共産主義者同盟(統一委員会)

 

■政治主張

■各地の闘争

■海外情報

■声明・論評

■主要論文

■綱領・規約

ENGLISH

■リンク

 

□ホームに戻る

  ■2010岩国行動に全国から総結集を

  労働者反戦闘争の階級的再生を実現しよう!




  ●1章 新たな局面を迎える反米軍再編闘争

 歴史を画する攻防が始まっている。
 昨年、「(普天間基地移設は)国外、最低でも県外」を掲げた民主党が「政権交代」へと押し上げられて以降、沖縄の労働者・民衆は、政権公約の実現を求める巨大なうねりを作り出してきた。
 前鳩山首相が「抑止力の重要性」を押し出して公約をひるがえし、五月二十八日には日米安全保障協議会によって`辺野古新基地建設aの日米合意の共同発表が行われた。しかしその後も、沖縄民衆の闘いのうねりは止むことがない。
 基地建設に伴う再編交付金を、政府が差し止めるなか、九月名護市議会議員選挙では、交付金復活を強調する基地容認派の必死のキャンペーンにもかかわらず、`新基地建設反対aを掲げて名護市長となった稲嶺進氏を支持する議員が、過半数十六名を制して圧勝当選した。条件付基地容認派は、立候補者十七人のうち六人が落選、市長派候補者の得票数を三千余も下回る惨敗となった。沖縄においては、今まで住民投票や世論調査で新基地建設に反対の民意が示されても、続く選挙では政府が振興策・資金を投じ、条件付容認派を勝利させてきたという構図があった。しかし基地依存型の振興経済は、あらゆるところで破たんし、名護市長選・名護市議会議員選は、この構図をうち破る新たな胎動が始まっていることを示している。九月十三日、『沖縄タイムス』は「敗れたのは日米政府だ」とする一面報道を行った。この波は、「普天間基地撤去、辺野古新基地建設反対」を掲げて伊波洋一氏(現宜野湾市長)が立候補する、沖縄知事選にも引き継がれていくだろう。
 米軍再編に対する闘いは、日本全土の75%の在日米軍基地を担わされた沖縄が、日米支配の重壁を打ち破ってきたのだが、このような沖縄の闘いと連帯し、岩国住民の闘争が登場してきている。二〇〇六年の住民投票で、米軍再編=艦載機移転による岩国基地強化に`NO!aの民意を示した岩国住民は、政府による切り崩しの攻撃をはねのけ、〇八年から〇九年にかけて米軍再編・基地強化を許さない`海・空・陸・テーブルaの四つの裁判を立ち上げてきた。とりわけ愛宕山跡地における米軍住宅・施設建設に対しては、「愛宕山を守る会」「愛宕山を守る市民連絡協議会」が結成され、昨年には、十一万余筆を集める「米軍住宅・施設建設反対」署名、四訴訟の一つである「国土交通省への(愛宕山開発)事業認可取消の取消を求める訴訟(〇九年七月)」(陸の裁判)など、活発な活動を展開してきた。
 そのような中で昨年、「政権交代」が引き起こされたのだが、民主党は`米軍再編見直しaどころか、昨年末には何の説明もないまま、防衛省予算に「空母艦載機部隊移駐関連費用」として二百七十億円を計上、うち「米軍再編関連施設用地の買い取り経費」として、愛宕山開発跡地の買い取り費用が一九九億円含まれていた。二月には、防衛大臣が「岩国に関する米軍再編は従来どおり進める」と言い放ち、岩国住民の不信感と怒りを引き起こした。
 五月二十三日には、「見直せ!米軍再編五・二三岩国大集会」が、降りしきる雨の中、四千余名を結集して行われた。「沖縄・辺野古に学び、息の長い闘いを!」と愛宕山の住民たちは、八月二十一日から愛宕神社前広場において、毎月一のつく日に「愛宕山跡地を見守る集い」を開始している。米軍基地は要らない・次世代に渡すことはできない、という不退転の闘いで、日米政府―防衛省による強権的基地強化・米軍住宅建設をむかえ討とうとしている。米軍再編に反対する闘いは、日米政府・防衛省と体を張って闘うという新たな局面を迎えている。
 同時に、気を引き締めてとらえておかねばならないのは、米軍再編に対する闘いは、地元基地周辺住民の闘争であると同時に、日米安保をめぐる全人民的な闘争課題であるということである。鳩山をして「抑止力の重要性」と言わしめたのは、米日韓軍事体制である。鳩山政権が大揺れに揺れている最中、李明博政権は、韓国海軍艦「天安」沈没事件を「『北』の潜水艦によるしわざ」と、根拠のないデッチ上げとして流布した。これを前後して、米日韓共同の共和国を対象にした軍事演習という挑発的な活動が、東アジアの緊張を恒常的に高め続けている。このような緊張の中で、釣魚台(尖閣列島)をめぐって、漁船船長の拘束・逮捕という中国政府・民衆を挑発するかのような事件も起こっている。中国の抗議に対し、日本では大規模な排外デモが起こり、これに対し中国で反日デモが起こるというゆゆしき事態となっている。帝国主義の利権争奪戦に排外的に動員されていくことに対し、労働者民衆とりわけ帝国主義本国の労働者階級は、毅然とした態度をとることが必要である。領土問題は正しい歴史的認識に立って、当事国間の労働者民衆の連帯心を高めるやり方で解決していくことが必要であり、武力などの力を持って解決するものではないからである。
 にもかかわらず、日米帝国主義は、ますます排外主義を煽り、「抑止力」として米日韓軍事協力や日米安保の強化、米軍再編を行なうことを正当化しようとしている。このような攻撃に断固として抗し、米軍再編に対する闘いを、より一層はっきりと日米安保をめぐる全人民的な政治闘争として発展させ、そのただ中に、労働者反戦闘争の新たな再生を切り拓く部隊を登場させていかなければならない。


