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■安倍政権による教育の戦争化を阻止しよう 教育勅語の復活―道徳教科化を許すな 現在、安倍極右政権は、戦争遂行国家体制構築のために教育現場への介入を進めている。「日の丸・君が代」強制はもとより、道徳の教科化、「武道」としての銃剣道導入、さらには教育勅語の復活をあからさまに狙っている。通称「森友学園問題」と呼ばれる問題の本質は、教育勅語を暗唱させ、韓国・中国への敵対を露骨にしたヘイトスピーチを子どもたちに強要する学園の教育内容にあり、この教育を安倍をはじめとする右翼議員が賛同していたということだ。すなわち、教育勅語―差別排外主義教育が保守政治家の賛同を得て公然と行われていたということが問題の本質なのだ。 時代は明らかに「教え子を戦場に送るな」という、かつて日教組が高々と掲げていたスローガンの復権を求めている。われわれは、教育の戦争化と断固として闘う教育労働者や市民と連帯し、安倍政権による教育の戦争化政策とたたかっていこうではないか。青年を戦場に送るな! 反戦運動の課題として教育勅語復活を粉砕していこう! ●1 安倍政権の欺瞞を許すな 三月三十一日、安倍政権は民進党の質問に答える形で、「戦前の教育の基本理念を示した教育勅語を学校で取り扱うことに関し…『憲法や教育基本法に反しないような形で教材として用いることまでは否定されない』」(四月一日『東京新聞』)という答弁書を閣議決定した。さらに四月三日の記者会見において官房長官は「現在の道徳教育で(教育勅語を)教材として使うことを『否定できない』」(四月四日『東京新聞』)と放言した。 これら発言から安倍政権の教育政策の中身は明らかである。端的に言って教育勅語の復活なのだ。これが安倍政権の「愛国心教育」の具体的中身なのだ。 いわゆる「森友学園問題」にしても、安倍は籠池の人的資質や献金の有無のみを問題にしているだけである。籠池が行っていた教育勅語の暗唱などは何ら問題にはしていない。それもそのはずである。思想的中身において籠池と安倍は全く同じなのであり、安倍政権が籠池を批判することは本質的に不可能なのだ。安倍政権が「森友学園問題」でできるのは問題の本質をずらした議論を展開するしかない。逆に言えば、そのことによって「森友学園問題」における教育勅語の問題を後景化させ、もって事態の曖昧化を計ろうとしているのだ。教育勅語復活と「森友学園問題」を切りなす論議を展開することをもって、教育勅語復活を推進しようとしているのだ。 であるからこそ、われわれは「森友学園問題」をあくまでも教育勅語復活に向けた動きとして弾劾していかなければならない。それは同時に、教育勅語復活を獲得目標におく安倍政権の教育政策を批判するたたかいと同時一体のたたかいなのだ。 ●2 教育勅語の復活を阻止せよ そもそも教育勅語は第一回帝国議会の開会直前に発布された文書である。「富国強兵」をスローガンとして帝国主義国家を目指した明治政府が、国内における民衆運動の弾圧と治安維持を目的として勅語という文書を作成したのだ。山縣有朋の発案といわれている。形式的には天皇が時の大臣に対して与えた「勅語」ということであるが、実際には井上毅(こわし)や元田永孚(ながざね)ら明治国家のイデオローグが起草した。その中身は「忠君愛国」であり、天皇制ファシズム国家への思想的忠誠を求めるものであることは言うまでもない。 安倍政権は「現在の憲法に違反しないのであれば」問題ないとか、「教育勅語の精神である親孝行」は一般的などという論理展開をもって、教育勅語の本質を覆い隠そうとしているが、これはまったくの欺瞞でしかない。確かに教育勅語には「親孝行」や「兄弟仲良く」などという儒教的中身が展開されている。しかしそれら中身が「万一危急の大事が起こったならば、大義にもとづいて勇気を奮い一身を捧げて皇室国家のためにつくせ」(四月四日『東京新聞』掲載―「君は教育勅語を知っているか―『神の国』の記憶」)という文言に集約されている論理構造になっている。つまり教育勅語が主張するのは、「臣民」は一般的儒教的価値観を有しながらも、国家存続の危機―戦争・内乱の際は命を投げ出して国家を救えという内容に他ならない。また教育勅語の後半部分では、「この道は…また我が国はもとより外国で用いても正しい道である」(同)という文言が挿入されている点にも注目されるべきである。つまり、教育勅語は国内のみならず海外をも視野にいれた文書なのだ。