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■8・6 広島 関西からもヒロシマ行動に参加 被爆者の苦闘に学び、反核闘争の前進を 被爆から六十六年を迎えた八月六日を前後して、SYN(学生・青年ネットワーク)の仲間と共に広島を訪れ、八月ヒロシマ行動を取り組んできました。被爆二世の会の方との交流、被爆者の方からの被爆体験の聞き取り、平和記念公園のフィールドワーク、平和記念資料館見学、そして8・6広島青空集会への参加など、充実した三日間でした。 今回の八月ヒロシマ行動で、印象が強かったことは、菅首相や広島市長が明確な脱原発を打ち出せなかったのとは対照的に、反核運動・被爆者運動と反原発運動がしっかりと結びつきつつあるということです。 三月十一日の福島第一原子力発電所の事故によって多くの被曝者が生み出されつづけています。このような現実の中で、反核運動の中に反原発の課題がしっかりと位置付きはじめてきているのです。 今回の八月ヒロシマ行動で出会った多くの団体や個人の方々が、鮮明に反原発を表明し、反核と反原発を結びつけた取り組みがさまざまに取り組まれました。被爆体験をお話ししていただいた被爆者の方は、「一体、僕はずっと何をやってきたのだろう。放射能の恐ろしさを伝えきれなかったのかもしれない」と話され、「原爆だろうと原発だろうと、核と人類は絶対に共存できない」と訴えられました。 八月六日を前にした七月十三日、被団協(日本原水爆被害者団体協議会)がすべての原発の操業を順次停止し、廃炉にするように求める運動方針を正式に決定しました。これは、何よりも今年の八月六日を特徴付けるものでした。 一九五四年、米帝がビキニ環礁でおこなった水爆実験により、日本のマグロ漁船が被爆をし、静岡県沼津港所属の第五福竜丸の無線長であった久保山愛吉さんが悲惨な被爆死を強いられます。この事件を契機として、東京の市民運動からはじまった原水爆禁止運動は瞬く間に拡大し、戦後反戦平和運動を代表するものへと発展していきました。一九五五年八月六日には、広島で第一回の原水禁世界大会が開催され、翌年には原水協(原水爆禁止日本協議会)と被団協が結成されます。 このふたつの団体は、車の両輪として原水禁運動を牽引していきます。六五年に原水禁(原水爆禁止日本国民会議)と分裂するまで、原水協は急速に盛り上がっていた労働者民衆の反核意識を運動として糾合していきます。五六年八月に長崎に八百人の被爆者を集めて結成された被団協は、被爆者への補償(政府の戦争責任の追及)と核兵器の廃絶のふたつを柱にした運動を押し進めていきます。差別や原爆症とたたかいながら、被爆者たちは悲惨な被爆の実態を伝え続けてきました。米占領下で暴力的に覆い隠されてきた被爆の実態は、原爆の非人間性を全世界に明らかにしていきます。 被爆者をはじめとする原水禁運動は、帝国主義に核兵器の廃絶を迫り、核戦争策動と真正面から対決をしていきます。しかし一方で、日本の反核運動全体が反原発運動と結び付くことは、この間はありませんでした。 日本被団協は、一九五六年の結成以来、この七月までは、原子力の平和利用を否定しない方針を取り続けていました。結成大会の宣言では、「人類は私たちの犠牲と苦難をまたふたたび繰り返してはなりません」と訴える一方、「原子力を決定的に人類の幸福と繁栄との方向に向かわせることこそが、私たちの生きる限りの唯一の願いであります」としていました。 この結成宣言文を起草した森龍市郎はその後、オーストラリア先住民の反核運動に触れる中で「核絶対否定」の立場を取り、被爆者の立場から反原発運動を進めていきます。また今回の八月ヒロシマ行動でお話をうかがった「被爆二世の会」は、山口県の上関原発建設建設反対運動に参加する中で、反核と反原発を結びつけてたたかってきました。 しかし、これらの先進的な取り組みが、反核運動全体を規定することはこの三月十一日まではありませんでした。 一九五三年十二月、アメリカ大統領アイゼンハワーは、国連で「原子力の平和利用(アトムズ・フォー・ピース)」と題された演説をおこない、農業や医療、発電など原子力の「平和的」利用を国際的に推進する姿勢を示しました。これは、ソ連の水爆実験の成功―米帝による核(技術)独占の崩壊を受けて、ソ連を中心とする東側陣営に対抗して、西側陣営の結束のために核技術を利用する方針に転換するものでした。さらには、通常兵力ではソ連に劣る米帝は、それに対抗するために同盟諸国への核兵器の配備をも視野に入れていました。 日本も一九五二年の独立と同時に、「国策」として原発政策を推進していきます。それは、帝国主義間戦争に敗れた日本支配層にとっては、再び帝国主義として復活をすることを狙ったものでした。原発を導入するのに大きな役割を果たしたとされる中曽根康弘は、「原子力は二十世紀最大の発見。