共産主義者同盟(統一委員会)






■政治主張

■各地の闘争

■海外情報

■声明・論評

■主要論文

■綱領・規約

■ENGLISH

■リンク

 

□ホームへ

   マルクス革命的労働者党論を基礎にして 
                         
21世紀の党建設に勝利しよう

       労働者階級の政党建設、労働者党建設の基盤とは何か

                         上杉 信行




 マルクスは『共産党宣言』において、労働者階級は政党を建設して自己解放運動を推進していく、あるいは、資本家階級や封建的諸勢力とたたかって自らの利益を貫徹していくために労働者党を建設するという命題を明らかにした。労働者階級の解放闘争、革命運動の内部に労働者階級の政党建設を位置付けたのであるが、この歴史的、組織論的基盤とはいかなるものであるかを理解することは現代の共産主義者にとって極めて重要である。本論文は主にこの諸階級、諸階層、諸人民による階級的利益の異なりと争い、またこの利益を基盤としつつ各集団が党派、政党を建設して国家、政府(近代国家)の政策を巡る次元での争いを展開した(する)ということを歴史的に捕らえつつ、労働者階級が労働者党を建設してたたかうことの意義と意味を明らかにしようとするものである。


  ●一章
 資本主義社会の成立、諸階級の運動と諸党派の活動に対するマルクスの見解/ 『共産党宣言』と唯物史観について


 十八世紀から十九世紀、資本主義の勃興期、封建勢力、資本家階級、そして労働者階級、さらに都市貧民、地主と農民など諸階級、諸階層、被抑圧人民の争いは、旧来の封建制社会における争いとは大きく異なる性格のものとなった。封建制度における階級的な争いの主要形態は封建的土地貴族階級と農民(農奴)との争いにある。イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア、そしてロシアにおいてすら、全ヨーロッパ的広がりをもって、そしてイギリスの植民地であったアメリカにおいても、資本主義の発展に伴って、新たな階級闘争の時代が開始されたのである。マルクスは一八四八年の『共産党宣言』において、この歴史的事象、そこにおける人々の抑圧と苦難をしっかりと見据え、資本主義の発展と封建体制の内部的崩壊の必然性と不可避性、これに伴う諸階級、層の争いの激化の新らしい性格を分析した。そして、資本主義の歴史発展の不可避性とそこで生み出される社会的抑圧の深刻化、新たな階級分裂の拡大と深化の不可避性を明らかにし、ここで生み出される産業労働者―プロレタリアこそ革命の主体であることを明示した。そして、さらに、このプロレタリアを軸とする資本主義社会に代わる新たな社会の建設の可能性と必然性を共産主義の建設、到来というかたちで明確化したのである。マルクスはあくまでも、抑圧された人々の解放は可能であることを示したのであった。マルクスは特に、この『党宣言』において最も抑圧された存在として、社会の圧倒的多数者となる存在として、そして団結することのできる存在としてプロレタリアを措定し、プロレタリアは資本主義社会の発展、拡大に伴って、この社会にますます対立し、この社会を根本から止揚する以外に自らが生存していくことができないことを、内外に宣言したのであった。
 そしてまた、彼は、プロレタリアを自らを解放することのできる(新らしい社会を建設できる、また他の被抑圧者と共に社会を編成、建設できる)存在として措定し、プロレタリア革命、共産主義革命の必然性と可能性を明らかにしたのであった。しかもマルクスはこの『共産党宣言』において共産主義者の活動によるプロレタリア革命の推進、そのための基本的な任務(綱領、路線、組織)をも明らかにした。またここでは、労働者階級は自らの解放闘争を推進していくために、自らの党派を作り上げ、政党(労働者党)を建設していくこと、また共産主義者はこの労働者階級による労働者党の建設の基盤の上に、自らを革命的部分として自覚し、革命的労働者党を建設してたたかう(べき)ことを打ち出したのである。二十一世紀の革命的労働者党の建設を目指すわれわれ、現代の共産主義者にとって、このマルクスの唯物史観とそこにおける労働者党建設、革命党建設に関する基本的規定は極めて重要である。
 エンゲルスは『ドイツ農民戦争』(一八五〇年著)において一五〇〇年代のドイツにおける農民戦争(トマス・ミンツアーの農民解放運動)を分析し、当時の階級、階層、集団の運動と争いの性格を明らかにした。そこでは各党派、集団は「様々な党派的立場、自らをはっきりさせるための政治的、宗教的諸理論」を掲げて争い、そして「闘争の結果」がもたらされたが、この争いと諸結果は当時の歴史的に存在した生活諸条件から必然化したものであることを明らかにしたのである。つまりエンゲルスは党派、政治集団は様々な政治理論、主張、要求を掲げてたたかう、活動するがこれは生活基盤、社会的―経済的基盤、現実的利害から生まれているものであること、すなわち理論や信念の表層、言辞に終始することのない裏側、基盤を分析し、争い、運動を捕らえるべきであるとしたのである。少なくとも党派、政治集団とは社会経済的基盤を代表するものとして成立する、また他面では社会経済的な階級、層が党派、政治集団を作って活動する、運動するということであった。
 またこれとは別にマルクスは「共産主義者同盟中央委員会の呼び掛け」(一八五〇年著)で、ドイツの革命、あるいは一般的に民主主義革命とプロレタリア革命を巡る問題において「永続革命論」を提起したのであるが、彼はここでフランスでの一八四八年革命における六月行動以降、ブルジョア階級の運動が変化し、いわゆる有産階級としてブルジョア階級の反動化が促進され、封建勢力と結び付きプロレタリアートに対抗する傾向が拡大しつつあることを指摘した。プロレタリアートの歴史的に最初の独自行動−プロレタリア革命を公然化させた、このパリ六月闘争によって、ドイツの大ブルジョアは反動化しブルジョア民主主義革命を放棄する存在に転落した。この階級は絶対主義権力―王権に結合しプロレタリア運動を解体する側に回った。階級や政党の運動、立場や主張は「階級闘争」―階級闘争の総括によって規定され、表れることを歴史的事実において明らかにしたのである。マルクスは社会的諸条件と階級闘争の歴史によって諸階級、人民の運動はもとより、党派、政治集団の主張は基本的には規定されるとしたが、もう一方では、階級闘争、階級や階層、人民の運動と抗争、党派、政治集団の活動と抗争の歴史、またこの経験と結果によって運動や活動自身が規定されるものであることを示したのである。マルクスが主張する唯物史観の立場とは一方では、社会的経済的諸条件、生産関係や所有関係に規定されたものとして諸階級の運動、またこれを代表する党派の運動が規定されること、また他方では諸階級の運動、党派の運動、現実的な階級的な抗争、社会の利害や国家の政策を巡る争いとその結果により、階級と党派の運動が規定されることを明確にした立場と理解することができる。


