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   『北韓学叢書 北韓の新認識』
第1-5巻 
 
      
                      
高橋功作


              



 ●はじめに

 一九九六年に韓国で創立した北韓研究学会(注一)が、その後の十年間の研究成果を集大成するものとして『北韓学叢書 北韓の新認識』(景仁文化社、以下『叢書』と略)全十巻を二〇〇六年に刊行した(注二)。評者はその存在を北朝鮮研究学会編/石坂浩一監訳『北朝鮮は、いま』(岩波新書、二〇〇七年)で知った。『叢書』の各巻の題名は次の通り。
 第1巻 北韓の政治1
 第2巻 北韓の政治2
 第3巻 北韓の経済
 第4巻 北韓の軍事
 第5巻 北韓の社会
 第6巻 北韓の言語と文学
 第7巻 北韓の教育と科学技術
 第8巻 北韓の放送言論と芸術
 第9巻 北韓の女性と家族
 第10巻 北韓の統一外交
 日本の労働者階級が朝鮮労働者階級人民との階級的連帯を作り出し、排外主義を打ち破ってともに進んでいく上で、朝鮮民主主義人民共和国(以下、共和国)と朝鮮労働党に対する評価を確立していくことは不可欠だ。そのためには、共和国の第一次資料の研究とともに各国における共和国研究の成果を吸収し学ばなければならない。本稿はその作業の一つとして、韓国における共和国研究の現時点の到達点といえる『叢書』の第一巻から第五巻までの内容を引用および要約によって紹介する。


