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■読者からの手紙
被爆地での反戦の取り組み
長崎を「最後の被爆地」に
●「広島ばかり陽が当たっている」?
現在福岡に住んでおりますが、この十年近く毎年八月六日、九日には広島と長崎双方に必ず行くようにしています。
親が長崎市出身で親戚がいることもあり、かつては毎年のように訪れていた長崎市と被爆の歴史は私にとって子供の頃から小さくない存在です。八月九日には長崎の祈念式典の様子をテレビで見ていました。「被爆地」と言えばそれは長崎のことでした。
大学に入って広島にも足を運ぶようになり、被爆二世の会の青空集会などにも参加するようになると、今度は広島のほうが自分の中での比重が大きくなり、長崎からやや足が遠のきました。そのときの認識は広島にせよ長崎にせよ同じ「被爆地」なのだからというもので、広島と長崎のどちらに足を運ぶかは、単純にその年ごとのスケジュール調整の問題となりました。
ところが十年ほど前。長崎出身の被爆三世の知人と話をした際に、「なぜ広島にばかり陽が当たるんだろう、同じ被爆地なのに」と少々愚痴っぽく言われたのです。長崎で生まれ育った者としては、原爆忌や広島に関しての報道を見ていてついつい出てしまう感想なのだと言います。そうなのかと他の長崎出身者に聞いてみたところ、「実際それは感じる」のだと。取るに足らないことなのかも知れませんが、「同じ被爆地」とは簡単に言えないのではなかろうか、とにわかに気になり始めました。事実長崎における八月九日の取り組みについても、あまり『戦旗』紙面を飾らなくなっていましたし。
それをきっかけに努めて長崎に足を運ぶようになってみると、なるほど、広島の八月六日との違いが、いくつか目に留まるようになって来ました。決定的だったのは四年前の八月九日に、爆心地公園で開かれていた市民集会に参加したかなり年配の女性の、「広島には何度も行ったけど、長崎には今年ようやく来れました」という発言を耳にしたことでした。長年にわたり熱心に反戦運動に取り組んで来たらしいその人にしてそうなのです。日本の「西の果て」である長崎が本州から見た場合にいかに遠い場所なのか、ずっと西日本にいるとなかなか実感の出来ない事実を見せつけられた気がしました。
ああこれではいけない!長崎にルーツを持つ者として、もっと長崎の運動や被爆者を勇気づけたい!と痛切に思いました。考えてみればそもそも福岡は県単位で見ればちょうど長崎と広島の中間地点、その気になればどちらにでも行けるのだから絶対両方に行ってやろう!とそのときに思いました。
●「オープンマイク」の開始
そうして三年前の長崎から「オープンマイク」を始めました。爆心地公園にマイクスタンドを立て、とにかく公園にいる誰でもいいからマイクアピールをしてもらおう、というものです。まだまだ日本国内ではなじみのないイベントですが、欧米ではよくあるそうです。
広島の平和公園もそうなのですが、原爆忌には実に多くの人が訪れています。そうした人たちが、お互いの思いを伝え合うこともなくただすれ違って行くのはあまりにももったいないのです。もちろん当日原水禁、原水協それぞれの大会は持たれてはいます。しかしそれらはいずれも屋内での取り組みであり、いかに多くの人がそれぞれの思いのもと被爆地を訪れているのか、目に見えるかたちで伝え合う機会はあまりにもないように思えます。
伊藤前市政のもとで行った、去年までの計三回は大変でした。始めたとたんに市の職員が飛んで来て、「許可を取っていないならやるな」と張り付いてうるさい。しかも聞いてみるとどのみち「爆心地公園については許可しない」と言います。爆心地公園一帯を「静かな祈りのゾーン」だと市の方で勝手に決めていて、許可は一年中、基本的にしないのだと。これには本当に腹が立って、猛然と抗議しました。「祈り方、追慕の仕方は民族的にも様々ある。勝手に『静かな祈り』を強制するのはおかしいだろう!そんなことで国際的な平和都市だなどと言えるか!」と。最初の年に文句をつけに来た職員はそれに対して逆切れしながら、自分も組合に所属していて平和活動もやっているんだ、と憤然としてみせていましたが、平和公園・爆心地公園についてのああした方針を批判できない市職の平和活動では……失礼ながらそりゃあ被爆地からの発信力も衰え、被爆体験が「風化」もすることだろうと思わされました。もっともその押し問答をメディアが取材してくれ、これまで市民集会を開き続けて来た地元の主催団体もそうした介入には抗議を続けたらしく、田上市政に変わって事実上最初のこの夏には、嘱託職員がひとこと声をかけに来ただけで、初めて何の規制もなくオープンマイクをやり通せました。
かくて今年の夏までに四回のオープンマイクを行い、手応えを感じています。「継続は力なり」です。今や、必ず発言をしに来てくれる常連さんまで出来ました。今年はなんとビラを一緒に配ってくれる人が現れ、市側が「音楽イベントも許可しない」と言い放っていたその爆心地公園で、マイクを立てての歌までがのびのびとやれたのです。
毎回、外国からの参加者も含めて二十組前後が発言してくれます。それを公園内の人たちが遠巻きにしつつ聴いている、というのが、今や原爆忌の爆心地公園の定番の風景になりつつある……というと言い過ぎでしょうか。実に様々な発言があり、原水禁と原水協、それぞれの大会参加者がエールの交換をするなど、この場所以外ではありえないだろう光景が見られるのが実に面白いし、意義を感じます。昨年は広島で青空集会開始前にも行い、長崎同様多くの発言が公園内に響きました。
●「最後の被爆地」であり続けるために!