  ●二章
 資本主義の発展と階級闘争、諸階級の形成と運動、党派の形成、労働者党の成立


 資本主義社会の成立、あるいは旧社会(一般的には封建体制)からの移行は、新らしい階級、階層を生み出し、階級、層の運動と党派、政治集団の活動を活発化させた。ここでは階級の運動、党派の活動を特徴に基づいて捕らえていく。イギリス、フランス、イタリアの階級や人民の運動、党派の活動が特に典型となるだろう。
 十七世紀から十八世紀にかけての社会全体動向は以下の様な内容であるだろう。
 当時、ヨーロッパ諸国における社会情勢、階級情勢は、基本的に十七世紀後半イギリスで産業革命が開始され綿紡績工業を軸にして機械制大工業が生み出され、交通手段、通信手段も著しい発展を始めていた。フランスをはじめとする大陸ヨーロッパ諸国では、このイギリスの産業発展に規定されて、十九世紀前半には資本主義的生産、機械制大工業が急速に拡大していった。また政治的、社会的な領域においては絶対主義の王権に対してのブルジョワ階級、市民、農民、貧民の反抗が入り乱れて展開され、イギリスではピューリタン革命(一六四二年)、名誉革命(一六八八年)―この革命は土地貴族によるもの―、フランスでは大革命(一七八九年)、アメリカでは独立戦争(一七七六年)などが展開された。十九世紀に入ると資本主義的生産は一段と拡大したが、これをも条件として諸階級、諸階層、また諸政治勢力の争いは一層拡大していった。フランスおけるナポレオン体制の成立と全ヨーロッパでのナポレオン革命戦争、一八一四年にはナポレオンの敗北とウイーン反動体制の形成、そして三十年フランス七月革命を経て、全ヨーロッパ規模の一八四八年革命に至った。そこでは、絶対主義権力、封建地主(土地貴族)階級、ブルジョア階級、小ブルジョア階級、農民層、プロレタリア階級、都市住民−貧民の形成など、そして外国の支配受けるイタリア、ポーランド、アイルランド、ギリシャなどにおける被抑圧民族の存在などがあり運動がある。また、政党的に見れば大ブルジョア派、小ブルジョア派、ボナパルト派、王党派、プロレタリア派、農民党、また民族解放と国民統一(近代国家)を掲げる国民統一派などの運動が展開された。
 ここで重要なことは、第一に何よりも、この時期、資本主義的生産、機械制大工業が発展し生産力が飛躍的に拡大したこと、そしてこれに直接規定されて産業ブルジョアジーの集団が大きな階級となって歴史的に登場し、またこの工業を担う産業労働者が大量に形成され始めたことである。また封建的土地貴族、ブルジョア階級、プロレタリア階級の運動と争いが独特の内容で展開される。イギリスでは十八世紀に蒸気の動力が発明され、綿紡績工業が確立し産業規模を拡大し、鉄と石炭の技術革命が起こり鉄鉱、石炭産業は著しく拡大した。交通手段として鉄道が生み出され拡大した。イギリスにおいて開始された産業革命によって工業部門の生産力は発展し、旧来の家内制手工業などの生産形態を駆逐した。これらの結果、イギリスは「世界の工場」の位置を確立した。またこの製造業の確立と一体化して鉄道、船舶などの大規模な拡大の結果、イギリスは対ヨーロッパ大陸諸国に対して国力の優位を確保しただけでなく、アジア、アメリカなどへの旧来とは異なる植民地的進出を可能にした。特にスペイン、オランダとの戦争、フランスとの戦争に勝利して世界貿易の大半を握り、文字通りの「世界帝国」―中心国・帝国主義として自らを展開していった。