平和利用できなければ日本は永久に四等国に甘んじると思った」と述べています。同時に彼は、将来、日本が核兵器を保有できる技術を持つことを視野にいれていました。中曽根は防衛庁長官時代の一九七〇年、私的諮問機関で核武装の研究をおこない、「(当時の金で)二千億円、五年以内に(核保有が)できる」と言い放っています。 このようなアメリカ帝国主義、日本の支配者層の核政策に対する最大の障壁として立ちはだかったのが、被爆者をはじめとする原水禁運動でした。「共産主義者は広島と長崎をプロパガンダの主要ターゲットにした。現状も彼らが同じ種をまく良い機会になっている」(五四年三月・米国防長官補佐官メモ)。「(広島は、原子力の)平和利用の促進が最も難しいエリア」(五五年六月・日本在住広報外交担当官のワシントン宛のメモ)。これらの言葉に、米帝・日本支配者層の危機感があらわれています。 だからこそ、核政策を推進する側が「日本人の核アレルギー」と呼ぶ反核意識への全体重をかけた攻撃がかけられてきました。原子力の平和利用で日本の反核意識を和らげ、最終的には日本への核兵器配備を実現することを立案した五〇年代半ばの米公文書が明らかにされました。ここでは、「日本人が米国の原子力平和利用計画の可能性を称賛すればするほど、現に存在する心理的障害を小さなものにすることや、軍用原子計画の実態をより高く評価することを促すのに有効であると示唆されている」と述べられています。とりわけて、この標的にされたのは、被爆地・広島でした。 この攻撃の最も端的なものが、世界各地でおこなわれていた「原子力平和利用博覧会」の広島での開催でした。五四年四月の米国家安全保障会議作業部会で、この平和利用博を通したPR活動が、原水禁運動対策の軸として位置付けられたのです。 米帝と日本の支配者層は、これを広島で開催するだけにとどまらず、「オール広島」での開催にこだわり、広島県、広島市、広島大学、中国新聞社を主催者として巻き込んでいきます。開催地も、「被爆地ヒロシマ」を象徴する広島市平和記念資料館が選ばれました。 この博覧間は、五五年十一月から一年十カ月、全国十一都市で開催され、二百七十万人を動員しました。五六年五月に開催された「広島博覧会は三週間で十二万人以上を集め、成功裏に終わった」(五六年六月・米大使館からワシントンへの報告)。 茨城県東海村で原子炉に「原子の火」がともったのは、五七年八月。この「原子力平和利用博覧会」は、米帝と日本支配者層による「原子力平和利用」キャンペーンで大きな役割を果たしたのです。 この攻撃の前に、原水禁運動に大きな影響を持っていた革新政党は屈服していきます。 一九五五年の原子力基本法は、左右が統合した社会党、保守合同による自民党の全衆議院議員の議員立法として提出されました。七二年の党大会で「原発、再処理工場の建設反対運動を推進するための決議」を採択するまでは、社会党は自民党と共に原発を積極的に推進してきたのです。九四年の自社さ政権への参加で、社会党は再度、原発容認に転じます。 また共産党も、「原子力の安全性はまだ確立していない」としながらも、これは科学技術の発展の中で解決できる問題だとして原子力技術の研究・開発は容認してきました。同時に私たちも、この三月十一日までは、反原発闘争をその正面からの主要課題として掲げることはできませんでした。 この三月十一日の原発事故により、原発の「安全神話」は崩壊し、その反人民性が明らかにされました。反原発のたたかいは、労働者・人民の大きな課題として急浮上してきました。 他方でブルジョアジーも原発を巡っては分裂をしています。経団連が引き続き原発の維持・拡大を主張する一方で、ソフトバンクの孫や楽天の三木谷などの新興ブルジョアジーは脱原発と自然エネルギーへの転換を訴えています。しかしこれらは、決して労働者・人民の利害に立脚して反原発を訴えているわけではありません。労働者・人民の反原発闘争をも利用しながら、電力資本をはじめとした原発政策と結びついた利権を独占してきたブルジョアジーに、その分け前を要求しているに他なりません。私たちは、このような部分と鮮明に分岐し、絶対に核や原発と相容れない労働者・人民の利害に立脚してたたかっていかなければなりません。 原爆によって筆舌に尽くしがたい苦痛を強いられ続けてきた被爆者は、「ノーモア・ヒバクシャ」を訴え続けてきました。今回の福島第一原発の事故で、膨大な量の放射能がまき散らかされ、多くの人々が被曝を強いられている現実の中で、新たな一歩を踏み出しつつあります。私たちも、被爆者の六十六年間の苦闘に学び、このたたかいに合流する中から、原発と核、戦争に反対する学生・青年の運動をつくり出していきたいと思います。 |
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