  ●2章 労働運動にとっての反戦闘争

 帝国主義の侵略戦争に対する態度、これを支える排外主義に対する態度は、労働運動・階級闘争を二分するような大きな課題の一つであり続けてきた。
 その内的な運動として、飽くなき利潤拡大を求め、市場競争・市場拡大を不可避とする「資本主義的生産」は、国内労働者階級を貧困な状態へと落とし込んでいくと同時に、「過剰な資本」を国外に輸出するための侵略・侵出を不可避とするものである。資本の拡大のプロセスには、このようなシステムが組み込まれている。
 資本の剰余価値(利潤)は、必要労働を超えて労働者に剰余労働を行わせることによって獲得され、資本を増殖させ、蓄積させていく。ここで明らかなのは、労働者の賃金は、労働者が労働過程で作り出した全体的な価値よりも、ずっと小さいことである。従って、資本家は剰余価値を手に入れることができる市場の拡大を常に必要とする。より多くの買い手を得るための、弱肉強食の競争を通じ、強い資本が集積し独占化し、それにつれ国内市場は、ますます資本の規模にとって狭いものとなっていく。また資本を再投資して、利潤を得る生産資本を拡大する`うま味aもなくなっていく。
 このサイクルが繰り返されるにつれ、国内の労働者民衆は貧困化し購買力は衰え、資本は、より大きな超過利潤のために、新しい市場、資本の新しい再投下先を求めて、他国への侵略へと歩んでいくのである。資本主義的拡大は、不可避に帝国主義という政治形態に行き着く。そして帝国主義は、資本(企業)利益があたかも労働者民衆との共通利益(国益)であるかのように宣伝し、他国への排外主義を労働者民衆の中に植え付け、侵出・侵略へと動員していくのである。このような帝国主義の侵略戦争、戦争動員、排外主義との闘いは、労働者階級にとって極めて重要な戦場をなしている。
 二十世紀に入ってからの二つの世界大戦では、労働者階級の国際的な隊列は、真っ二つに分かれた。第一次世界大戦の前夜、第二インターナショナルは、「戦争に反対する決議」(一九一二年バーゼル決議)をあげながらも、戦争が始まるや、主流派は自国の戦争を支持する「祖国擁護」の立場を取り、第二インターは崩壊してしまう。一九一六年、レーニンは「帝国主義論」を執筆し、労働者階級の国際的団結を破壊した帝国主義戦争をめぐる態度について、「祖国擁護」をかかげた戦争賛成派、中間派として「帝国主義戦争は列強の政策の一つでしかない」と主張したカウツキー派を批判した。そして、帝国主義戦争は列強の「政策」の一つなどではなく、資本主義の最高段階における必然の現象であり、不可避であるという主張を行い、また、こうした戦争支持派が、なぜ労働運動や社会主義運動の中から生まれるかという根拠として、「超過利潤による労働貴族の培養」を明らかにした。
 現代に至る帝国主義戦争と排外主義的動員は、上述したように資本の運動に根拠を持ってもたらされるものである。二十世紀初頭の大戦から一世紀近くの時が経つが、資本の運動はグローバル化し、世界には巨大な多国籍資本が成長し、上述した資本の運動は、利潤拡大のための`底辺への闘争aを、第三世界のみならず帝国主義本国においても繰り広げている。ソ連・東欧政権が崩壊し、中国やベトナムなどの「社会主義」圏から`改革・開放経済aへと向かう動きが深まる中、世界的規模の資本主義市場が形成されて以降、それは、いっそう大規模に加速度的に進むようになった。
 帝国主義による侵略戦争は、かつての市場再分割のための列強同士の国家間戦争という様相こそ鳴りを潜めたものの、圧倒的な軍事力を背景にして、資本主義市場の拡張にとっての障壁を取り除くために、絶え間なく行われてきた。近年では「テロとの戦争」という名の下に、アフガン戦争・イラク戦争など、石油利権と中東市場化のための帝国主義侵略戦争が行われている。世界的に張り巡らされた帝国主義列強や諸国との軍事同盟・軍事協力の存在は、資本の利益を脅かすものには、いつでも迅速に攻撃できる軍事網を張りめぐらし、必要なときには占領支配を行い、その国の資源・市場・労働力を、多国籍資本の思うままに支配できる状態を作り出している。
 侵略戦争は、大戦終了から今日に至るまで、間断なく行なわれてきたのであり、十年サイクルの戦争(兵器在庫処理)を必要とする巨大な軍事産業を育んできた。また、資本の利潤サイクルが作り出した「過剰な資本」は、すでに二十世紀末には、生産資本より手っ取り早い利潤をもたらす投機マネーとして世界を駆けめぐり、投機バブルの崩壊を周期的に繰り返して、国際的な規模で実体経済に深刻な影響を与えている。世界は、富める者と持たざる者とに引き裂かれ、生産力と生産技術の発展に反比例するかのように、労働者階級の奴隷状態と、飢餓や無職、流浪など明日をも知れない人々が増大し、きわめてアンバランスで不安定な状態を深め続けている。
 このような現代世界を支配し続けるために、アメリカ帝国主義(巨大独占資本家たち)が準備してきたのが、`先制攻撃aと`非対称的戦争aを軸にした「テロとの戦争」である。二〇〇一年の9・11事件は、その絶好の契機となった。これを大義名分に、それ以前から準備されてきた米軍再編が、全世界の資本主義諸国をまき込んで推進されるようになった。
 このような帝国主義の支配のただ中で、労働者階級・労働運動が、排外主義とキッパリと袂を分かち、国境を越えた反戦闘争によって、自分たちの隊列を強め、暴虐性を深める資本主義・帝国主義世界との闘いを前進させることが、きわめて重要な課題として存在している。戦争による利益は資本家のものであっても、それは民族間や国家間あるいは局地紛争として行なわれ、労働者民衆は、戦争の直接の担い手として殺しあうように仕向けられる。それは長期にわたって、労働者階級の国際的団結を阻むものとなる。また資本家によって、労働者に日常的に強いられる労働力の安売り競争、国際的規模での`底辺に向かっての競争aのなかで、労働者は分断され、互いに争わされている。この反映が排外主義となって表れる。資本のグローバル化の中で、これを打ち破っていく、資本に対する共同闘争が重要となる。なかでも、侵略戦争と排外主義に対する態度は、国際主義の試金石であり、また、個別要求を超えて、労働者階級を結合させる重要な政治的戦場の一つなのである。