広島に比して陽が当たらないように見える長崎。それにはいくつかの理由があると思います。
なんと言っても「最初のもの」には注目が集まりますが、「二番目」はそれに比べればどうしても注目されません。長崎は広島と比べれば被爆した被害者の数もはるかに少ないという問題もあります。映像的にも、広島の爆心地には今や世界遺産の原爆ドームがあるのに、長崎の爆心地にはインパクトのあるシンボルがない。「平和祈念像」のある平和公園を爆心地だと思っている『戦旗』読者もきっと多いことでしょう。式典会場も像の前ですから。
しかし、努めて足を運び始めて思うのです、あえていうなら広島よりも、長崎に集まって声を上げることの方が大事ではないのか、と。劣化ウラン弾であるとか、ウラン採掘であるとか、爆弾以外での被ばくの問題などはひとまず措くならば、少なくとも都市爆撃に原爆が使われたのは長崎が歴史上最後です。このことを少し重視したいと思います。広島は、今後(あってはならないことだけど)何発が落とされようとも「最初の被爆地」であり続けますが、長崎はもし「三発目」、「四発目」があればただちに、単なる「二番目の被爆地」になってしまいます。長崎が「最後の被爆地」であり続けようとすること、長崎を「最後の被爆地」にとどめ続けようとすることは、長崎にとってのみ意味があることでは当然にもありません。労働者人民にとって大きな意味を持つのです。
またこれも強調しておきたいのですが、長崎には市民の粘り強い、しかも高度なたたかいが存在します。原爆忌を前後して、連日のように何らかの取り組みを一連のものとして取り組む人々がいます。強制連行して来た中国・朝鮮人民との連帯の方途を探り続ける取り組みがあります。かつての軍都を引き継ぐ三菱造船という巨大な存在。そしてやや離れた位置には佐世保の基地、それらの重圧に抗する人々が、しかし列島の西端部にあってともすれば孤立感を強いられている。そうした人たちに、せめて八月九日くらい、連帯の意志を示したいものです。
そのためにも『戦旗』読者の皆さんにも長崎を訪れ、声を上げていただきたい。広島よりもはるかに遠いかもしれないけれど、単なる「二番目の被爆地」としてだけ長崎を見やらないでいただきたい。四年前からずっと、「長崎で会おう!」という旗を持って広島に行っています。沈黙に等しい「祈り」ではなく、怒りの声を上げるために長崎に集まりましょう。「ここが最後の被爆地なのだ」と思い定めて。
●北九州での「10・14一斉行動」の取り組み
さて、さる十月十四日には、「軍事基地と女性ネットワーク」の呼びかけで一斉行動が各地で取り組まれました。岩国基地所属の海兵隊員四人による、広島での強かん事件からちょうど一年。広島地検は被害女性の証言に「あいまい」だと難癖をつけて犯人を起訴しませんでした。その後、「綱紀粛正に努めている」ということをアピールするためだけに行われた米軍事法廷は彼らを強かんの罪には問わず、きわめて軽い刑罰を科してそしてこともあろうに犯人たちの何人かはこの日に自由の身になるという。
私たちも呼びかけに共感し、北九州の小倉駅前に集まりました。
ろうそくが風でも消えないように工夫をした上で、プラカードを持ち寄り駅前に立ちました。駅の警備員がうるさく、何かと文句を言って来るのがここなのですが、この日ばかりは一喝して寄せ付けず。参加者はのべで九名。学生さんら若者が肉声でアピールを続けてくれました。言いたいことはおおかたプラカードに書いたので黙っているのもいいかな、と考えていましたが、彼らの声を聞いていると自分がさぼっているように思えて来てしまい、地検や米軍、そして折しも特殊部隊の養成過程で集団暴行死が発覚した自衛隊をも、あらん限りに罵倒しました。「奴らが守るのは奴らの平和でしかない!」
この日のトピックは、プラカードを立ち止まってじーっと読んでいた男性が一人声をかけて来て、全国で、しかも広島でも岩国でも取り組んでいる、と分かるとびっくりするほど多額のカンパをぽん、と出してくれたことです。カンパ呼びかけなどしていたわけでもなかったので、これには本当に驚きました。それは十一月岩国集会の運営費用に充てることにします。
午後五時前から、およそ三時間。充足感、満足感をもって取り組みを終えました。また何かあれば、ここで同様に取り組める、という手応えも感じました。
(福岡在住者)
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