共産主義者同盟(統一委員会)
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■寄稿―KMU国際労働者連帯ミッションに参加して/アロヨ政権の国家テロに抗して闘うフィリピン労働者に連帯を★ フィリピンの労働者・農民をはじめとする人民運動は、いまアロヨ政権の国家テロに対して全力で立ち向かっている。アロヨ大統領はさる二月、突如として「国家非常事態宣言」を発した。それは一週間で解除することを余儀なくされたが、以降も国家テロル=実質的な軍隊と警察による支配が続いている。アナクパウイス党(勤労人民党)のベルトラン下院議員は国家反逆罪の容疑をデッチあげられて拘留されたままである。他の人民組織出身の五人の左派議員も同罪で起訴され、逮捕を避けて二ヵ月以上も国会での篭城を強いられた。ようやく五月六日に裁判所が起訴を却下して篭城を解いたが、政府はただちに彼らを再起訴した。こうした事態は氷山の一角にすぎず、地方においては軍隊と警察、これらによって組織され援助されている暴力団が大衆運動を攻撃し続けている。人権団体の調査では、アロヨが二〇〇一年に大統領に就任してから六年間に六百人以上の大衆運動関係者が殺害・拉致され、もしくは行方不明になっている。昨年は年間二百人とマルコス独裁以降最悪を記録し、今年になってからもすでに五十人が犠牲となっている。このほかに殺人未遂、誘拐、逮捕、労働争議弾圧、脅迫、尾行などが日常茶飯事に行なわれている。 このような状況のなかで、フィリピンの左派ナショナルセンターであるKMUが毎年開いてきた国際連帯行動(ISA)は、今年は激しい全戦線にわたる弾圧を跳ね返すために、その前半部分は国際労働者連帯ミッション(ILSM)として行われた。それはKMU、労働教育研究機関EILER、教員団体ACT、人権団体KARAPATAN、労組人権センターCTUHRで事務局を構成し、総力をかけて準備された。ILSMには海外の十三ヵ国・地域から約三十名が参加した。以下は日本から参加したAさんからの寄稿である。 ●視察・調査のため弾圧の犠牲者・家族を訪問★ 五月一日に、マニラでKMU主催の中央メーデーに参加した。炎天下での四時間の集会に数万人が結集し、労組、農民団体、学生・青年・女性・市民団体などの友好団体がアピールを行った。発言者たちは共通して、石油の値上げがもたらすインフレのなかでの全国一律一二五ペソの賃上げを訴え、活動家暗殺・実質戒厳令支配を弾劾しアロヨ大統領の即時退陣をかちとるなどの決意を表明した。今年は毎年熱烈なアピールを行っていたベルトランKMU前議長が不当拘留のためにはじめて不参加となった。また、アロヨ退陣運動の共闘関係を反映してギンゴーナ前副大統領が連帯のあいさつを行った。集会後、労働者の大部隊は大統領官邸近くまでデモを行い、警察の阻止線と対峙し集会を貫徹した。そもそもアロヨは「国軍の右翼と五人の国会議員をふくむ左翼が共謀し、メーデーを期して政権打倒のクーデターを行う」という奇想天外なストーリーをデッチあげて国家反逆罪の弾圧の口実にしていた。メーデー前段からこのストーリーにもとづいて恐怖を煽り、最大限の警備体制をひく茶番を演じたのである。 メーデー後に五日間の日程で、行き先別に四グループ(中部ルソン、南タガログ、ネグロス、南ミンダナオ)に分かれ、地方の人権状況視察・調査を行った。調査団の位置づけは、民衆運動の最大の試練に際し、@犠牲者の家族を孤立させず激励し、Aフィリピン国内の運動全体を組織して認識と反撃を共有化し、Bフィリピン国内のマスメディア、人権機関、行政に問題の重大性・緊急性をアピールして社会問題化し、C国際的な関心を高めアロヨ政権への国際的な圧力を強化していく、というものであった。 私が訪れた南タガログ地方は、日本のODAで建設されたカラバルゾン工業団地のある地域で、労働運動、農民運動の盛んな地域である。そうであるがゆえに資本家、地方政府、軍隊、警察による激しい弾圧の標的になっており、二〇〇一年以降、この地方だけですでに六人の活動家が殺害されている。調査団は海外参加者、フィリピンの各組織からの参加者、そして地元南タガログの参加者など計三十人以上の大所帯であり、これに屈強な若者数人が防衛隊として付き添った。犠牲者の家族に会いにいくだけでも軍のチェックポイント、警察の監視やいやがらせが予想され、そうした妨害から活動を防衛するためである。地元からの参加者は運動・組織のリーダーだけでなく、若い学生グループも参加していた。南タガログ地方の運動体は総力で今回の行動に対応していた。 調査団は四日間、「労働者の命と生活権を守ろう。犯人を処罰せよ」というスローガンを車体の両側に大書したジープ三台に分乗して動きまわり、被害者および犠牲者の家族と五つのインタビューをおこない、知事・市長への訪問を三度行った。 ●労組活動家等が相次いで射殺されている状況★ そのなかで印象深かったのは被害者ジェリー氏を病院に見舞ったことである。 彼は四月二十八日朝、車で出勤途中に襲われた。左側の車が進路をさえぎり、顔を隠した一人の男が降りてきて突然彼に発砲してきた。重傷を負いながらも彼自身も護身用の銃をもっておりそれで反撃した。それまで彼は何度も死の脅迫をうけていたのである。その加害者も負傷し同じ病院に運ばれた後に死亡した。その後、地元の警察が、「死んだのは警察官であった」と公表し、あろうことか「ジェリーが警官の車を待ち伏せ襲撃し殺害した」とデッチあげてジェリー氏を起訴した。いまも病室の外では三名の私服警官が見張っている。 ジェリー氏はカビテ州にある日系資本の工場の活動家である。またこのカビテ地方の地域労働センターであるSCW(カビテ労働者の連帯)の活動家である。ここには八千人の労働者が働いている。たたかう組合を資本が敵視し潰したために、労組は今は御用組合になっている。御用幹部、資本、地方政府が連携して「ノーユニオン、ノーストライキ」を標榜し、工場内から労働者の居住地区までをも抑圧している。すべてのたたかう活動家が尾行されている。四月二十八日はSCWとしてカビテ州知事に面会に行き、度重なる労働争議への介入に抗議をする予定日であった、という。 もうひとつの例は、昨年九月に暗殺されたネスレ労組委員長フォルツナ氏の家をたずねたことである。彼は一九九〇年凶弾に倒れたネスレ労組の前委員長の後任をひきうけ、新委員長として二〇〇二年からはじまった労働争議―退職金要求に端を発するストライキの先頭にたってきた。また、地域においてもKMUの地区労組会議PAMANTIKの委員長であり、OLALIA労組の委員長でもある。政治活動においてはアナクパウイス党(勤労人民党)の地域支部委員長でもあった。多忙なスケジュールをかかえ彼はバイクでネスレ工場の正面に設置したストのピケットラインを拠点に地域を走りまわっていた。事件の当日九月二二日夕方五時すぎ、彼はピケットから帰宅途中の路上でバイクにのった二人組の男に襲われ射殺された。事件の前兆はあった。二〇〇三年ころから何度も家の近くとピケットの近所をバイクにのった男と女がうろついていた。また、この居住区の一軒は女性警官の所有名義になっており、そこに事件一ヵ月まえから自称国家警察の訓練生であるという七人の男が住みこんでいたという。 ネスレ工場前のピケットラインは、数年前までは工場正門横の塀にそって国道との狭い空間にテントをはったものであった。しかし、その後、何度も軍・警察の襲撃にあって結局撤去された。跡地には妨害のために大きなコンテナーが並べおかれていた。ピケットはいまは正門から国道を隔てて真向かいの民家の一角にあり、常時二十人くらいがここに詰めている。四年ごしの長い、そして正門での権力との激突をくりかえした激しい争議であるが、組合員は家族ぐるみで闘っており意気軒昂であった。このピケットがこの地域全体の労働運動の支えとなっている。向かいの工場の高い建物の数ヵ所に、国道とピケラインを一望する視野三六〇度の監視カメラが設置され、組合の動向を監視している。また、ピケットライン直近の電柱の上には高性能の集音マイクが設置され、それはマニラのマカティにある本社と直結されている。工場の門は正門以外すべて閉鎖され、正門も三重になっている。夜の電光が正門付近だけを照らし出し、工場全体はさながら闇のなかの巨大な要塞であった。 ●警察・軍・政府・多国籍企業が一体となった弾圧★ 各地方にでかけての調査・面談の結果、次のようないくつかの感想、結論、提起がなされた。列挙する。 第一。ほとんどの殺害・犯行が偶発ではなく、軍・警察の関係者の手によって組織的・計画的に行われている。犠牲者の多くは家の近くで殺害され、事前に脅迫をうけ、下見をされている。犯人は皆短髪であり、犯行には軍・警察が使用する銃が使われている。仮に軍・警察が直接手をくだしていないケースがあるとしても、軍・警察の承認、支持、援助がないと実行できない。犯行後の警察の到着は遅く、捜査は放置され、犯人はまったく逮捕されていない。それどころか、犯人がわかっていても放置されている。警察はお金をやらないと事件の調査もしてくれないとの声もあった。 第二。警察制度・司法制度は腐敗し信頼できないものになっている。法を無視した違法弾圧、系統的な弾圧である。政府を批判するだけでテロリスト、国家反逆者と規定される。もはや国家によるテロリズムだ。国家テロは本人や家族のみを犠牲にするだけでなく、その周囲の人たちをも抑圧する。政府が証言者を守らないために、事件に関わると殺されるという恐怖があり、近所の人や目撃者も後の報復を恐れて証言しない。 