 ●1 共和国研究における『叢書』の意義と掲載論文の方法論の特徴

 韓国での共和国研究の歴史において『叢書』はどのような意味を持っているのか? 掲載論文に共通する方法論上の特徴は何か? 各巻の編者と思われる人物の序文がそれぞれの冒頭を飾っているが、そこからの引用を通じてこれらの疑問に対する答を見出そう。(〔  〕は訳注または補足)
 イ・ウジョンは第一巻序文「政治史中心の北韓政治研究の歴史と北韓の政治現況」で次のように言う。
「これまで北韓の権力実体に対する政治史的接近は、時代状況と研究者個人の理念的性向によって偏差が大きく、南韓〔=韓国〕内の政治的条件に照応しつつ一定の変遷の推移を見せてきた。その変遷の時期は大きく三段階に分けることができる。朝鮮戦争以後の冷戦期である一九六〇年代から一九七〇年代後半の維新期間〔七二年十月維新以後の朴正煕軍事独裁政権期〕は大よそ理念的偏向期と分類することができ、この時期の北韓政治に関する国内の研究動向は主に金日成のアイデンティティーと関連して北韓体制の〔国家としての〕正統性を批判する方向に研究の焦点が当てられた。それ以後、維新後半に差し掛かる一九七〇年代後半に入り、社会的に民主化闘争が激化し、その流れが学界にも反映するとともに研究者の北韓に対する視角も分かれ始めた。すなわち、伝統的な保守の視角と北韓の国家的実体性を認定しようとする進歩的性向とが定着して、理念―現実の両立期が成立する。北韓研究は一九九〇年代以後、文民政府の登場とともに脱理念の時期を迎えることになる。ソ連東欧圏の解体でソ連の資料が開放されることにより北韓関連資料に対するある程度の客観的接近が可能になった。特に二〇〇〇年に入り、南北韓間の6・15首脳会談を契機に南韓の対北研究は接近が理念的に自由な段階に入る。それに伴い、北韓研究は一次資料を中心に現実的接近が可能な道が開かれ始める。この本で扱われる各章別の主題は理念性を脱皮することに力点を置いた一方、北韓の一次資料の引用率を高めることにより北韓研究の客観性を最大限担保しているという点で意義があるといえるだろう。」(百十二頁)
 チョン・ヒョンジュンは第二巻序文「北韓研究の成果と今後の課題」で次の通り指摘する。
「韓国における北韓研究は、一九八〇年代末に至るまで、冷戦体制の最前方に位置していた朝鮮半島の特性により冷戦的視角から大きく抜け出せなかった。その結果、反共と反北の偏向性を帯び、政治的目的により学術的研究が歪曲される紆余曲折も経た。しかし、社会主義圏の崩壊と冷戦の終息は、韓国社会で北韓研究の環境を根本的に変化させた。そして、過去の冷戦の枠に押し込められた断線的研究から抜け出し、北韓体制に対するより客観的で実証的な研究の必要性が台頭し始めた。一九八〇年代後半から始まった少壮研究者たちを中心にしたいわゆる『北韓の正しい理解』運動の研究が脱冷戦の情勢変化を反映していると言えよう。しかし、他方で当時の北韓の正しい理解は反北に対する逆偏向として親北的な性向を露呈したという批判も受けた。北韓研究は一九九〇年代の北韓体制の危機と脱北者の増加を契機としてイデオロギー的偏向から次第に抜け出し、客観性と実証性を基準とした学問的論議が可能な領域へ進んで行っている。特に〔二〇〇〇年の〕南北首脳会談以後の北韓との直接の接触および交流の活性化は北韓体制に対する学問的論議に肯定的に作用している。」(二百十三頁)
 ユン・ドクヒは第五巻序文「北韓社会研究の成果と限界そして課題」で以下のように述べる。
「韓国の学会で北韓社会に関する研究は事実上一九九〇年代前半から本格的になされたといえる。それまでの北韓研究は資料接近の問題とイデオロギー的な偏向により学問的な一定の成果を出すことができず、大部分北韓社会に対する盲目(ママ)的な批判や南韓社会の正統性を支えるための研究で、方法論上や客観性において全て失望せざるを得ない水準だったといえる。
 一九九〇年代に入り、北韓研究は国内外的な学問的、学問外的環境に力を得、全般的に活気を帯びるようになった。第一に、南韓内の民主化の進展で北韓についての資料および情報の公開が拡大し、北韓の内部文献と情報に対する接近がはるかに容易になった。第二に、南韓社会の民主化と社会主義圏の没落、ドイツ統一、一九九一年〔南北間の〕基本合意書締結などの影響で南韓内の統一論議が活発になり、北韓研究もあらゆる分野で活気を帯びるようになった。第三に、統一以後ドイツ内部の社会統合問題の深刻なことが明らかになることにより、〔それが〕統一における社会文化的側面の重要性が認識される契機として作用した。過去の北韓研究と統一研究において政治、軍事的側面にのみ焦点を当てたことから脱皮して、北韓の社会、文化についての理解の必要性が台頭した。
 こうした環境の変化と合わせ、北韓研究において過去の反共主義や資本主義および自由民主主義の尺度で北韓を見ることから脱し、北韓が理念的、政策的に志向する所に依拠して北韓の政策的成果と社会現象を分析すべきだとする『内在的接近法』が北韓研究者たちによって導入されるとともに北韓研究の転換が形作られた。こうした『内在的接近法』は、北韓の内部資料の幅広い収集、脱北者面談調査などの多様な研究方法の活用と接ぎ木され、実事求是的で一定の学問的水準を担保する研究結果を産み出した。ところが、『内在的接近法』は北韓体制の特性のみを強調する傾向がややあり、こうした北韓の特殊な諸現象を科学的に、理論的に説明し予測する上で限界があるという批判が提起された。このため、北韓研究を社会主義体制の比較研究の枠内に接ぎ木して北韓社会の特殊性と普遍性を究明し、さらには社会主義体制の変化の大きな脈絡の中で北韓社会の現在と未来を位置づけてこそ北韓体制の性格を説明し、変化を予測できるという主張とともに『比較社会主義的接近法』の重要性が台頭した。従って、最近の北韓社会研究は多様な研究方法論と洗練された資料および情報の分析技法を活用する傾向を見せている。」(四百十五頁)(注三)
 次に、第一―五巻の各論文の大よその内容を見ていく。


