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  ■6・25 三里塚現闘本部裁判

  萩原さん、裁判長を圧倒する証言





 六月二十五日千葉地裁で、天神峰現闘本部裁判が開かれた。八十名が傍聴に駆けつけた。この裁判は、暫定滑走路の「への字」に曲がった誘導路を直線化するために現闘本部を撤去しようと、〇四年三月空港会社が起こしたものである。仲戸川裁判長は現闘本部を奪い取る判決を書こうとやっきになっている。昨年九月二十五日の裁判では、裁判長が予防的に機動隊を配備し、抗議する反対同盟員を公務執行妨害で不当逮捕した。開かれた法廷では、裁判長は「実地検証を却下する」旨を発言し、法廷内が怒号であふれた。弁護団は「裁判官忌避」を申し立てた。今年三月十二日、「忌避」に対する最終決定が出ていないうちに、裁判長が一方的に期日指定した裁判が開かれた。反対同盟は「今日は裁判をするな」と抗議した。しかし抗議の最中に裁判長は、欠席裁判を強行した。NAA(空港会社)側の証人として、現闘本部の元地主にうその証言をさせた。この証言は反対尋問がやりにくい「ビデオリンク方式」で行われた。また、以前に決定していた反対同盟側証人調べを「裁判に協力的でないから取り消す」という暴挙を行った。反対同盟は抗議を重ね、この取消を撤回させた。四月二十三日の裁判で、北原事務局長の証言が行われた。北原さんは、戦争動員体験から軍事空港建設に反対していること、鉄骨建物に守られて木造建物が現存していることを証言した。

 この日の法廷では萩原事務局次長と元反対同盟法対部元永さんの証言が行われた。

 萩原さんは、開拓時代の話を皮切りに空港問題とのかかわりを、時系列で三時間にまとめて話した。「入植後十年経って東峰神社を建て、神社を中心に部落がまとまっていた。農家を継ぎたくないと思っていたが、シルクコンビナート計画に今後の農業の展望をかけて応募し、養蚕地認定を受け、マユを取り始めていた。三里塚が空港予定地であることを新聞で知った。三里塚のコンビナート計画は廃止された。友納知事に見直しを求めに行ったが会ってくれない。県議会で知事は『別の道でがんばってほしい』と発言。『それならとことん農家をやってやる』と決意した。『二期工事は地元の十分な了解を得て行う』と言っていたが、八六年に一方的に工事に着手した。軒先にブルドーザーで迫り立ち退かせようとした。〇五年五月NAA黒野社長から東峰地区住民に謝罪の手紙がきた。しかし、この謝罪は全くうそ偽りであった。NAAは『残す』と言っていた東峰の森を切って新誘導路を作り、北延伸の工事を強行し、早朝深夜の自主規制を取りやめた。今年三月二十三日のウインドシアによる事故のとき、暫定滑走路も閉鎖するべきだった。この考え方の違いが決定的だ。安全優先なら空港もできていない。天神峰現闘本部は反対運動の初期に、同盟副委員長の石橋政次氏の土地に建てられた。各地の団結小屋の本部、地域の公民館として使われた。石橋宅は暫定滑走路予定地の真ん中にあった。石橋氏は現闘本部をここに建ててよかったと思っていた。石橋氏はNAAの切り崩しに破れ、酒々井へ転居した。副委員長を解任された。反対同盟は、現闘本部の土地のけじめをつけねば、と思っていた。私は仲人を石橋政次夫妻にやってもらったり、息子の武司氏と幼なじみで農協で一緒に働いたりと、家族ぐるみで親しく付き合っていた。解任後私は政次氏と話し、『私の空港反対の意思表示として、家は売っても本部は残す。反対同盟が自由に使ってくれ』と言葉をかけられた。転居後、現闘本部の土地のことで私は武司氏と四、五回会った。反対同盟の『土地を買う』という申し出に対し武司氏は、『同盟から金は取れない』と言い、譲渡することになった。しかし書類にサインする約束の日、直前にキャンセルされた。『横ヤリが入ったのかな』と感じた。その後八八年五月武司氏と会い、現闘本部に鉄骨三階建ての建物を増築することを承諾する念書を取り交わし、年五万円の地代を払う契約をした。念書は政次名義で武司氏が署名、押印した。その場で八八年度分の五万円を渡した。武司氏は転居後、自宅をガードマンに警備され、NAAから反対同盟との関わりを監視されていたためお金を受け取ろうとせず、そのまま反対同盟へのカンパとした。武司氏は、心情は空港反対であるが、反対同盟とのつきあいを断つようにNAAに二十四時間体制で監視され、また転居先で孤立した形になりとてもつらい状況であった。父親の独断が石橋家の家風であったので、NAAとの交渉や移転も政次氏一人で決めてしまっていた。政次氏は転居後まもなく脳溢血で亡くなり、武司氏は重いうつ病になり働けなくなった。NAAが人間関係を壊し、石橋家を破壊した。お人よしに見えるかも知れないが、反対同盟は石橋家を信頼し、現闘本部の土地を残してもらえると判断していた。裁判では念書や地代領収書を証拠として出しているが、我々は金ではなく信頼関係第一でやっている。石橋恵美子氏の陳述書は、NAAが書かせた作文であり、石橋家を悪者扱いしてはならないと思っている。先日報道された足利事件の過ちを繰り返してはならない。現闘本部の実地検証をしてほしい」。NAAからの反対尋問は北原さんと同じく無かった。続いて元永氏が証言した。「七六年に反対同盟副委員長瀬利氏が移転したとき、横堀団結小屋の土地を反対同盟へ名義変更、譲渡した。私は法対部として登記所での手続きをした。八七年に石橋氏が移転したとき、現闘本部は反対同盟全体の本部であるから、瀬利氏と同様に置いていかれるだろうと思っていた」「石橋氏にはその意志があったようだが、いったん合意していた無償譲渡は頓挫してしまった。現闘本部が老朽化したので、増改築の話が持ち上がった。居酒屋で武司氏と会った。萩原さんが『増築でもめたら困るので、書面をかわしたい』と言い、用意してきた承諾書を見せると武司氏は『もっと簡単な文面にしてくれ』と言った。その書類がもしNAAに渡っても困らないようなものにしたかったようだ。『そもそも反対同盟に残してきたものであり、どのように使ってくれてもいい』という武司氏の言葉を書面にし、武司氏が政次名義で署名した。これは、石橋家として同意するという意味だった。NAAが主張するように、『武司氏の意向を無視して鉄骨三階建の増築をした』ならば、武司氏は明渡し要求裁判でも起こせたはずだが、そうはしていない。増築以降毎年五万円の地代を石橋宅へ払いに行った。毎回、地代は即、反対同盟へのカンパとなった。唯一九五年のみ『カンパ』として返されなかった。NAAの主張では『カンパの領収書も同時に持ってきていた』というが、そんなことはありえない。現闘本部の建物は、木造建物がそのまま残るように建てた。NAAは三方の壁を取り払ったと主張するが、ガラス戸、障子を取り外しただけである」。NAA代理人から二、三の反対尋問があった。一つは「石橋宅を訪問したときガードマンと会ったとのことだが、そのガードマンは誰から誰を守っていると思ったのか」。これに対し元永氏は「石橋さんは監視されて大変だなと思った」と答えた。

