生産様式を変革するための諸方策として十項目の内容を掲げている。すなわち「一、土地所有の収奪。二、強度の累進税。三、相続権の廃止。四、すべての亡命者および反逆者の財産の没収。五、国家的銀行による信用の国家への集中。六、運輸機関の国家への集中。七、国有工場、生産用具の増加。共同の計画による土地の開墾と改良。八、万人に対する平等の労働義務。とくに農業のための産業軍の編成。九、農業と工業の経営の結合。都市と農村の対立の漸次的除去。十、すべての児童の公共無料教育。現在の形の児童の工場労働の廃止。教育と物質的生産との結合」である。これがある意味では当時のマルクスが実践的な意味をもって提示しえた一つの具体的内容といえるのではないかと考える。このことから少なくとも現状と分岐する社会の一定のイメージは描きうるからである。現在ではこの内容の幾つかは実現されているものもあるし、あまりに旧くて時代の要請にそぐわないものもあり、資本主義社会に代わり得る新たな社会をイメージするには不十分であるが、その幾つかは現在にあっても基礎とすべき内容を含むものである。
 我々も創成すべき社会像の提示というときには、千年王国的なそれを描くのではなく、現状の根本的(ラジカルな)変革という観点から、いわば我々の言う最小限綱領の提示、深化として明らかにすることが実際上意味を持つ一つのやり方だと考えるので、今後そのようにしていくつもりである。すなわち我々の共産主義論の内容は基本的には我々の綱領の最大限、最小限の双方の領域で具体的に反映してゆかねばならないということである。そのための理論作業を我々は実践を進めていく中で、実践と結びつけたものとして強化していくであろう。ちなみに現在の我々の最小限綱領部分はレーニン綱領を基礎にしたものであるが、この部分は最大限綱領部分のいわゆる共産主義論内容の強化を踏まえ、かつ現在の諸階級、諸領域の運動の基軸的、実践的要求をシッカリと把握、分析し強化していかねばならないであろう。
 その上で、今後の我々の共産主義論深化作業のための若干の問題提起をしておきたい。それは多岐の分野にわたる作業となるだろうが、先ずもって我々はそれをスターリン主義路線の抜本的批判、総括としても位置づける必要があるだろう。マルクス、レーニンによって進められてきた共産主義建設の営々とした闘い、苦闘がスターリンによって断ち切られ、以降旧ソ連の崩壊という国際共産主義運動にとってはかりしれない負の結果をもたらし、全世界人民に「共産主義」に関する失望感をもたらしているのはまぎれもない現実だからである。また、我々と路線的立場が極めて似通っている米国のPSLが「社会主義」を名乗る国であればどこでも支持し、その評価基準を日本共産党と同様に「生産手段の国有化、計画経済、労働者階級の権力」においているが、それらの基準では旧ソ連などもその点ではその基準を満たしていたのにもかかわらず、なぜ自己解体したのかが解明できない。明らかに共産主義とは程遠い路線、立場であったからである。であるならば、共産主義論の深化のためには、スターリン主義路線の批判、総括が不可欠だからである。ちなみに、さすがに日共でさえ、「社会主義」の基準として上記三点だけでは不十分と考え、幾点かを付け加えている。「他民族の自決権の尊重」や「核兵器廃絶を掲げていること」等資本主義国でさえ是認するような陳腐な基準ではあるが……。それに比して中南米では、旧ソ連とは異なる「二十一世紀の社会主義」をめざし、その相違点を出来うる限りの直接民主主義の実践、非計画経済、ソビエト的地域人民権力の形成等においており、日共と比べればはるかに生きた共産主義的内容をはらんだものといえる。
 本文書ではその内容を細部にわたって展開し得ないが、最低限、重要と思われる領域と我々の観点を提示しておきたい。以下、領域、課題を順不同に提示し、それらについての若干の我々の見地を添えておく。
 第一には、権力問題、国家に関する問題である。スターリンは初期社会主義者が考えていたように、資本主義の無政府状態、それがもたらす悲惨は国家の階級的内容が転換すれば、すなわち国家権力を奪取しさえすれば解決するものと考えていたのではないかという点である。我々は「できあいの国家機構をそのまま掌握して、自分自身の目的のために行使することは出来ない」(『フランスにおける内乱』)からであり、問題は自らのうちに自己解体の要素をはらんだ「権力」をいかに組織しうるのかという点にあるからである。この点についてはコミューンをできあいの国家機構ではないプロレタリアの権力として、はっきりとその具体内容を規定しきることである。ちなみに、コミューンについては、マルクスは「コミューン――それは国家権力が、社会を支配し圧服する力としてではなく、社会自身の生きた力として、社会によって、人民大衆自身によって再吸収されたものであり、この人民大衆は、自分たちを抑圧する組織された暴力の代わりに、自分自身の暴力を形づくるのである。(中略)人民大衆の社会的解放の政治形態である」(『内乱』)と規定している。コミュニズムを共産主義というよりコミューン主義と訳すほうが、本来の意味をよりよく反映しうるのではないかとの論にもあるように、コミューンあるいはソビエト的組織は共産主義建設にとって不可欠の要素の一つである。この領域と関連して、いかなる国家、社会を形成すべきかについては、生産、消費等の協同組合志向型社会とコミューン型国家の結合として展望することを基本にすべきであろう。