●2 第一巻「北韓の政治一」

 第一巻「北韓の政治一」の構成は、全巻共通の発刊の辞および推薦の辞、そして先述の序文に続き、次のようになっている。
第一部 抗日から国家建設まで
 シン・ジュベク 金日成の満洲抗日遊撃運動
 キ・グァンソ 解放後の金日成の権力浮上
 チョン・ソンイム ソ連の対北韓戦略的認識の変化と占領政策:一九四五~一九四八年の占領期間を中心に
 イ・ジュチョル 北韓土地改革の推進主体:ソ連主導説に対する批判
 ベク・ハクスン 金日成の権力競争の勝利と党・国家建設
 ソン・ジョンホ 朝鮮労働党の形成と体系化:一九四五~一九六一
第二部 権力闘争と首領制
 ペク・ジュンギ 停戦後一九五〇年代の北韓の政治変動と権力再編
 イ・スンヒョン 甲山派の粛清と首領制の形成
 イ・テソプ 一九七〇年代金正日後継体制の確立と首領体制
 イ・ギョドク 北韓の後継者論と金正日以後の後継者

 ▼① シン・ジュベク 「金日成の満洲抗日遊撃運動」

 第一章「初めに」の冒頭、シン・ジュベクは次のように言う。
「民族統一がわが民族の課題であることを否認する人間はいない。民族統一のためのわれわれの直接対話の相手は北韓で、そこの最高実力者は金日成だ。満洲抗日遊撃運動の時期、金日成に次ぐ能力を持った韓人は多かったが、彼が学問的関心の対象になる理由もここにある。従って、金日成に対する学問的な関心は、朝鮮半島の半分を占めている北韓を客観的に理解することに大いに役立つだろう。それは対話の相手を正しく把握する出発であり、われわれの歩みをいっそう正確にする土台になるだろう。」(第一巻九頁)(注四)
 彼は、韓国内に「偽者金日成」論と「本物金日成」論の対立が今まで存在してきたと指摘し、後者に立脚して金日成を考察するとしている。また、評価すべき先行研究の一つとして和田春樹『金日成と満州抗日戦争』(一九九二)を挙げている(注五)。そして、中国共産党の文献を最も積極的に活用したと述べている。(注六)
 第二章以降、金日成の抗日闘争の軌跡が次のように述べられる。
 二〇年代後半には多くの朝鮮の青年学生が左傾化したが、金日成も中学在学中の二七―二九年に社会主義文献を購読。二九年に非合法組織の朝鮮共産青年会に参加。国民部左派所属の青年層の一人として活動した。その後もこの層と歩みを共にする。この青年層によって三〇年七月に朝鮮革命軍が結成される。左派の排除を進めていた国民部〔社会主義者と民族主義者が結集して一九二九年に満洲で結成された抗日独立運動団体〕を脱退し、その打倒を掲げる反国民部勢力になる。三一年三月、他の左派青年たちのほとんどが中国共産党に入党する中、独自路線を志向する世火軍が結成され、金日成は委員に選ばれる。同軍の綱領は満洲地域に共産主義政権を樹立してこれを基盤に朝鮮革命に努力するという内容だ。
 三一年九月に日帝が中国東北部侵略を始めた。中国共産党は抗日武装遊撃活動を本格化させるが、世火軍など「第三勢力」は急激に弱体化した。金日成は遅くとも三二年五月には中国共産党に入党し、遊撃隊を率い、救国軍とともに活動しつつ日本軍と戦闘し、青年層のリーダーとして組織化も行った。内部の結束の固い金日成部隊は三三年九月の東寧県城戦闘、三三年十二月―三四年一月の小汪清遊撃根拠地防御戦闘をはじめとして戦果を挙げ、金日成自身が中国語を話せることもあり信望が高まった。三四年には民生団(日帝が作った反共スパイ組織)反対闘争の過程でスパイ容疑を掛けられ監獄に収容された。処刑された同志も少なくなかったが、彼はまもなく釈放されて抗日闘争の戦線に復帰した。
 三六年、「東満地方組織内部で在満韓人問題を担当する実質的な指導者として浮上した」(三十七頁)。第三師(後の第六師)の師長として戦闘を継続。三七年六月の普天堡(ポチョンボ)戦闘は「金日成の対外的な名望性を一層高め」(三十九頁)、「抗日指導者としての大衆的認知度を確保した」(五十二頁)。同年七月に日中戦争が勃発。これを「内乱に転換させるという戦略的展望も想定し」(四十頁)、朝鮮共産党の再建も見据えつつ「満洲」と国内を「組織的に結集させようと」(四十一頁)国内に同志を派遣した。
 三五年にコミンテルンの方針が変わり、それに伴って抗日遊撃戦闘の目標に「朝鮮の独立」が加えられた。三七年以降日帝の弾圧が激しくなり、抗日遊撃運動が大きな困難に直面した。中国共産党指導下の抗日連軍の人数は一九三七年約一万人、一九三九年末約二千五百人、一九四〇年五月約千五百人と急減した。大衆的基盤は次々に失われた。そうした中、三八年、第六師は第二方面軍に改編された。「戦争期間に与えられた任務を達成しつつも部下の犠牲を最大限減らす」という「点から見れば、軍事指導者としての金日成の指導能力は第一路軍内で抜きん出ていたと言える」(四十四頁)。三九年三月には「苦難の行軍」を行った。各地で戦果を挙げながらも情況は一層厳しくなり、四〇年春に第一路軍指導部は遊撃隊を中ソ国境地帯へ移動させるよう決定。しかし「第一路軍隊員たちは〔ソ連への〕越境を臨時的な措置と考え、自然発生的かつ連鎖反応的に対応した」(四十八頁)。金日成も同志十数名と十月二十二―二十三日にソ連に入り、第一路軍越境部隊の最高指導者として活動した。四一年四月、第一路軍第一支隊長として中国に入り、移動しつつ大衆基盤を再構築する工作を行った。
 シン・ジュベクは第六章「終わりに」で見解を整理した上で次のように述べる。
 「南北韓の現代史に最も大きな影響を与えた人間は朴正熙と金日成だった。二人は同じ時期に満洲という同一の空間で明確に対比される人生を送った。このこと自体にもわれわれが関心を持つべきだろう。二人の人生に対するより一層大きな関心は現在の南北韓史を理解する上でも重大な問題だからだ。」(五十三頁)

