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■広島・呉を訪問
「被爆地」広島―戦前から現在まで「軍都」というもうひとつの顔
「被爆地」広島には、戦前から現在まで「軍都」というもうひとつの顔があります。広島県の呉市から山口県の岩国にいたる一帯は、自衛隊や米軍の基地が集中しています。八月六日のヒロシマ行動の前日、SYN(新自由主義・国家主義と対決する学生・青年ネットワーク)の仲間とともに、呉を訪ねて、この広島の「もうひとつの顔」について学んできました。
●1 呉から岩国まで米軍、自衛隊基地が集中
呉市の市街地を歩いていると、制服姿の自衛官の姿が目に付き、まさにここが「基地の街」であることが実感できます。呉港に目をやると、海上自衛隊や海上保安庁の艦船が、数多く浮かんでいます。
呉市から山口県の岩国までは、直線にすると約三十キロメートル。ここに自衛隊や米軍基地が集中しています。この中でも、呉の基地群は、極めて大きな軍事的な位置を持っています。一九九一年には、掃海母艦「はやせ」と掃海艇「ゆりしま」が中東湾岸戦争後の機雷掃海のためにペルシャ湾に派兵されています。これ以降、カンボジアPKO派兵、トルコ地震「被災者支援」派兵、東チモールPKO派兵など、自衛隊海外派兵が呉から繰り返されてきたのです。
とりわけ、二〇〇一年からは、補給艦「とわだ」が呉から「テロ対策特措法」にもとづいてインド洋に派兵され、米軍艦船などに五百四十三回・約四十一万キロリットルの燃料提供をおこない、アフガニスタン侵略戦争、そしてさらにイラク侵略戦争に参戦しています。これ以降、呉からは補給艦や護衛艦が相次いでインド洋に派兵されています。
●2 呉の自衛隊と米軍基地の機能と役割
山側にある歴史の見える丘公園や串山公園に登ると、呉港が一望できます。まず目に飛び込んでくるのが、IHI(石川島播磨重工業)造船所です。建造中の強大なタンカーや修理中の自衛隊艦船が見えます。ここは戦前に呉海軍工廠船部として、戦艦大和が建造されたところでもあります。大和建設中は、軍機密保持のために、住民の生活が厳しく制限されたそうです。
その北東には、海上自衛隊呉総監部があります。戦前は、全国に四つあった鎮守府のひとつとしてアジア侵略の一大拠点でもありました。今でも、その時の立派な赤煉瓦の建物が見られます。
IHIの南西には、海上自衛隊の基地があり、潜水艦や艦艇が並んでいます。近くまで行ってみると、真っ黒い船体の上半分を海上にただよわせている潜水艦の不気味な姿が目を引きます。呉には、最新鋭の「おやしお」型三隻を含む九隻の第一潜水隊群が置かれ、横須賀の第二潜水隊群と連携しています。また、潜水艦教育訓練隊、二隻編成の第一練習潜水隊があり、海上自衛隊随一の潜水艦基地となってます。
その奥には、音響観測艇の巨大な姿が目を引きます。これは、潜水艦情報を収集する艦艇で、九三年に二十六億円の専用桟橋を完成させ、二隻を配備しました。九四年には、横須賀の対潜水艦センターが日米共同使用になり、呉の第一潜水隊群と音響観測艇の収集した情報が、日米両軍で共有される体制がつくられています。
潜水艦基地の手前には、アメリカ陸軍の秋月弾薬庫廠司令部があります。ここと、呉市内、隣の江田島、三カ所に弾薬庫を持ち、米軍二十七人、日本人労働者三百八十七人、貯蔵能力十一・五万トンを誇る米陸軍極東最大の弾薬庫です。グアムやインド洋のディエゴガルシア島の基地とも連携し、アジア太平洋全域をカバーしています。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸線、そして「対テロ」戦争でも、弾薬補給など重要な役割をはたしています。また、核兵器貯蔵可能な弾薬庫が二十六カ所あり、核兵器の存在が疑われています。九七年に岩国の海兵隊が沖縄での演習中に「劣化ウラン弾」を誤射するという事件が起こり、ここに「劣化ウラン弾」が貯蔵されている疑惑も浮上しています。ベトナム戦争中の七一年には、一名死亡・六名が負傷するという爆発事故を引き起こしています。
戦前はアジア侵略の出撃拠点としてあった呉は、現在でも全世界への侵略戦争の出撃拠点としてあるのです。
●3 軍都を誇る資料館、空襲で殺された住民
私たちは、戦艦大和の十分の一の模型で有名になった大和ミュージアムにも行ってきました。ここは、財政赤字に苦しむ呉市が、九十五億円を投入して建設し、二〇〇五年にオープンしました。その隣には、本物の海上自衛隊潜水艦を展示している「鉄のくじら館」があります。これらの資料館は、呉がいかに軍都として発展してきたかを誇るもので、侵略戦争に対する反省は全くありません。事実、オープンにあわせて、「その気概に学ぶ」として「日本海」海戦百周年行事が呉市後援でおこなわれ、「日本海海戦の歴史的勝利は、わが国の自存自衛を全うし、国際社会にその地位を高め、今日にいたる繁栄の基礎をきずいた」としています。一方で、中国の『人民日報』が、「ドイツがユダヤ人記念館を作って反省と謝罪を表したのに、日本は正反対に大和を復活させた」と批判しています。
しかし、呉の人々は基地があるために多くの苦痛を強制されてきました。戦争末期の一九四五年には、軍港や工廠などへ六回にも及ぶ空襲にみまわれました。七月一日から二日に及ぶ市街地への空襲では、二千名もの住民が犠牲になりました。私たちは、防空壕跡などの戦跡を訪ねましたが、周辺の住宅が焼かれたために防空壕に避難した住民が蒸し焼きになって殺されたそうです。決して基地や軍隊は住民を守るものではなく、戦争に巻き込んでいくのであることは、呉の歴史からも明らかです。
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