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3・27「韓国併合」100年を考える熊本県民の集い成功
今年は一九一〇年のいわゆる「韓国併合」朝鮮植民地化から百年となります。「韓国併合」百年市民ネットワークなど日本国内でも「併合」百年をふり返る運動が昨年から取り組まれています。
●@ 地域における闘いの積み重ね
熊本では、昨年九月に「安重根と熊本を考えるシンポジューム」が開かれ、百年前の安重根による伊藤博文射殺の後、獄中の安重根の通訳を務めた園木末喜という日本人が熊本出身である事が紹介されました。韓国独立記念館前館長の金三雄氏が安重根の唱えた「東洋平和論」について講演され、園木に宛てた安重根の遺墨「日韓交誼善作紹介」(日韓の親善のためにはよく知り合うことである)が安重根の日本人に宛てたメッセージであり、「東アジア共同体」が提唱される時代において、その意義はますます輝いていることを確認しました。
更に、昨年十月八日(一八九五年に起きた明成皇后(閔妃)殺害事件の命日)韓国の有名なミュージカル劇団による『ミュージカル明成皇后』の日本初公演が、二十一名の犯人を出した熊本で開かれました。事件の中心人物であった国友重章の孫に当たる方が謝罪の意志を示され、主演俳優に花束を贈りました。会場は超満員となり多くの市民たちがミュージカルを通じて事件の真相にふれることができました。
こうした積み重ねの上に、安重根処刑の日から百年に当たる三月二十七日、熊本大学で「韓国併合」百年を考える県民の集いが実行委によって開かれたのです。会場では「韓国併合」百年写真展も同時に開かれました。また「明成皇后を考える会」からは明成皇后墓参訪問の時に使う「絵凧(たこ)」五十枚が会場いっぱいに飾られ、華やかな雰囲気を添えていました。
集いは最初に熊本大学文学部教授で日韓の歴史や田中正造研究者として知られる小松裕さんの講演が行われました。小松さんは「韓国併合百年と熊本」と題して、西南の役直後から始まる熊本と朝鮮の関係について、敗戦期までをふり返りながら講演されました。まず一八九五年十月の「明成皇后殺害」に加担した民間人三十七名のうち二十一名が熊本県関係者であったという事情について話されました。
●Aなぜ熊本県民が明成皇后事件に関係したのか
西南戦争で西郷軍に加わった熊本の士族たち(国権主義派)は、その後佐々友房らを中心に政治結社紫冥会(しめいかい)を結成し、民権派と対決しつつ次第に勢力を拡大し、ついに県議会の多数派を確保しています(やがて熊本国権党と名乗る)。彼らは自分たちの学校と言論機関としての新聞社を作りました。彼らが建てた学校は「同心学舎」として出発、その後「済々黌」(せいせいこう)と改称(今日の県立済々黌高校の前身)。済々黌では創立当初から朝鮮語科と中国語科を設けたのでした。全国の中学校ではじめてのことでした。主権在君で凝り固まった国権主義を信奉する生徒を育成しようとする佐々らのねらいは、朝鮮や中国の獲得にあったようです。佐々らの指導で、済々黌の卒業生を中心にやがて朝鮮で新聞事業にとりかかり、日清戦争中に外務省機密費を使い「漢城新報」という和文、ハングルを併用した活字新聞をソウルで発行しています。この漢城新報社に集まった熊本の青年たちが明成皇后(閔妃)殺害事件に加担していったのです。事件が国際的に問題となることをおそれた日本政府は、犯人たちを帰国させ、広島で形ばかりの裁判にかけ、証拠不十分で免訴としたのです。その後事件に連座した熊本関係者たちは代議士となったり、新聞社の社長となるなど出世した人物も多く、事件への反省もないままに中央政界で侵略政策を進めたり「保守王国」熊本を支えたのです。
●B第六師団が義兵闘争鎮圧の中心的役割になう
講演ではいままで知られていなかったことも報告されました。日露戦争後の全朝鮮を巻き込んだ後期義兵闘争の鎮圧に、熊本の第六師団が中心的役割を果たしていたのです。一九〇七年から一九一〇年まで第六師団は朝鮮に駐留していたようです。日本側の調査でも、十四万千八百十五名の義兵が参加し、一万七千七百七十九名が死亡となっています。まさにこれは朝鮮人民と日本軍の戦争に他なりませんでした。