第三。これらの殺人はまったく政府の責任であり、政府にそれを要求している多国籍資本の責任である。驚くべきことに、何百人も殺害されているのに政府は見て見ぬふりをして一片の声明も出していない。問題を地方政府に訴えても取り上げてくれない。調査期間中の知事・市長への面接要求はすべて秘書による形式的対応でお茶を濁された。「軍は中央政府のもとにあり地方では手がだせない」という口実で地方政府は事件を放置する。実際のところは、地方政府の幹部はその地方の資本家、警察、軍と深くつながっており、労働組合の合法的な活動をも敵視している。 第四。政治的殺人攻撃の背後には、労組・労働運動への激しい敵視政策と弾圧がある。賃上げ要求での組合活動にたいしても軍がやってきて恫喝・弾圧する。口実は、この組合はCPP(フィリピン共産党)―NPA(新人民軍)とつながっているというもので、KMU系の組合であることが弾圧の理由となっている。KMUの労組に悪魔のレッテルをはり悪宣伝を行う。軍隊による労組活動・労働争議への介入を禁止するべきだ。激しい弾圧は、フィリピン人民の生活苦と厳しい現状を暴力的に強制し永続化させるためのものだ。 第五。フィリピンのこの恐るべき弾圧は他人事ではなく、放置すれば全世界の労働者の明日の運命となる。全力で世界的に問題にしよう。今年十一月十六日(ルイシタ農園での虐殺記念日)にこの問題で国際統一行動をやることを呼びかける。各国でこのフィリピンの人権状況の情報を広め、人権団体をふくめて集会を組織し、そこにフィリピンから人を呼んで話をするなどの取り組みを行おう。フィリピン政府の在外公館への働きかけや、それぞれの国の政府の対フィリピン政策への働きかけを行おう。 ●事実と真実を全世界に、日本の地で応える闘いを★ 調査活動を終えた海外からの参加者は、ハートセンターという心臓病専門の病院に拘留されているベルトラン前KMU議長との面会を行った。数年前に脳卒中の発作をおこしたベルトラン氏はこの一室で治療をうけているが、起訴されて拘留中の身である。病室の前には数名の国家警察が監視し、面会も制約されている。三名ずつ三分間という条件で面会を許された。狭い病室であったが、ベルトラン氏は想像していたよりも顔色もよく、面会者の方が逆に激励された。 最終日の午前、全員でケソン市の英雄記念広場に行き、アロヨ政権下で殺害された犠牲者の追悼式に参加した。この広場はマルコス独裁下で民主主義のためにたたかい犠牲になった人々を記念するもので、広場の正面には大きな英雄記念碑が建立されている。「自由と正義と真実のために尊い命をさしだした殉教者と英雄の碑」と命名されたこの碑には、二百名ほどの名前が刻まれていた。しかしこれとて比較的著名な人の名前だけである。この時代に草の根でたたかい命を奪われた労農人民の数はこの数倍にのぼるという。 式では、犠牲者の家族、労組の代表、海外参加者がそれぞれ短い言葉をのべ、献花を行った。ルイシタ農園で労組委員長をつとめていた弟が射殺されたロミー・ラモス氏は、「多くの労働者農民の命を奪ってきたパルパラン将軍の指示で弟は頭部をうちぬかれ、脳髄が飛び散った状態で殺害された。犯人はつかまっていない。軍は自分が殺しておきながら、NPAが殺したと言っている。許せない。たとえ自分の命が奪われようとも、弟を殺した責任を徹底して追及する」と発言した。 その後、ケソン市の芸術会館でILSMの大衆的な報告集会がもたれた。これには犠牲者の遺族、人権団体関係者、労働組合、バヤンなどの運動団体、マスコミ関係者など全部で五百人ぐらいが参加した。映像・音楽をまじえて、一週間にわたるILSMの活動、各地方における人権侵害状況の調査・活動の報告が行われた。そしてこのなかで、フィリピンの運動・組織の側の認識と決意が次のような趣旨でうちだされた。「一連の激しい弾圧は、人民にたたかいをやめろという敵の恫喝である。アロヨ政権はたたかいの持続に恐怖し、支配階級のなかですら孤立を深めている。弾圧がその反映であることを人民は正しく見抜いている。人民がこれに屈することは決してない。より以上のたたかいをもって応える決意をしている」「この弾圧をフィリピン国内だけの視野でとらえるのでなく、米日をはじめとする帝国主義と多国籍企業に従属するフィリピンの政治経済構造の結果としてとらえねばならない。フィリピンの人民は、みずからのたたかいを世界人民の反帝国主義のたたかいと共同行動の前進とむすびつけて発展させようと決意している」。 こうしたフィリピンの労働者のたたかいと決意に、わたしたちも日本の地で全力で応えていかなければならない。 |
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