 このイギリスでは、実際、階級的な基盤を持って封建地主階級を代表する保守党と産業ブルジョアを代表する自由党が争い、またその後ろからプロレタリアートを代表する労働党が成長していった。選挙権の拡大を巡るたたかい、団結権の禁止を巡るたたかい、工場法の制定を巡るたたかいが展開され、また穀物の自由化を巡る争いが展開された。イギリスの場合は議会制が定着していたがために、それは政府の政策、法の制定に収斂されていく傾向を強めた。三つの階級は政党を作って典型的な争いをしたのである。一九〇〇年代自由党は解体し、代わって労働党が勢力を拡大していく。もちろん階級の対立とは、国家、政府の政策をめぐるものに限定されるものではない。運動は政治的自由を求めるデモや集会これに対する弾圧、虐殺、資本家に対する労働者のストライキ、機械打ち壊し、穀物倉庫の解放反乱、これに対する弾圧というかたちをとって激烈にたたわれた。
 その第二はフランスを中心とした階級闘争、大革命以来の政治権力を巡る争い、権力闘争、階級の経験を基礎にした封建土地貴族、大ブルジョア階級、プロレタリア階級、農民、都市の中小の商工業者(親方、職人)、貧民の運動とそれぞれの政治党派、政治集団の抗争である。フランスでは典型的に革命と反革命が吹き荒れた。
 一七八九年のフランス大革命は「民衆」が「自由」「平等」「博愛」という呼び掛けの下、絶対王制のブルボン朝をギロチンによって打倒したものである。一般的にいえばこの革命は、確かに、封建的束縛を打ち破って、資本の自由(土地と労働力の商品化、私有財産の保護、商業の自由など)を保障し、ブルジョアジーの階級の支配と発展を可能にしたものである。しかし同時にこの革命は「第三身分」「市民」の政治的自由を実現する民主主義革命であった。いわゆる政治社会経済の全般にわたる典型的なブルジョア革命であったといえるものだ。
 重要なことは、この革命はブルジョア階級はもとより都市住民、市民、貧民、そし農民(農奴)―いわゆる民衆が参加した革命であり、政治的自由のみならず経済的権利と平等(もちろん私有財産の保護の上の)、さらに人々の連帯を求めた革命であったことだ。それ故、革命は徹底的に推進されついにジャコバン独裁を生み出していったのである。この様な政治権力を巡る争い(もちろん社会経済的分野も無視することは出来ない)は、結局、ナポレオン帝政を生み出し、他の封建的諸国に対する革命戦争が開始された。そしてナポレオン・フランスの敗北によって、このブルジョア革命に対抗した反革命体制(ウィーン体制)がイギリスを含めロシア、オーストリア、ドイツの封建諸候による同盟(いわゆる神聖同盟)として形成されていった。フランスではその後一八三〇年の七月革命、一八四八年の革命へと展開していく。
 四八年四月の憲法制定会議の選挙の結果はブルボン王朝派百、オルレアン派百、ナショナル派五百、社会民主主義派百であった。この五百のナショナル派は資本家と農民を代表していた。
 そして、重要なことはマルクスが『共産党宣言』を著したその年、プロレタリアが歴史上、初めて革命に向けた独自の行動を開始したことだ。四八年の革命―ブルジョア革命の中に六月武装蜂起を貫徹しプロレタリア革命の第一歩を刻印したのである。確かに、歴史的な最初の労働者階級の武装蜂起―反乱は大ブルジョアと王候派の連合によって鎮圧された。この反乱の直接の契機は、四八年の革命政府が労働者の救済機関である国立作業所を閉鎖したことに対するたたかいから開始されたものであった。さらにこの後ナポレオン三世によるクーデターを経た後、帝政(ボナパルチズム政権)の成立、フランス・プロシア戦争の敗北とパリ・コミューン形成へと階級闘争は権力を巡って発展していくのである。マルクスは「フランスの内乱」で、コミューン権力、労働者政府の意義を明らかにすると共にブルジョア権力の階級的性格や諸階級、層の運動と党派の主張と動向を詳しく分析している。