●C熊本の社会資本、鉄道やトンネルは朝鮮人が作った
熊本と鹿児島を結ぶ肥薩線(八代から球磨川沿いに人吉から鹿児島県の吉松へ通じる)の工事(一九〇七年から一九〇九年)では五百名の朝鮮人労働者が使われていたことがわかっています。その後熊本と大分を結ぶ豊肥線のトンネル工事、チッソや電力会社の発電所工事など社会的インフラ建設における朝鮮人労働者の貢献は計り知れないものがあります。これを仕切ったのが内鮮融和会などの団体で、鹿島組、間組、鉄道工業などのゼネコン企業に朝鮮人を斡旋しました。しかし出稼ぎに来た朝鮮人労働者は差別され、落盤事故などで多くの犠牲を出しています。
●Dチッソ興南工場は侵略企業
植民地支配の過程で熊本と深いつながりのあるのは、水俣病を引き起こしたチッソ(当時は日本窒素)による一九二七年以降始まる朝鮮興南(現在共和国の日本海側の地域)における巨大な化学コンビナート建設です。ダムや隧道建設、工場の作業で多数の朝鮮人・中国人労働者が犠牲になりました。多くの熊本県民が朝鮮窒素で従業員として働き、「植民地は天国だった」という言葉が残っているように、朝鮮人の犠牲と引き換えに植民地支配の恩恵を受けてきたのでした。水俣病を引き起こしたチッソの生産第一、人権無視の体質はこの時代に作られています。
●E加害者であった歴史的事実を直視せよ
日中戦争に突入し、やがて強制連行が始まり、熊本県下にも約四千人前後の人々が強制連行で連れてこられています。強制連行を受けた朝鮮人が県内のどこで働かされていたのかが正確に報告され、現在三井炭坑の万田坑(荒尾市)が世界遺産登録を目指していますが、朝鮮人強制連行の痕跡を消してはいけないことなど訴えられました。最後に小松さんは「韓国併合」百年に際し明治維新から敗戦までの日朝関係史をきちんと認識し、植民地支配をした事実を忘れてはいけない。更に事実として、加害者・抑圧者であったことを直視し、熊本の大地に数多くの朝鮮人労働者の血と汗と涙がしみこんでいることをしっかり記憶すべきだと訴えられました。
●F基調報告で植民地主義の克服訴える
質疑応答のあと実行委からの基調報告が読み上げられました。高校授業料無償化からの朝鮮学校排除や、「在特会」の朝鮮学校襲撃を見て見ぬふりをする日本社会の人権感覚のなさの根底にあるものは、植民地主義、つまり朝鮮人を劣った民族であると見る意識であると訴えられました。これは戦後の冷戦体制の下で日本人が植民地支配について反省する機会を遮断され、冷戦崩壊までそれが続いたことや、六五年の日韓条約は植民地支配について解決するものではなかったことなどが報告されました。「慰安婦」問題、教科書問題、竹島(独島)領有権問題、強制連行・強制労働、また朝鮮民主主義人民共和国との間では日朝平壌宣言が履行されず、日本政府による戦争動員を目的としたバッシングが強まっていて、なにも解決していないことが訴えられました。
報告者は「韓国併合」百年をきっかけにして、過去に向き合い、和解と共生に向けた議論を起こそうと訴えかけました。同時にすでに熊本から始まっている明成皇后事件の謝罪、韓国独立記念館での歴史研修などの取り組みの持つ先駆性について紹介しました。また「慰安婦」問題早期解決に向けた地方議会決議が三月末で二十議会に達したことも報告され、六月議会ではぜひ熊本県下の地方議会で決議をあげるよう呼びかけました。
多くの県民が参加した今回の集いを通じて、熊本が植民地支配の過程でどのような関わりをしたかその実態について、いままでほとんど知られていないことにも照明を当てる事ができ、反省の手がかりが見えてきました。熊本ではこれからも、和解と共生に向けたこのような取り組みを続けて参ります。
(熊本市民)
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