共産主義者同盟(統一委員会)






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   美杉同志の急逝を悼む

  
     共産主義者同盟(統一委員会)政治局



 美杉司同志(本名:山本光二)が六月二四日朝、急逝した。六七歳だった。
 同月一四日から肺炎のため入院していた。本人からの連絡もあり、二週間ほどの入院で退院するものと伝えられていた。しかし、二四日朝に容態が急変し、突然帰らぬ人となった。
 美杉同志は入院の直前まで編集局の会議に参加していた。数年前から、呼吸器官の病気に感染することはたびたびあったが、体が動く限り編集局の仕事を続けるという本人の強い意思があり、会議に参加していた。
 われわれ共産主義者同盟(統一委員会)は、日本におけるプロレタリア革命を最先頭で切り拓き、戦旗派―統一委員会を貫いて政治局員であり、革命的労働者党建設を最期まで担ってきた革命家を失った。この悲しみと悔しさは、言葉に表すことができない。同志の足跡をたどりつつ、追悼の言葉をさがしていく。

 ●1章 労働者階級人民とともに

 美杉同志は一九五一年の生まれで、武蔵大学在学中に学生運動に参加した。七〇年、まだ分裂する前の共産主義者同盟(戦旗派)の時代に、日本反帝戦線のメンバーとして共産主義運動と党活動を開始した。
 一九七〇年代、学生戦線にあった美杉同志は街頭闘争の現場で闘いぬいた。七二年の相模原戦車輸送阻止闘争では現地闘争の責任者としていち早くテントに赴き、ビラをまき、座り込みを闘った。人民の怒りを体現する学生の闘いに対して、当時は多くの人々が差し入れをしてくれた。
 七五年の沖縄海洋博粉砕決戦に際しては、学生部隊の指導部として沖縄現地に入って闘った。ひめゆり・白銀戦闘と一体に展開された学生・労働者部隊の沖縄現地闘争ではその総指揮を美杉同志が務めた。美杉同志は、ひめゆり・白銀闘争を前後する期間、沖縄現地において、沖縄戦の聞き書きをし、沖縄人民の戦争に対する怒り、天皇に対する怒りを受け止めていく地道な活動を行なっている。沖縄では、ひめゆり・白銀闘争後には、多くの人々が「よくやった」と声をかけてくれ、たくさんのカンパを寄せてくれた。ひめゆり・白銀戦士をはじめとして闘争で逮捕された同志たちは、看守や刑務官から、「本土」ではありえない厚遇を受けた。
 美杉同志は、被弾圧者の救援活動を含め、沖縄現地での活動を先頭で担った。闘争の後も沖縄現地での活動を継続し、沖縄人民と交流を深めた。現在におよぶ沖縄解放闘争の実践的蓄積がなされた。この当時の沖縄での活動と経験は、労働者人民に対する美杉同志の思想、思考の根幹となっている。
 その後、七〇年代後半から八〇年代にかけて、全国の学生戦線指導を担い、また労働者地区党指導も担った。九州・山口での地区党指導を数年間担ったこともあった。八六年以降の党組織の再編で、美杉同志は書記局、編集局を担うことになった。
 また、一九九九年に設立された「アソシエ21」には、設立当初から事務局に参加していた。「アソシエ21」が開催していた講座に関しても、その実務を担っていた。
 二〇〇四年の全国委員会と、戦旗派の統合に際しては、政治局員としてその活動を進めた。統合後の統一委員会は改めて機関紙を『戦旗』とし、美杉同志が編集長を務めた。共産主義者同盟の継続した機関紙として『戦旗』を発行し、かつ、組織統合後の政治内容、党組織活動の一致をはかるべく、論文内容をめぐる党内論議は行なわれてきた。この論議は、編集局を軸にしてなされ、また、政治局・中央委員会に提示する形でも行なわれてきた。
 美杉同志は、六年前の第三回大会に際して、身体的な理由から中央委員―政治局員の活動が困難であることを明らかにし、自ら辞することを明らかにした。しかし、『戦旗』『共産主義』の編集・発行に関しては最後までたずさわるという強い意思があり、編集局長を辞した上でも編集局を継続した。編集局員としての活動に最後までこだわった。