 ▼② キ・グァンソ 「解放後の金日成の権力浮上」

 キ・グァンソは「初めに」で、「解放直後の金日成の権力浮上問題」という主題に関する先行研究について、「……残念ながら大多数の研究は冷戦時期のイデオロギー的両極化を反映して相当な視角的偏向性を帯びてきた。その中でも特に金日成の権力掌握が全的にソ連によって推進された対北政策計画の一環と見るのが一般的だった」(八〇頁)と批判する。そして「ロシア文書保管所の関連資料を中心に利用し」(八一頁)、各種一次・二次資料を活用することでこの主題を「客観的かつ実証的に考察する」(同)としている。
 「終わりに」が論文の要約になっているので、全文を以下引用する。
 「金日成の政治的成長過程は熾烈な歴史の現場に遡っていくとともに始まった。彼は早くも一九三〇年代に満洲における抗日武装闘争を通した経歴に力を得、当時相当な大衆的名声を持っていたのであり、解放直後に再建された朝鮮共産党内では朴憲永(パク・コニョン)に次ぐ第二人者に上るほど頑強な位置を有していた。他方で彼を詳細に把握していたソ連側は、彼の後見の役割を十分に遂行することにより彼の政治的成長を支援した。このような諸要因は金日成が自然に北韓の政治舞台で主導権を掌握するのに役立った。にもかかわらず、金日成の政治的位置は北韓の状況の変化はもちろん、朝鮮半島次元の情勢の変動と連関して作用した。彼は帰国初期から北韓の最高指導者として浮上したのではなかったのであり、このためには一定の政治的『試験の舞台』を通過しなければならなかった。
 金日成は帰国後、民族主義者との統一戦線構築に力を入れつつも、他方で北韓内の共産主義者の組織化に没頭した。彼は一九四五年十月十三日、朝鮮共産党北部分局結成に主導的役割を果たすが、分局創設時十七名で構成された委員になったこと以外はいかなる職責も持っていなかった。彼が前面に登場したのは地方党に対する分局の組織的指導が混乱に陥り、上・下部の組織体系を備えるための必要性が切実になったためだ。金日成は十二月十七―十八日の分局第三回拡大執行委員会で責任秘書に選出され、分局内の主導権を獲得したが、これはまさに北韓指導者として金日成の完全な位置の定立を意味するものではなかった。
 金日成の可能な競争者になることができた曺晩植(チョ・マンシク)は注目される役割を遂行する条件が備わっていたが、モスクワの決定に賛成しなかったために強制的に北韓の政治舞台から去るほかなかった。彼の退場と同時に民族主義者をはじめとして彼を支持した勢力の相当数が北韓政治秩序から離脱し、金日成の政治的位置を一層強固にする決定的な契機となった。信託統治問題による左右対立で朝鮮半島情勢が急変すると、北韓共産党とソ連指導部は左翼勢力に有利な韓国(朝鮮)臨時政府樹立のために北韓の土台を固く構築する方向を打ち立てた。このように彼の政治的浮上には情勢変動的要因が少なくなく作用したことを見ることができる。
 一九四六年二月北韓最初の中央権力機関である北朝鮮臨時人民委員会〔=北臨委〕に金日成が委員長に就任することにより北韓の第一人者として登場する出発点になった。北臨委は創設直後に土地改革をはじめとする一連の改革政策を実施したが、特に土地改革は金日成の大衆的権威を強化する重要な基盤になった。『民主改革』の成功裡の推進で金日成は自分の潜在的競争者たちとの間隔を顕著に広げることに成功した。
