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福島フィールドワークに参加して

2020年4月
                                                                                 
                                              

                                         
 AWC福岡の仲間たちは福島第一原発事故から九年を経た三月一〇日から一三日まで福島県で、交流集会と福島の人々の被曝・避難と現状を知るフィールドワークに参加した。
 三月一〇日、黒田節子さんなど福島の皆さんと合流し、都路から三春町に避難している七〇代の女性にお話を聞いた。当時を思い出し、原発が爆発した時の行政の対応や、「放射能は笑っている人には危なくない」といって避難を遅らせた山下俊一(福島医科大)の果たした犯罪的言動への怒りを語った。福島原発が誘致され東電に働く人々が都路の住民の多数にのぼり、地域社会が原発優先に変化していったこと、現在避難解除された都路の山には今もフレコンバッグがあり、山菜取りなどできない土壌は放射能汚染が生態系に影響を与えていることなどを話してくださった。そして、安倍首相がオリンピック開催のためにうそをついたころを厳しく指弾して、「恐ろしい原発を安全だといってることが異常だ」と避難後も原発はいらない強い思いを語りました。
 ちょうど3・11に合わせイタリアのテレビ放送局のリポーターがこの避難者にインタビューしてきた。「安倍首相が言うように原発はアンダーコントロールなのか、オリンピックはするべきかどうかについて」質問し、収録した。最後に大阪のサックス奏者が「ドントキル」を演奏してくれた。テンポの良い楽曲で、デモや集会で活躍されているということに納得した。
 一一日、福島と交流を重ねる東京の人たちと合流して白河市のアウシュビッツ平和博物館を見学し、原発災害情報センターの展示資料とその倉庫に保管されている板に書かれた遺書を見せてもらった。3・11の後に相馬市の酪農家は収入を絶たれ、牛も処分し、すべてを失った。板にチョークで「原発さえなければ」「長い間お世話になりました」という遺書を残して亡くなった。
 午後からは郡山で交流集会だ。今年は「原発いらない福島女たちの3・11集会」はコロナ感染対策のため中止になったが、小規模の交流集会がもたれた。
 交流集会の最初に、今回の集会に韓国から訪日予定だった「核廃棄のための全国ネットワーク」の三名がコロナ感染拡大で来日できなくなったため、韓国の脱原発運動をプロジェクターを使ってAWC日本連の仲間が報告した。
 文在寅(ムンジェイン)大統領が原発ゼロ宣言をしたことに期待して運動が不活発になる傾向がある。しかし二〇八三年にならないと原発はなくならない計画であり、運転中原発が二四基、新原発建設が四基ある。原発輸出もしている。朝鮮半島の非核化は、共和国の核のみでなく、南の原発と米軍の核兵器をなくすことが課題だ。
 サムチョク市では住民の反対で原発建設が白紙撤回された。大田の韓国原子力研究院は高層住宅街の中にあり、燃料棒を作っている危険な工場も近くにある。原子力研究院は核廃棄物を川に流していて、ずさんな管理に市民が怒り闘っている。慶州のウォルソン原発移住対策委員会が座り込み行動をしている。
 昨二月に新コリ四号機核燃料装填を阻止する緊急行動、今年一月一〇日に福島の汚染水放流反対の記者会見、毎年8・6には広島を忘れないパーフォーマンスを闘った。そして今日は福島の集会と連帯する記者会見をしている。
 福島の皆さんとは今後の連帯行動の計画を提案したかった、福島の放射能汚染水放流や東京五輪に対する国際宣言や国際署名の取り組みなども提案したいと報告された。
 続いて反五輪の会からは、昨年福島駅前やJビレッジでの聖火リレー予行練習でのパフォーマンスの活動報告がなされた。三月二六日にJビレッジから出発する聖火リレーに対しても福島に来て、皆さんと連帯して反対のパフォーマンスをするという発言をおこなった。
 続いて原発いらない福島の女たち(有志)が、「チェルノブイリ法日本版」を作る郡山の会の取り組みについて報告した。国際的な安全基準を二〇倍にゆるめ、子供たちを危険にさらしている事故後の福島。チェルノブイリ法は追加被曝線量年間一ミリシーベルトを基準に移住・避難・保養・医療検診が保障されている。会は郡山にチェルノブイリ法のような条例を作るための活動をしているという報告だった。