 ●2章 マルクス・レーニン主義の最前衛

 美杉同志は、沖縄解放闘争をはじめとする実践を最先頭で担うと同時に、学生戦線指導部、編集局長、書記局長として、党の理論戦線における共産主義者の任務を最先頭で担ってきた。
 その理論活動は中心的なものだけを取り上げても、沖縄解放闘争、民族・植民地問題、党建設、現代帝国主義論とそれに基づく世界情勢分析・国内情勢分析、資本論研究と多岐にわたった。それ以外に、3・11福島原発事故以前において反原発の論評を先駆的に執筆していた。『戦旗』の数多くの論文、論評が、美杉同志の筆によってなされてきた。
 美杉同志がとくに強くこだわったことは、レーニンの民族・植民地問題の内容をしっかりと押さえた上で、現代の日本帝国主義の下にあって、差別・抑圧問題、沖縄と「本土」の問題、入管闘争など、日本労働者階級人民に問われる課題を深刻に掘り下げていくことであった。それは、沖縄解放闘争をはじめとして、学生戦線時代からの実践、経験に裏打ちされたものであった。
 それぞれの個別課題に対して真剣な態度で向かうとともに、レーニン主義の真髄ともいえる民族・植民地問題の内容を現代において捉えなおそうとした労作が、『戦旗』第六六九号(一九九四年二月五日)から第七二九号(九六年九月五日)まで一三回にわたって連載された大部の論文「アジア諸国人民との一層の団結めざしレーニン民族・植民地理論で武装せよ」(筆名:夏目次郎)であった。
 現代帝国主義論分析においては、マルクス資本論、レーニン帝国主義論を基本としながら、宇野派、廣松派をはじめとする、スターリン主義とは分岐した現代のマルクス主義経済学の論争に通じた上で、現代資本主義―帝国主義の分析を行ない、また、スターリン主義圏についての情勢分析も深めていた。とりわけ、戦後の米国を基軸通貨国―中心国とした現代帝国主義世界支配体制を大きく転換させる事態となった七四―七五年恐慌について分析し、その歴史的位置を明確にしたことの意義は大きい。また、美杉同志は、帝国主義論を基礎としつつ現代帝国主義の資本輸出に関しての研究を、グローバリゼーション論議よりずっと以前の八〇年代から深めていた。これらの論述が、われわれが現代帝国主義を論ずる基礎となっている。
 九〇年・九一年に東欧圏、ソ連邦が解体し、「資本主義の勝利」が喧伝されマルクス主義が廃れたように扱われる言論状況に対して、美杉同志は改めてマルクス主義の意義を打ち出すことを理論闘争における重要な課題としていた。上の「レーニン民族・植民地問題」の論文の後、九〇年代後半には、「レーニン『カール・マルクス』の革命的意義を学ぼう」と題した長期の連載を開始した。この連載論文においてはレーニン『カール・マルクス』の解説という範疇を越えて、資本論そのものの論議として深化し、価値形態論において宇野を超えることが目指されていた。しかし、この連載途中で闘病を繰り返し、執筆は中断されたままとなった。資本論研究、原理論のレベルでスターリン主義と対決する闘いが未完となったことは悔やまれる。

 ●3章 生涯実践し学び続けること

 共産主義者として生涯学習し、理論活動を重視すべきことを強く主張していた。
 七〇年代末に戦旗派・日本反帝戦線は理論機関紙『反帝戦線』を創刊している。当時の反帝戦線・中央書記局は、この創刊号に「イデオロギー活動と理論学習の強化のために――指定文献――」と題した文章を掲載している。この指定文献は美杉同志が執筆したものだが、現在の学生・青年からは「とても読み切れない」との声も上がっている。指定された基本文献は多岐に亘り、その量が多いからである。
 しかし、領域ごとに整理され、順をおって学習するための指針であることを見るべきである。
 美杉同志は、学生活動家だったころ、ゆっくり学習する時間などなく、闘争現場から闘争現場に向かう途中の電車内で文庫本を読んだのだと話していた。労働者人民の中でともに闘い、そこで経験をともにして、学んできた。しかし同時に、闘争を総括し、次の闘いへと向かう道を明らかにすること、それが共産主義者の任務だという強烈な自覚が美杉同志にはあった。
 共産主義者は常に学び続けるのだということを、新たに結集した若者たちに強く確認しようとしていたのであろう。それは、美杉同志自身の生涯を通した営みでもあった。その死の直前まで本をはなすことはなかった。新しい書籍や新しい論議に常に関心を持ち、他の同志に刺激的な論議を向ける姿勢は、最期まで変わらなかった。共産主義者たらんとする者は、理論活動に対するこのような執着、主体的姿勢が問われる、ということを、自ら身をもって示していた。

 ●4章 編集局長の遺したもの

 美杉同志がわれわれに残した理論的遺産は、その目指した内容ゆえに、膨大であり、歴史的論争に基づいた長文で難解なものも多い。しかし、美杉同志本人は決して書物の中に埋もれていたわけではない。入院直前の会議においても、現在の沖縄闘争がどう進むかを気にかけ、反天皇闘争に向けた自身の見解に語気を強めていた。
 プロレタリア革命運動の核心となるべき理論活動としての編集局活動、とりわけ、『戦旗』の編集―発行に対して強い執念をもっていた。残されたわれわれは、革命家、共産主義者として、このような生き方に学ばなければならない。
 その本人の意思を尊重して明らかにしておくならば、美杉同志は『戦旗』小型化に最後まで反対であった。共産主義者同盟の機関紙としての『戦旗』に美杉同志なりの強い思い入れがあったとは思う。しかし、美杉同志はそのようなノスタルジーで反対していたのではなかった。美杉同志が強く主張したことは、機関紙活動の充実として論議されるべきことは、革命的労働者党の全国政治新聞としての充実と、機関紙を軸にした組織建設、その報告と総括の論議であって、紙面の大小ではないだろう、ということだった。機関紙活動の論議が「機関紙の小型化」というだけの論議に流れることを強く戒めるものだった。
 美杉同志の遺志を引き継ぐことは簡単ではない。
 美杉同志が遺してくれた多くの経験と言葉、そして膨大な理論活動の遺産は、われわれに今一度、考えることを問うている。労働者階級人民と革命党について、プロレタリア革命について、党建設について、機関紙活動について、真剣に考え、取り組むことが厳しく問われている。
 美杉同志の言葉を一つひとつ思い出し、その急逝を、深い悲しみを抱きながら追悼する。
 われわれは今あらためて、この困難な任務を引き継ぐ決意を固めていく。



 

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