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■フィデル・アグカオイリ同志(NDFP)の 逝去を追悼する 日比革命運動連帯のさらなる前進を 国際部 フィリピン民族民主戦線(NDFP)で、このかんドゥテルテ政権との間の和平交渉に関するNDFP側代表を務めてきたフィデル・アグカオイリ同志が、さる七月二三日にオランダのユトレヒトで逝去された。七五歳であった。死因は肺動脈瘤の破裂によるものとのことである。直前まで活発に活動していただけに、その急逝が惜しまれる。 フィデル同志はフィリピン共産党(CPP)創設以来の一貫した指導的党員であった。CPP中央委員会の追悼声明によれば、一九六〇年代初めに学生運動に参加したフィデル同志は、「第1四半期の嵐」と呼ばれる六〇年代後半のフィリピン学生運動の高揚を同世代の青年たちと共に切り拓いた。その闘いを背景にした一九六八年のCPP結成の後、フィデル同志は七〇年に中央委員に選出され、以降、自らに対するフィリピン国家権力の弾圧に打ち克ちつつ、様々な分野でフィリピン革命運動の前進をけん引してきた。 一九七四年に不当逮捕されたフィデル同志は、以降エドサ革命直前の一九八五年まで一一年間の獄中生活を強いられた。彼はマルコス独裁政権下のフィリピンで最も長期間にわたって投獄された政治囚となった。獄中での肉体的・精神的な拷問も、労働者・貧農の大義への献身というフィデル同志の確信を揺るがすことはなかった。 長期投獄からの解放を勝ち取った後、フィデル同志はただちに広範な労働者・貧農のなかでの活動を開始し、同時に政治囚の釈放要求運動の組織化の先頭に立った。しかし、エドサ革命の直後から始まった反動の中で、一九八八年にはヨーロッパへの事実上の亡命を余儀なくされた。そのような困難の中でもフィデル同志は自らの活動を継続・発展させ、在外フィリピン人の組織化と組織建設、世界各地の共産主義党との連帯関係の構築、反帝国主義国際共同闘争と国際共産主義運動の前進などの領域において大きな役割を発揮してきた。 フィデル同志は、われわれにとってもとてもなじみの深いフィリピン人同志の一人であった。というのもフィデル同志は、とりわけ一九八〇年代後半から九〇年代前半にかけて、日比の革命運動・反帝国主義闘争の連帯関係が確立されていく過程で、フィリピンの側からそれに重要な貢献を果たした同志の一人であったからである。 われわれは当時、自らの路線的・実践的な飛躍をかけて、プロレタリア国際主義を単なる立場やスローガンの問題ではなく、具体的な実践の問題へと転化するために苦闘していた。そうした中で出会ったフィデル同志との数多くの討論と共同実践は、われわれにとっての貴重な教訓として今日でもあり続けている。フィデル同志はまた、アジア太平洋地域における反帝国際共同闘争とそのネットワークの創出にも極めて重要な役割を果たした。 フィデル同志の七六歳の誕生日を祝う日となるはずであった八月八日には、フィリピンと世界各地で彼の急逝に対する追悼集会が、オンライン行事を含めて様々な形で行われている。 獄中での過酷な経験が信じられないほど、フィデル同志は穏やかで、ジョークが好きな、おのずと人の心を温めるような人柄の持ち主だった。その一方で、鋭い政治的な分析の上に、自らの率直な意見を提起する人であった。また、晩年も日本の政治情勢や民衆運動の状況に関心を持っていた。そうしたことを今、懐かしく思い出す。 日比革命運動連帯のさらなる前進と国際共産主義運動の歴史的な飛躍の実現への決意を明らかにすることで、フィデル同志の急逝に対する追悼としたい。 |
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