 金日成の政治的基盤は顕著に拡大したが、彼の最終的な地位は確定的なものではなかった。もし米ソ合意による韓国(朝鮮)臨時政府樹立が成功していたとすれば、彼の位置は不確実だっただろうし、そうした場合、彼は南側の多くの人物たちと競争関係に置かれただろうに違いない。さらに、一九四六年後半期に朴憲永の南労党指導部が北韓へ移転することで一部流動性が存在した。加えて、ソ連の対北政策の立案と執行の責任をとったシュティコフは南北労働党統合中央委員会の委員長に朴憲永を推挙した。しかし、すでに北韓で確固とした基盤を持っていた金日成を朴憲永に替えるというのは勢力関係の側面からも実現するのが難しいことだったのだろう。反面、金日成は北韓内の第一人者の座に就いてからも朴憲永の南労党から『見えない』挑戦を受けなければならなかった。
 金日成は帰国直後に大衆的イメージの刻印、信託統治政局を通じた曺晩植の退場、韓国(朝鮮)臨時政府樹立の挫折、朴憲永との競争の勝利などのような契機的経路を経て最高権力者として登場した。これは共産党の指導者が国家指導者に生まれ変わるためには多様な主観的客観的要因が作用し、ソ連による『金日成事前内定』のような論理が大きな脆弱性を帯びていることを示している。」(百八―百十頁)

 ▼③ チョン・ソンイム 「ソ連の対北韓戦略的認識の変化と占領政策:一九四五~一九四八年の占領期間を中心に」

 チョン・ソンイムは第一章「初めに」で、論文の目的が「一九四五―一九四八年の北韓占領期間中のソ連の北韓認識の変化を調べる」(百二十三頁)ことにあるとする。そして、占領当時に北韓の「民主化」の目的を持っていたソ連がなぜ「そういう政策遂行したのかについての論議が不足している」と先行研究を批判する。
 二章「ソ連の北韓認識と『モスクワ決定』」の内容は次の通りだ。当初ソ連は「朝鮮問題」の解決を米国をはじめとする戦勝国の枠内で行おうと考えていた。ソ連は信託案に否定的だったが、米国と共に「朝鮮問題」を解決しようと認識していたので信託案を容認した。しかし四五年当時、ソ連は朝鮮の分割に対して明確な見解を持っていなかった。ソ連は朝鮮における独立民主主義国家、ソ連に対する「友好政府」の樹立を目指した。四七年一月には北韓指導部に、同年八月には南韓の民主主義民族戦線に、反米の発言と行動を控えるように指示している。
 ソ連を支持する基盤は朝鮮共産党だった。ソ連の資料によれば、朝鮮共産党は一九四五年「八月末に二千百二十四名に過ぎなかった党員数が十二月初めには総四千五百名と二倍に増加し、一九四六年一月一日には六道八郡に共産党委員会が設置された」(百三十一頁)。しかし朝鮮共産党の力量に対するソ連の認識は、「統一戦線の求心点としての役割を果たすにはまだ役不足」(百三十二頁)と否定的だった。
 第一回米ソ共同委員会で初めてソ連は米国との見解の違いに気づき、共同委員会自体に否定的になった。一九四七年六―七月が米ソ関係悪化の決定的時期で、これ以降米国に対するソ連の態度は融和から強硬へ変わった。
 三章「終わりに」でチョン・ソンイムは次のようにまとめている。
 「これまで北韓占領期にソ連の認識上の変化とこれに伴う政策を調べた。これを通じて、第一に、一九四五年、占領の初年にソ連は『朝鮮問題』よりは日本に重点を置いており、第二に、一九四五年のモスクワ会議後ソ連は初めて『朝鮮問題』をそれ自体として認識するようになったのであり、第三に、共同委員会の決裂と軍隊撤収は、対米関係が悪化し、日本への介入の余地が不透明になるなど外部的要因とともに朝鮮の戦略的価値が浮上し、親ソ国家北韓だけでもソ連の位置を固めることができるという判断から可能だったことを明らかにした。」(百四十三頁)

