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   上原成信氏の逝去を悼む

        
沖縄解放委員会(準)



 十月二十五日、沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックの元代表の上原成信さんが亡くなられた。九十歳であった。上原さんは九月に体調を崩されたが、それまでは辺野古ゲート前の座り込みをはじめ、軍用地強制使用の公開審理など、体が続く限り現場のたたかいにはせ参じていた。
 上原さんは沖縄戦の直前に「本土」に移住し、旧電電公社に勤め、そこで労働運動を取り組んだ。また、東京沖縄県人会の結成に参加し沖縄返還運動に関わった。そこで同県人会の役員をしながら、同県人会青年部への働きかけなど沖縄青年たちともよく関係をもっていた。八三年には沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックの結成にかかわり、代表世話人の一人に就任した。その一方では、白保空港建設反対運動や知花昌一さんの「日の丸」焼き捨て裁判支援運動の中心メンバーとしても活躍された。高齢となり同関東ブロック代表の役職を後進に引き継いだ後、辺野古ゲート前での座り込みへの結集が全国に呼びかけられた頃に、上原さんは自分の役割は辺野古に座り込むことだと決意して沖縄に帰っていった。沖縄でも一坪反戦地主会の顧問となり、沖縄での反戦反基地運動に引き続き参加していた。
 上原さんは八〇年代から最近まで「本土」東京における沖縄反戦反基地運動をけん引してきた沖縄人の中心的な存在であったと言えるだろう。同時に政府要請行動などで東京に来る沖縄の人たちを支援し、沖縄の訴えに応じて行動してきたことで、沖縄でも知られた存在であった。
 ここで上原さんの特徴ある人柄について書いておこう。自分がどうするのかという姿勢で常に考え行動する人であったから、政府官僚や警察に対する追及は鋭く厳しいものだった。しかし、それだけではなく、ともにたたかう仲間に対しても真剣で厳しい問いかけを行なう人であった。「かまじさー」(ウチナー口で、不愛想な人の意味)と言われた所以である。しかし、その厳しさ、孤高の人であるからこそ、率直で意気投合するところもあり、彼の発言、行動に多くの人が引き付けられていた。
 沖縄のために、とくに晩年は分け隔てなくいろいろなところで訴えていた。わが統一委員会に対しても、統合前の旧戦旗派時代の政治集会で快く発言をしてくださった。上原氏は決して組織者でもなくアジテーターでもなかった。しかし、その時々の状況で自分が感じたことを率直に話された。その感性が皆に伝わり、多くの共感を呼んでいた。
 最後に、上原さんの大事な言葉を引用しておこう。二〇〇四年四月十九日未明、沖縄防衛局が辺野古漁港で作業ヤードに着手したことに対して体を張って阻止し座り込みが始まったときである。「(前略)今動かないで、いつ動くか。自分が動かないで、誰を当てにするか。私は悔いを残さないように、いま精一杯に動いて座り込み支援のカンパを呼びかけている」。一人ひとり、あらゆる行動の指針とも言える言葉だ。上原さんには「遺志を引き継いで」などという言葉は似合わないであろう。上原さんの決意に満ちた言葉を肝に銘じて、自らたたかいぬこう。


 

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