 続いて反対同盟弁護団が、証人の再喚問を要求した。石橋恵美子証人のうその陳述書がこのまま採用されるのを見過ごせないと、石橋証人の再喚問、公団用地課長の喚問を求め、反対尋問の機会を要求した。また、建物の実地検証を求め、NAAが隠している証拠書類の提出命令を出すことも要求した。

 裁判長は即答できず、合議すると言って裁判官三人が奥へ退いた。十分後現れた裁判長は、「証拠調べはこれで終わり」と発言、法廷内は怒号の渦と化した。弁護団からも傍聴席からも「理由を説明しろ」の声があがった。裁判長は「説明を求めるなら、結審しますよ」と強権的に裁判を進めた。裁判長以外誰も納得しない訴訟指揮である。絶え間ないヤジの中で次回期日を決め、閉廷した。

 隣りの建物に場所を移して、弾劾決起集会が行われた。北原事務局長は、「実地検証をしないで判決が書けるのか。この裁判は絶対に認められない。裁判官三人を告発したい。三里塚闘争ははじめから裁判だけでは勝てないと言ってきたが、その通りになっている。四十三年前の七月四日、三里塚空港が閣議決定された。その日に合わせ七月五日に現地闘争をする。全国の人々に結集を呼びかける」と発言。

 弁護団は、「今日の法廷は最高の証言だった。このまま実地検証をせず判決を書いたら、後世に残る悪代官になる」「仲戸川裁判長の今日の最後の判断は、成田空港闘争においてがっぷり四つで組み合っていると感じた。階級裁判として今年一年闘う」「今日は、もう少し中身で押していこうという方針で、裁判官席へ詰め寄る行動はとらなかった。次回の弁論をがんばる」と報告した。

 萩原事務局次長は、「今日は痛み分けということで七・五闘争を闘う。百年経っても、仲戸川裁判長の責任を追及する。成田の裁判は、やる前から結論が決まっていると知っていても、裁判闘争は全力で闘う。現地実力闘争はそれ以上に闘う。七・五をともに闘いましょう」と力強く呼びかけた。次回の口頭弁論は十一月十二日十時半から行われる。多数の傍聴で不合理な裁判を打ち破ろう。


 

 

 

 

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