 階級闘争の結果として、階級闘争の総括、総括形態として政治権力の性格―統治形態や階級や階層、人民の運動、たたかいが規定付けられると共に党派の主張と運動、活動が規定づけられることを、マルクスは指摘しているのである。四八年革命の六月行動を見たドイツのブルジョアジーはドイツの四八年の国民統一と政治的自由を巡る革命、ブルジョア革命―民主主義革命が進行しているにも拘らず、ここに参加せず、反動化を強め、以降、絶対王政―プロイセンの絶対主義権力の一部へと潜り込んでいく。ドイツのブルジョアジーはブルジョア革命を推進する役割を放棄した、とくに民主主義革命を推進する運動とたたかい、党派としての主張と活動を放棄したのである。絶対主義権力はブルジョアの階級利害を取り込み、ボナパルチズムの性格を強め、資本主義の発展を目指すことになる。階級闘争の結果、政治的自由を制限し、人民の権利を極少化していくのである。
 第三には民族の抑圧に対する民族独立運動を基軸とする運動と党派の活動の拡大である。イタリア、ポーランド、アイルランドなどまたスペインでの階級闘争の在り方、性格の問題である。
 マルクスはポーランドの反乱やアイルランドの反乱、独立運動を支持していたが、実際に歴史的にはこの外国(もちろん中世ヨーロッパでは必ずしも後の国民国家的な人々の共通の基盤があったわけではなく、封建領主の継承によって領地が変更されていた)の支配に反対し、民族の独立、自由を求める運動が高まっていた。イタリアではオーストリアのハプスブルグ朝の支配が、ポーランドではロシアのロマノフ朝とオーストリア支配が、またアイルランドではイングランド王朝の支配が、ギリシャではトルコのオスマン朝の支配が、また他にも外国による支配があった。資本主義の発展に伴って「資本の自由」を確保し再生産構造や流通の構造の確保が極めて重要となり、この分、国家や政府の役割は旧体制とは異なって著しく重要となった。イギリスやフランスはブルジョア階級が国民国家−国民経済を形成し、国民という人民の統治のスタイルを確立したのであった。ブルジョア革命は一つの性格として明確に人々を国民として形成する。国力の強さによって自国の資本主義的発展の可能性は大きく左右されたのである。また外国による支配は、同化や搾取が民族の異なりを梃にして徹底的に推進される(アイルランド支配に典型化される)ことを結果した。こういった同化−民族の文化や言語の破壊、土地の生産物の収奪や商業における外国商人―外国資本の支配など、国民国家的な枠組みにおいて極めて不利になるものであった。この現実からの解放であった。この民族独立、民族解放と国民国家の建設の運動は封建制度を破壊する傾向を強めていた。例えばポーランド反乱において示されたように封建貴族の部分は運動から早く脱落する傾向を持っていたし、全体では、たたかいはブルジョア階級、小ブルジョア、あるいは都市の住民、市民や農民を担い手とするものであった。
 党派の運動、活動の典型はイタリアの反墺国民統合―イタリア統一の運動に見られる立憲君主制の勢力と運動と共和制の勢力と運動の展開に示された。カブール派とマッツィニー派はそれぞれ独自の運動と綱領を持っていた。一八五九、六〇年の解放戦争は両者の統合によって実現された。