教育勅語が起草された当初は意識されてはいなかったかもしれないが、この「外国で用いても正しい道である」という価値観が天皇制ファシズム的中身をもったアジア侵略として正当化されていったことは間違いない。教育勅語はアジア侵略の思想的根拠にもなっていたのは明らかである。 教育勅語の教育現場における復活とは、子どもたちに国家危機の際には命を投げ出すことを強要し、海外においては天皇制ファシズムによるアジア侵略を正当化する思想の刷り込み以外のなにものでもない。 教育勅語の現場採用の問題は、国会で失効されているとか否かというレベルの問題はではない。そもそも教育勅語の内容―存在が現憲法の価値観から逸脱しているのであり、憲法の枠内の教材としては批判的・否定的位置づけ以外に使い道がないのだ。より本質的論議を展開するとすれば、教育勅語の賛否とは、かつての日帝によるアジア侵略戦争を犯罪的行為として断罪するのか、「聖戦」として美化し継承するのかという問題である。 教育勅語の教材利用―その肯定的教育とは、天皇制ファシズム維持のために子どもたちが命を差し出しアジア侵略を正当化すことを是とする教育である。われわれは、これこそが安倍政権の「愛国心」教育の中身として断固として許さず徹底的にたたかっていこうではないか。 ●3 安倍政権による教育の戦争化反対 さらに注意しなければならないのは、教育勅語は戦時中の「修身」という授業のなかで暗唱が強要されてきたということである。「修身」とはなにか。現在的に言えば教科化された「道徳」である。 「修身」は算数や国語といった教科の上に立つ教科であった。天皇制イデオロギーの強制を目的とした「国民学校」において、「修身」こそが学校教育の柱であった。ほかの教科は「修身」より下位に位置付けられ、常に「修身」の中身を反映させられることが義務付けられたのである。 こうした歴史を顧みれば、現在の「道徳」教科化と教育勅語の復活策動は軌を一にした攻撃であり、同一の攻撃の両側面としてとらえるべきである。「道徳」が教科化された現在であるからこそ、教育勅語が復活されようとしているのだ。「修身」―すなわち「教科化された道徳」がなければ教育勅語など絵に描いた餅であり、その教育的意義は半減するのだ。唯一の価値観・世界観として子どもたちに強制するために「修身」科は必要不可欠であった。同様に「道徳」なるものが教科化された現在であるからこそ、教育現場における教育勅語の復活が極右政治家の声によってリアリティーをもって浮上してきているのだ。 また新学習指導要領において銃剣道が武道の授業の選択肢として採用されることになった。銃剣道とは竹刀の代わりに木銃を用いて相手と付き合う競技である。攻撃は突きしかない。戦時中の学校現場での軍事教練で行われていた「武道」であり、その本質は突撃による敵刺殺をイメージした競技である。 現在、競技として取り組んでいるほとんどが自衛隊である。天皇制を前面に立てた国民体育大会で銃剣道が採用されているが、競技者のほとんどが自衛隊員であることから競技としての普遍性に疑義がだされている。 このようなマイナーな「武道」を学校現場の選択肢として位置付ける理由とはなにか。将来的に軍事教練を学校現場に導入することを目的としているとしか考えられない。昨今、教育現場における軍事教練まがいの催しが「防災」を名目におこなわれている。米軍・自衛隊参加の防災訓練に学校単位で参加する、また自衛隊宿舎での自衛隊員主導の「防災訓練」など、自衛隊―軍事が教育現場に意識的に導入されている。銃剣道の「武道」としての採用はこうした動きと連動した攻撃である。 安倍政権は明らかに教育現場に戦争を導入しようとしているのだ。「戦争は教室からやってくる」という言葉通りに、教育現場から社会を改編しようとしているのだ。であるからこそ、われわれはこれら攻撃を戦争国家化政策の要として弾劾し粉砕していかなければならない。 ●4 闘う教職員・市民と結合し安倍政権の教育政策と闘おう 今春、首都圏の各高校・小中学校において反「日の丸・君が代」のたたかいがたたかわれた。数名の教職員が「君が代」斉唱時に不起立し抗議行動を行っている。また不起立しないまでも様々な抵抗が闘われている。そして、市民と呼ばれる地域住民は、自らの地域的課題として強制に反対するチラシまきを卒・入学式においてたたかっている。 われわれはこうした教育労働者や戦闘的市民運動と連帯し、教育の戦争化と対決していかなければならない。安倍政権の教育勅語攻撃を許すな! 反戦運動の重要課題として教育の戦争化と対決していこう! |
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