 三月四日に子ども脱被曝裁判があり、山下俊一が証言した。彼は事故直後に福島に来て講演し、年間一〇〇ミリシーベルト浴びても健康被害はないとか、水道水はセシウムがフィルターで取り除かれてゼロになるから安全だとかいって、住民を避難させないように誘導し、放射能はニコニコ笑っている人には来ませんと言って住民の被曝リスクを高めるデマを流した。
 山下は、今回の証言で発言に根拠がなかったことを認め、大きな誤解を招いたと言ったが、クライシス・コミュニケーションとして必要だったと正当化もしている。
 事故後九年で、二三七人の子供の甲状腺がんが発見されているのに、事故と甲状腺がんに因果関係を認めない国の態度と、御用学者として体現する山下を許すことができない。東京電力・福島県・国を訴える避難者損害賠償などの裁判が三〇件ほどある。
 交流集会は質疑応答後にサックスとチャンゴの演奏もまじえ、また終盤日本山妙法寺の若者らの一行も到着して閉会した。
 一二日は東京、福島、鹿児島からの参加者と、AWCの仲間によるスタディツアーだ。地元の方と黒田さんによる案内で、車に分乗して福島市内と飯舘・浪江地域を回った。
 3・11の事故後に放射線プルームが飛散し、帰還困難区域や避難指示区域になっている地域だ。県内の道路は「環境省除去土壌等運搬車」という緑の垂れ幕を付けて、大型ダンプがひっきりなしに通る。汚染土や焼却灰を運んでいて、一日あたり二千台にもなる。一台で一〇億ベクレルあるという。
 最初に行ったのは福島市内信夫山公園そばの人家に近いフレコンバッグの仮置場(集積場)だ。また、少し離れた信夫山展望台のそばにもかなり広い仮置場がある。クレーン車でフレコンバッグを何段にも積み上げる作業をしていた。街中でも、民家のわきに緑の除染土袋が置いてあり、移管してくれるのを待っている。
 昨年一〇月、台風が福島県を通過したときには、何袋ものフレコンバッグが阿武隈川に流れ出し、汚染廃棄物が外に出たという。
 福島市内から移動して飯舘村道の駅と飯舘村役場に行った。村おこしで飯舘電力を創業していて、ソーラーパネルがたくさん設置してある一方、農地には膨大な数のフレコンバッグが一帯に山積みされている。二〇一七年に双葉町と大熊町に建設された「中間貯蔵施設」に運びこまれているとはいえ、いまだ多くのフレコンバッグが放置されたままだ。一歩はいった森や山の除染は手つかずのままである。
 帰還者は村の人口の20%で、現役世代や子供がいる世帯は戻っていない。浪江の廃校の津島中学校では、線量計が鳴り3・4マイクロシーベルト/時間を指している。学校が閉鎖されていて、帰還困難区域だ。立ち入り禁止区域のため、ゲートがあってガードマンが立っている。この帰還困難区域を通過中は線量計は高い数値を出し警告音が鳴りっぱなしだった。
 つぎに浜通りの海岸に近い浪江町立請戸小学校へ行った。震災当時、小学校の生徒は山に逃げて、全員助かったそうだ。津波で校舎の一階部分は壁も流されて、当時の大破した状態のままだ。浪江は帰還困難地域として残るが、この辺りを含む海に近い一部は避難指示が解除された。しかし避難指示解除の基準は年間二〇ミリシーベルトであり、これは国際基準の二〇倍であり高すぎる。この辺も帰還率は5%だ。人がいない海岸で重機が堤防を再建する工事を続けていた。福島第一が遠くに見える。
 一三日はコミュタン福島を見学後、双葉町方面へ向かう。夜ノ森公園の桜並木に行ったが帰還困難区=立ち入り禁止区域なのでゲートが作られ、警備員が立っている。ゲートの隙間から桜のトンネルを見た。九年間不通になっていた浪江、双葉、大野、夜ノ森、富岡の駅を通る区間の常磐線が一四日全線開通するので、富岡駅には人がたくさんいた。駅の周辺は避難解除され特定復興再生拠点区域として点在していても、面積は帰還困難区域の一割にしかすぎない。
 オリンピックの聖火リレーの出発点になるJビレッジに行った。サポートランナーとして中学生たちが浪江を除く福島県全域をごく短い距離を走るという。安倍政権はオリンピックの聖火リレーで福島は復興した、原発はアンダーコントロールにあると再び宣伝しようとしている。
 しかし福島はオリンピックどころではない。福島の人々の命と生活は守られていない。原発被害を隠して、常磐線を全線開通させ、沿線地域が復興したように見せかけているにすぎない。沿線は線量の高い地域だ。避難指示区域の解除を進めているが、そんなところに人々は帰れるはずがない。


    
    

 

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