  ●三章 労働者階級の運動と労働者党の建設、活動

 資本主義の成立と拡大の時代、労働者階級の解放運動と労働者階級の政党建設の意義を明確化することが、マルクスにとっては、自らの革命論の核心的部分の一つであったことは確かだ。すでに前章で階級、階層の運動と争いは、社会的経済的利害に則して貫かれていくこと、また同時に階級、層の争いの結果によって、とりわけ政治権力の形成の結果によって規定付けられることを確認してきた。また諸階級、諸階層は自ら運動をするだけではなく、党派を形成して争うこと、政治権力を巡って争いを激烈に展開することを見てきた。労働者階級も当然、自ら成立して以降、運動を開始すると共に、自らを政党へと組織化し、支配階級と争い、政治権力を巡ってたたかいを展開したのである。マルクスが四八年の当時「党宣言」において想定した「労働者党」の概念について、歴史的な事実から見ていくことは、革命的労働者党の建設を目指す現代の共産主義者にとって、極めて大きな意味がある。一八四八年の『共産党宣言』において展開した、いわゆる組織論―革命的労働者党論は、実際の四八年以前の階級闘争、革命運動の現実的、歴史的な実相の中から導き出されたものである。すくなくとも論理的な組織論として労働者党論、革命的労働者党論の各規定をなしたものだとしても、やはり歴史的事実に基づく総括としてこの理論を確定したと見るべきだろう。
 全体的に見た場合、そこには(1)イギリスの様な労働者階級の実態的な形成、拡大―近代プロレタリアートの大量の形成と拡大と資本家やブルジョア国家とのたたかい、運動の前進、ここでの労働者党の形成と活動、また(2)フランスの様な様々な都市住民、親方、職人や職人見習い、商人や工場労働者が実態をなして、政治権力―政府を巡って争う労働者党の建設、ここでは革命党の性格を強めている。そして加えれば(3)ドイツの様に、もちろんフランス、イギリスでも同様に見られたが知識人、インテリゲンチャー、青年学生層の政治的自由を求める運動と、理論的、思想的に資本主義を批判し社会主義、共産主義を掲げる政治党派、政治集団の形成と活動―これも一つの労働者党である―など、労働者党の姿がある。
 もちろんこれらに特徴づけられるとしても、実際はこれらの特徴が入り乱れて展開されており重なりあっている。労働者党の成立(活動展開)は、労働者階級の形成と運動を基盤とするが、少なくとも労働者階級の実態的な形成と運動、権力を巡る「民衆」―人民の反乱、革命闘争、そして、資本主義批判―労働者階級の社会建設の理論的、思想的集団の形成と活動の総合によって実現されたと言うことができるだろう。
 マルクスは、「宣言」において労働者階級の運動、闘争、団結形成の活動のうちに「政党への自己組織化」を挙げ、この政党が労働者党であると規定している。この労働者党は革命的労働者党との関連で規定づけられているが、彼は、労働者階級が歴史的、実態的基盤において形成され、運動が開始されたとき、この自己解放運動の活動の一つとして労働者党が建設されるとしている。簡単にいえば労働者階級という革命の主体の存在と活動が前提となって、はじめて、労働者党は形成されるということだ。そしてマルクスは、この点を踏まえ、労働者党は「プロレタリアートの階級への形成、ブルジョアジーの支配の転覆、プロレタリアートによる政治権力の獲得」を当面の目的にすると規定した。すなわち労働者党は活動の中で、労働者の不断の階級形成を進めるのであるが、政治権力―プロレタリア政府の樹立を目指してブルジョア支配とたたかう存在と位置付けているのである。労働者党とはあくまで階級闘争、権力闘争を労働者の解放に向けてたたかう政党存在であるということだ。さらにマルクスは、労働者党の規定において、実践的、理論的点において共産主義者は一歩進んでいる、勝っているとしつつ、共産主義者の党は、「他の労働者政党に対立する特殊な政党ではない」としている。この理解は困難であるにしても、すくなくとも、ここで言う他の労働者党とは、労働者の利益を部分的に代表して活動している政党、あるいは国内的な利益に左右されている政党として措定され、理論的にはこの部分性を論理化した綱領をもつものとして定義しているといえるだろう。「共産主義者は他の労働者政党に対立する特殊な政党ではない」という規定との関連で見れば、それは現実的に、当面の利益に基づいた途上性にある政党存在であるという見解であり、またその途上性や過渡性は極めて多々あるということだ。また、共産主義者−革命的労働者党自身が敢えていえば途上性にあり、この途上性を越えていく存在に他ならないこと、まさに他の労働者党と同一の基盤にあることを表している。