 ▼④イ・ジェチョル 「北韓土地改革の推進主体:ソ連主導説に対する批判」

 イ・ジェチョルは第一章「序論」で土地改革の主体に関する先行研究を批判する。すなわち、北の代表的研究は「土地改革全過程の中心に金日成だけを浮き彫りにしている」(百五十六頁)。一方、南の研究はそのほとんどがソ連側の役割を浮き彫りにしている。しかし、人民委員会の役割に注目する研究も出ている。また最近、「ソ連側資料の発掘と研究を通して解放直後の北韓についての理解は大きく進展した」(同)。その上でイ・ジェチョルは言う。「筆者は解放時点から土地改革法令の実行過程を考察するとともに、特に農業部門と土地改革でソ連の介入問題と日帝下から国内で活動した土着共産主義者と農民組合運動主体の役割に注目しようと思う。」(百五十七頁)
 この論文の概要が第四章「結論」にあるので以下引用する。
 「北韓土地改革推進主体についての先の論議を整理すると次の通りだ。
 日帝下の朝鮮農民は長い間土地問題の解決を渇望していた。そして日帝の敗亡は土地獲得が単純な希望ではなく可能なことであることを目の前に示した。ソ連軍の占領という有利な条件の下で、日帝の時期から国内で活動した土着共産主義者と農民運動主体は土地改革の前段階として3・7制闘争を始め、これを一九四五年末にはほぼ完了した。
 この過程でソ連は朝鮮共産党の闘争方針を受容したが、ソ連軍司令部は一九四五年後半期の間、軍部内を指揮する固有の業務に余念がないだけでなく、民生業務を扱うだけの経験と知識を所有する専門家が多くないことにより、民生業務遂行に相当な混乱を被っていた。ソ連軍は占領軍だったが、『完璧な決定者』になることはできなかった。日帝の国家権力が崩壊した状況で大小の多核によって構成された朝鮮人勢力の自律性は相対的に大きく、特に同勢力を中心に北韓の農業部門は主導された。
 モスクワ三相会議の決定により朝鮮半島の情勢は新たな局面を迎えた。三相会議の決定後に北韓内での統一戦線が亀裂し、右翼勢力の越南がなされるや、土着共産主義者と農民運動主体は抑制してきた土地要求を噴出させた。農民の土地改革要求が噴出するとともに三相会議の決定後に誕生した北臨委は土地改革を実施せずにはいられなかった。土地改革を通して農民の支持基盤を確保しようとしていた北臨委と朝共分局〔=朝鮮共産党北部朝鮮分局〕は北朝鮮農民連盟とともに連帯して土地改革法令の制定を推進した。
 土地改革法令の作成は北朝鮮農民連盟が主要な役割を果たし、北臨委と朝共分局はこれを支援した。法令と決定の草案を作成するのは北臨委各局の職務だったが、これを北朝鮮農民連盟が主導したことは、農民運動主体の大部分が朝共分局の党員だったために可能なことだった。同時に、北朝鮮農民連盟が持っている自律性と位置を明らかにしたものといえる。北臨委の土地改革法令決定過程では『農民の利益を中心』とした土地改革法令に対する反対意見もあったが、黙殺された。
 北韓の土地改革について『上からの改革』と『下からの改革』という説明を図式的に代入してはならない。北韓土地改革は国家権力の強化を推進する初期に『下からの推進力』によってなされた改革といえる。『下からの推進力』は日帝下から国内で活動した土着共産主義者と農民運動主体だといえる。これらの人々の中で特に農民運動主体は農民の中で成長して農民と深く連携していた。日帝支配権力の崩壊の中で基層社会に基づく組織が北韓土地改革を進行させたといえる。
 政治的環境条件に近しいソ連軍の占領を決定的条件と設定し、その中で展開する全ての事件の原因と動力として把握することは、問題の究明には重要な助けになり得ない。北韓土地改革に対するソ連の役割は土地改革の実施時期と関連したものだ。一部の研究は一九四六年一月二日の『北朝鮮駐屯ソ連軍司令官の命令書』にある『土地所有関係調査』に注目してソ連の『決定者』の役割を主張している。しかし、こうしたソ連軍の命令が十分に執行されず、この『調査』を朝共分局で改めて主導的に推進したことは、土地改革における朝鮮人の主導的役割を示すものだ。
 この論文では扱わなかったが、土地改革の実際の執行も貧農、農民組合、朝共分局などの主導で遂行された。結論的に、北韓土地改革は解放空間で朝鮮人によって準備され執行されたといえる。土地改革の実行過程で北臨委は執行者としての役割を遂行するとともに北韓の中央権力としての威力を強化させることができたのであり、これは金日成の権力基盤強化につながった。」(百八十一―百八十三頁)
                                (続く)


