共産主義者同盟(統一委員会)






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   ■日帝の精神障害者抹殺攻撃跳ね返し、

      命の防衛―障害者解放の闘いに邁進しよう


   


 ●1章 大野萌子さんを追悼する

 赤堀さんとともに、赤堀中闘委の委員長として活動し続け、赤堀差別裁判糾弾闘争の全国的高揚と、裁判闘争の勝利をかちとったたたかいの最先頭を常に突き進んだ大野萌子(もえこ)さんが、病気のため、八月二十七日に亡くなられた。
 われわれは、大野さんの死を悼み、赤堀差別裁判糾弾闘争の歴史的勝利の地平を断固として防衛発展させ、障害者解放勝利―日帝打倒をかちとる決意である。
 赤堀さんは一九五四年五月二十四日に逮捕された。赤堀さんの救援活動は、兄一雄さんの一人だけの救援から、島田事件対策協議会の闘いに引き継がれていった。大野さんは、一九七四年初面会以来の赤堀さんとの結合を強め続けてきた。大野さんは一九七六年に結成された全国「精神病」者集団の創設者の一人であり、「愛知0(ぜろ)の会」の中心的人物であった。全障連とともに結成した赤堀中闘委の委員長を務めてきた。赤堀さんからは「おかあさん」と呼ばれ、全幅の信頼を勝ち取ってきた大野さんの闘いの歴史を絶対にわすれてはならない。

 ●2章 赤堀差別裁判糾弾闘争勝利の地平を継承せよ

 三十五年の長きにわたる獄中闘争を貫徹した赤堀さんは、でっちあげ逮捕から一貫して無実を叫び続けてきた。その闘いは、赤堀中闘委との結合を媒介に、赤堀差別裁判糾弾闘争として発展し、さらに全国闘争として「赤堀さんを殺してわれわれに明日はない」を合い言葉に全国的な闘争に発展していったのである。われわれは赤堀闘争の継承ということを語るとき、赤堀さんの不屈の闘いが、全国障害者解放運動の歴史的な前進の中で普遍化されてきたことをふまえなければならない。
 赤堀さんの闘いは、全国の仲間に檄を発してきた。全国の仲間を領導しながら、赤堀差別裁判糾弾闘争が闘われ、それが全国障害者解放運動の圧倒的な勝利を刻印した。その地平こそ、養護学校義務化阻止闘争の前進と連動しながら、全国障害者解放運動が切り拓いてきた地平である。差別糾弾闘争の全国的な展開を組織し、国家権力の暴力装置の中から赤堀さんをわれわれのもとに奪い返した闘いが組織できたことを、われわれは、障害者解放運動の生きた教訓としなければならない。

 ●3章 袴田さんは無実だ!再審無罪をかちとれ

  袴田事件とは

 一九六六年六月、静岡県清水市(現・静岡市)の味噌製造会社専務宅で、一家四人が何者かによって刃物で殺害され、住まいが放火された。警察・検察は、現場近くにある味噌工場の住み込み従業員で元プロボクサーの袴田巌さんを逮捕・起訴し、静岡地裁は死刑判決を下した(一九六八年九月十一日)。
 袴田さんは、一貫して無実を訴えたが、十分な弁護活動が組織されないまま、強引な取り調べがおこなわれ、嘘の自白を強要された。
 袴田さんは、四十五年もの長きにわたり、死刑攻撃にさらされ、拘禁性の精神病を発病した。十分な救援活動が行わなければならない重大な状況にある。
 袴田さんの無実を明らかにし、生きて奪還しなければならない。
 二〇一三年六月三十日、静岡県清水市内において「直ちに静岡地裁は再審開始を 6・30清水集会」が行われた。袴田さんの無実を示す鑑定書などをもって無実を勝ち取るべく、全国から多くの人々が集まった。
 袴田事件とは、いかなる事件か。
 「袴田巌ニュース 日本ボクシング協会 袴田巌支援委員会」に、「袴田事件のあらまし」という項目で、事件の紹介が掲載されている。
 「裁判で一貫して無実を訴え続けてきた袴田さんは、死刑判決確定後に再審請求をおこないましたが、それも二〇〇八年三月には、とうとう最高裁で棄却されてしまいました。」
 当時、袴田さんに対しては、逮捕されてから起訴されるまでの間の三日間、合計しても十五分しか弁護士は面会しなかったという事実に加えて、「当時の警察は、袴田さんが元プロボクサーだったという偏見によって見込み捜査をおこない、逮捕後は真夏の密室で一日平均十二時間という過酷な取り調べを受け」たのだ。それによって「自白」を強制され、裁判所はそれをもとに死刑判決を下した。