  ▼1 労働者を実態的基礎にした労働者党の成立

 労働者党とは第一に、あくまで実態としての労働者階級を基礎としてはじめて政党として成立するという点である。これは典型的にはイギリスにおける産業労働者の拡大と密接に直接結び付いた労働者党の建設の歴史に示される。イギリスにおける労働者党の成立はマルクスにとって特に重要であった。
 マルクスの提起する労働者党とは、いわゆる産業労働者の党を指している。労働者階級の運動とは労働組合運動を中心に見るべきだが、実際は生産点のストライキ、地域ゼネスト、地域反乱、暴動や政治的自由のための一大デモ、全国的な評議会など政府、資本家の弾圧と虐殺を乗り越えてたたかわれた。繊維−織物工場の、そしてまた石炭工業−製鉄工業の近代的プロレタリアートこそ革命の主体であった。中世のギルドや職人、徒弟という身分制をもった生産者とはことなる主体の成立である。ここを基軸に彼の階級論、階級形成論、労働者党論は展開されているのだ。
 当時のイギリスの労働者階級の形成、すなわち産業革命の開始、機械制大工業の成立、エネルギー革命、動力革命の成立、生産力の飛躍的拡大と交通諸関係の発展に伴う労働者階級の状態の分析とそこからの運動の開始、そして政党の建設というものを一連の労働者階級の自己解放運動の過程と捕らえ、これを革命論−組織論にしたものに他ならない。労働者党の規定との関係でいえば、いわゆるチャーチスト派(人民憲章派)の組織と活動を指している。確かに一八〇〇年代前半期にあっては発展した労働組合諸組織とこのチャーチスト派は明確な関係をもっていたとはいえないが、チャーチスト派が普通選挙を要求する運動であった限りにおいては、いわゆる納税額の少ない財産のない労働者の政治参加の権利、政治的自由の獲得を求めたものであり、労働者の組織であったと見ることは誤りではない。マルクスとエンゲルスはこの派の指導者であったハーニーやジョーンズを積極的に評価し、ロンドン労働者協会(一八三六年結成)、友愛民主主義者協会(一八四五年設立)など労働者の政治団体として評価しているのである。チャーチスト派の活動は工場法の制定(一八三三年)や団結禁止法の撤廃(一八二四年)に大きな役割を果たしている。
 イギリス労働運動と政党建設の運動は、その後いわゆる熟練工を軸とした労働組合の狭い枠を越えた−政治的には自由党を後押しする構造を脱却して、ケア・ハーディらを中心にした一般労働組合を基礎にした労働者独自の政党としてイギリス労働党を結成(一八八八年スコットランド労働党結成、九〇年労働者代表委員会結成、一九〇六年議会労働党の成立)することになる。いわゆるマルクスが展開した階級実態をもった階級の形成―主要には労働組合の発展と労働者独自の労働者党建設―労働党の建設となって現れた。