 第二には、官僚主義をいかに克服するのかという問題である。これは、次の課題である生産手段の国有化、計画経済の問題と密接に関連することである。この点については「国家的所有制と命令経済のもとでは、プロレタリアートの独裁はほとんど法則的にプロレタリアートと人民の全生活に対する官僚の独裁に転化する」(『社会主義像の転回』中野徹三著)に詳しいが、どのような物資をどれだけどのように生産するのかを一手に官僚のみが掌握し、官僚が判断するといった恣意性が必然的に許される点に官僚の特権が生じることとなる。この特権が派生することは、いわゆるコミューン四原則(常備軍を廃止し人民の武装にとって変える。議会を廃止し普通選挙による立法・行政権をもつ代議機関にとって変える。公務員の常時リコール制。公務員の労働者なみの賃金)をもってしても防ぎ得ないことなのである。そうであるがゆえに、中国はいわずもがな、キューバにおいてさえ官僚の腐敗、汚職は一掃し得ない現実があるのである。
 第三には、計画経済、国有化に関する問題である。この点と関連して、かつて我々の同志でもあったマルクス主義哲学者広松渉氏は「マルクスが計画経済という言葉を一回もつかっていないこと、生産手段をプロレタリアートの手に集中するという言い方をして、国家的所有という言い方を極力避けている」(『マルクスを読む』)と主張して、計画経済や国有化を「社会主義」の基準とすることに疑問を投げかけている。我々も生産手段の社会的所有は不可欠だが、それが国家所有とイコールではないと考えるし、計画経済についても無前提のそれはかえって混乱と非効率をもたらしたことはソ連の破産の一つの原因でもあり、これまでにも他の文書で明らかにしてきたことでもある。ともあれ、これらのことについても再検討の余地があるだろうと考える。
 第四には、一国社会主義建設論に関してである。これに関しては、社会主義革命の最終的勝利、共産主義建設は全世界的な帝国主義、資本主義の打倒を前提としなければ実現し得ないというのは、マルクス、レーニン主義のイロハであり、とりわけ先進資本主義国、帝国主義国における革命の勝利は不可欠であることは幾度となく確認されねばならないし、そうであるがゆえに、世界革命の勝利をめざすことは全世界の共産主義者の第一義的任務なのである。それ故に我々はプロレタリア国際主義実践の有無を我々の諸党派にたいする評価基準の一つに設定してきたのである。
 第五には、生産力主義批判についてである。生産力の発展は必要だが、それは我々のめざす「人間の解放」「労働の解放」というとき、労働時間の短縮による「自由時間」の享受が不可欠であり、また分業の止揚が不可欠である。マルクスの言う「労働に応じて」から「必要に応じて」という規定もその観点からのものなのであり、労働時間の短縮と分業の止揚と切断した生産力の発展追求は誤りであり、先ず生産力の発展ありきというものではないことが確認されねばならない。資本主義が作り出した巨大な生産力は他方では欲望の肥大化も生み出した。「必要に応じて」の必要は野放しの資本主義的欲望の必要に応じることでは断じてないはずである。それゆえに次の課題である資本主義的価値観と分岐した価値観によって武装された「新しい人間」が創出されねばならないのである。
 第六には、いわゆる「文化革命」の問題である。これは「文化革命」の問題として表現するのが最適ではないかもしれないが、要するに共産主義を建設する主体、人間の変革の課題である。この点に関しては、マルクスも「共産主義的意識の大衆的規模での創出のためにも、事柄そのものの完遂のためにも、大衆的規模での人間変革が必要である」(『ドイツ・イデオロギー』)とその重要性を指摘している。
 第七には、これがある意味では最重要な任務としてあるだろう階級形成の問題である。これは上記に述べたすべての点を理解し、実践する主体を建設する課題である。逆に、階級形成はいかになされるのかという観点から、共産主義建設の課題を設定していくと考えてもいいくらい最重要の課題であり、過去のすべての未完の革命はこの点で成功しえていないともいえるであろう。
 極めて単純に表現するならば、労働者人民が否定的現実だと思った点については、自らそれらを変革できるという、社会の絶対多数の人民の自己決定権が保障される社会の建設、そうしうる条件作りということが共産主義建設の大前提といえるだろう。共産主義建設の任務は遠い未来の課題として設定してはならず、きわめて現在的課題、任務としても設定し、その具体的内容、現在的任務を上記領域を明確にしていくことにより実践せねばならないものである。上記領域以外にも設定すべき領域があるかもしれないが、我々は今後上述した領域での総括、理論作業を推し進め、我々の綱領の改訂、深化として具体的にその成果を提示するであろう。


 

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