  無実を示す証拠類

 袴田事件では、袴田さんの無実を示す重要な証拠がいくつも存在する。例えば、「袴田巌さんの再審を開き、無罪を勝ち取る全国ネットワーク」のサイトにある「事件のあらまし」から引用すれば、「一審の公判中である一九六七年(昭和四十二年)八月三十一日、工場内の醸造用味噌タンクの味噌の中から五点の衣類(ズボン、ステテコ、緑色ブリーフ、スポーツシャツ、半袖シャツが麻袋に入っていた)が『発見』され、九月十二日には袴田さんの実家に捜索に赴いた警察官が、このズボンと生地・切断面が一致する共布を『発見』しました。
 ……自白では、犯行時、パジャマを着用していたとされていたにもかかわらず、裁判所は、五点の衣類が殺害行為の際の犯行着衣であるとし、……一九八〇年(昭和五十五年)に上告が棄却され死刑が確定してしまったのです」とある。
 しかし、この「五点の衣類」に関しては、救援会は当初から疑問を抱いていた。
 まず、ブリーフに付着していた血痕と、その上に履いていたステテコやズボンに付着していた血痕の血液型が一致していなかったということ。
 犯行着衣であるはずのズボンは、サイズが小さくて袴田さんには履けなかった。
 その他、いくつもの不可解な点があることから、弁護団は「五点の衣類」は警察によってねつ造されたもの」と主張し続けている。
 味噌樽から発見された衣類について、救援会は、二〇〇六年頃より一年かけて、本当に衣類が一年以上も味噌に漬かっていたのかどうかを調べる実験を行っている。

 「味噌漬け実験」

 この実験は、最高裁による「長期間、味噌に漬かったことは明らか」と決めつけた判断が(1)外見だけでは、長期間か短期間かは、分からないが、短期間……むしろ短時間で外見上似たような衣類は簡単にできる。(2)裁判所が判決で認めたように、前年の残存味噌の中に衣類を仕込み一年二ケ月を経過すると、白い衣類は味噌と同色になり、血液はほぼ黒色になる。という理由で、明らかな誤り」という結果を明らかにしている。
 また、二〇一一年十二月には、五点の衣類に付着した血液型およびDNA鑑定が弁護側、検検察側双方より提出された。
 「袴田事件再審開始決定に向けて―DNA鑑定の成果 静岡県弁護士会 小川 央」と題された文から抜粋すると「両鑑定とも、五点の衣類から検出されたDNAのSTR型及びミトコンドリア型は、いずれも袴田さんのDNA型と一致しない」ということを語っている。
 二〇一三年九月十四日付け『東京新聞』によれば、同年同月十三日静岡地裁、静岡地検、弁護団の三者協議が行われ、十二月二日までに双方が最終意見書を提出することを決めている。
 まさに、袴田事件では、四十五年もの歳月を越えて、袴田さんの生死をかけたぎりぎりの攻防がくりひろげられている。
 袴田さんは、現在七十七歳である。四十五年もの間、死刑攻撃と闘い続けた中で、拘禁性の精神疾患の発病を強いられ、また糖尿病等の多くの病気にもさらされた中で、一刻の猶予もない時間との闘いが繰り広げられている。三歳上の八十歳になる姉の袴田ひで子さんについての記事が、雑誌『婦人公論』十一月七日号に掲載されている。ひで子さんはこの中で、「死刑が確定し、独居房に入った八五年頃から、様子が一変したのです。……となりの房の人が突然いなくなり、処刑の恐さを身をもって感じるようになったのでしょう」と明かしている。「私の三十代半ばからの人生は、巌の無実をただただ信じて、自分自身の楽しみとは無縁でした。……もうあまり時間がありません。一刻も早く再審を開始して無罪判決をかちとりたい」と訴える声にこたえなければならない。
 袴田さんは、無実の罪を着せられて、死刑攻撃にさらされているだけでなく、発病に対する精神医療もほどこされず、様々な重篤な病気の治療もないまま、獄死もあやぶまれる状態においこめられている。
 同志友人諸君! 袴田さんの命の防衛、救援活動の充実をかちとり、袴田さんを生きて奪還しよう!



 

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