  ▼2 階級闘争、権力闘争を進めるの労働者党の形成

 労働者党とは政治集団、革命党として形成されたという点である。フランスにおける労働者党について見ることができる。マルクスは「フランスでは階級闘争、革命運動は徹底的に推進された。またこれに伴う党派のたたかいも典型的に推進された」ことを明らかにし、そこでの労働者階級と労働者党の形成について解明した。「党宣言」においては社会主義的および共産主義的文献の批判の項で、党派と主張の批判を展開しているが、歴史的に評価している部分もある。例えばプルードン主義、空想的社会主義など。より以上に四八年の「六月蜂起」を巡るプロレタリア革命とブルジョア反革命の展開に次のような評価をしている。
 「六月事件のあいだ、すべての階級と党派が秩序の党に団結して、無政府の党、社会主義、共産主義の党としてのプロレタリア階級に対抗した」(ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日)。マルクスはここで君主制派や共和主義や農民党などの全有産階級が秩序と財産の防衛のために無産階級の無政府、社会主義、共産主義の党に対抗していることを示した。労働者党とはこの政治集団、革命組織を指していることは明らかだ。

  ▼3 共産主義理論、社会主義理論と労働者党の建設

 三つには、マルクスは共産主義を掲げる党派、グループをその目的、結集軸の内容から労働者党として評価していたという点である。労働者階級解放の理論と思想からする党派、政治集団の形成である。これは革命的労働者党論の深化と創造と深く結び付く。四八年の共産主義者同盟自身、それまでの職人的枠組みを越えて、改組し、プロレタリア政党あるいは革命的労働者党になったというものであるが、これは何か急激に産業労働者を基盤にして党が確立したというものではない。むしろ綱領の中身において労働者の独自の利益に立つことを宣言し、労働者の革命と権力の樹立による根本的な解放を明示し、また産業労働者に依拠していく方向を明らかにしたものである(一八九〇年代に以降になってドイツで産業の発展と労働者階級の増大に伴って、階級と党の基本構造が確立した)。つまりマルクスは当時の空想的社会主義者の残党、運動に敵対している閉鎖的なセクトを排し、また階級融和を主張する真正社会主義グループを排し、また古い封建的共同体を求める社会主義を排して、労働者階級による政治権力の獲得を目指す、党派、集団を労働者党として位置付けたのである。この組織論の枠組みは、共産主義者同盟の再建に伴う党建設の展望としてマルクスによって編み出された、革命的共産主義者世界協会の建設の方向にはっきりと示されている。すなわちこの協会建設はブランキ派との協定に基づく組織体であり、またチャーチスト派との連携を認めたものであった。つまり他の労働者党としてこれらの党派を評価していたのである。これは革命的労働者党が自らを途上性のある存在であることを認めたものでもあった。もちろん第一インターの過程でアナーキスト派と共闘したことは有名である。
 この様に労働者党に関するマルクスの規定を、現代的に生かしていくことは現代のプロレタリア革命を目指す現代に共産主義者にとって極めて重要な課題である。


  

当サイト掲載の文章・写真等の無断転載禁止
Copyright (C) 2006, Japan Communist League, All Rights Reserved.