 注一 「北韓」とは「南北に分断されている大韓民国の休戦ラインより北の地域を指す語」(『エッセンス国語辞典』(民衆書林))。本紙にこれまで掲載された他稿では「朝鮮民主主義人民共和国」もしくは「共和国」と訳してきたが、ここでは論文の中の引用部分における「共和国」との混同を避けるために直訳する。
 注二 『北朝鮮は、いま』では「新認識」ではなく「再認識」と訳している。しかし原文を直訳すれば「新認識」もしくは「新たな認識」であり、「北韓(=共和国)に対するこれまでの研究および古い認識とは異なる新たな認識」という意が題名に込められている。そこで本稿では直訳にした。
 注三 以上の引用から、第一に、政治学および社会学という分野の違いはあるが、おおよそ一九九〇年代初めから入手できる資料と情報が量的に多くなるとともに実証的な研究が進み、それが二〇〇〇年代に加速したこと、第二に、当然ではあるが情勢の変化に学問の方向性も規定されていて、民主化闘争、ソ連・東欧の崩壊、南北間の緊張緩和の影響が大きかったこと、第三に、第二とも相俟って、『叢書』自体が南北統一へ向かう大きな流れの中で生み出された成果であることが分かる。
 注四 論文執筆者によれば「金日成の満洲抗日遊撃運動」は一九九四年に発表された論文の修正文。第一巻の最初の論文の冒頭にあるこの引用に、シン・ジュベク個人だけでなく北韓研究学会の北に対する基本姿勢を、さらには「金日成に対する学問的な関心」がどのような扱いを歴史的に受けてきたかを読み取ることができる。
 注五 同書とともに和田春樹『北朝鮮――遊撃隊国家の現在』(一九九八、岩波書店)も多くの論文執筆者によって参考文献として挙げられ、また、批判が加えられている。韓国においてその研究成果が認められていることをそのことは示している。和田の政治的言動は九〇年代の国民基金運動に見られるようにナンセンスだが、元ロシア研究者である彼が英米露のみならず韓国・共和国・中国の一次資料および研究を踏まえて自らの朝鮮研究をすすめているその方法論――それは『叢書』執筆陣とも共通している――は、彼の研究上の見解をわれわれが批判する際に、批判内容が低水準の決め付けに陥らないためにも押さえておく必要がある。
 注六 その際、「確かに『中共の文献』であるが」と断っている。先行研究がそれをどのように扱ってきたかをうかがい知ることができる。


 


 

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