  ●3章 戦後日本の労働者反戦闘争

  ▼@〈戦後日本の性格と労働者反戦闘争〉

 日本労働運動にとって、反戦闘争は歴史的にも重要な位置を持ち続けてきた。
 戦前、日本帝国主義は侵略戦争の直接当事者であったが、帝国主義戦争に敗北した戦後も、日本の戦後復興の政治・経済は、アメリカ帝国主義のアジア侵略反革命戦争と強くつながって形成されてきた。しかも、単に米帝に強要されたのではない。数次にわたるアジア・太平洋侵略戦争の統帥者でもあった天皇が、米帝に要請し、作り上げた道筋であった。
 敗戦を前後する二十年間(一九四〇〜一九六〇)は、戦後世界における日本帝国主義の生き残りと、日米安保同盟に示される国際的位置を決定する攻防の一時代であった。にもかかわらず、日本労働運動は、戦後激動期の中においてすら、支配階級の意図を見抜き、これと対決する反帝・国際主義と階級的労働運動の強固な陣形・隊列を切り拓くことができなかった。
 天皇制・帝国官僚・独占資本によって構成される「国体」を護持するために、天皇をはじめとする支配層は、戦争末期には、自らの延命交渉の条件つくりのために終戦を引き延ばし、沖縄戦、大規模空襲、広島・長崎への原爆投下を引き起こし、戦争災禍を民衆の頭上に降り注がせた。日帝支配層は、敗戦となるや、米帝への沖縄売り渡し、広島・長崎被爆者の声の圧殺、米軍基地接収と駐屯に対する反基地闘争圧殺、戦後労働運動の破壊を行って、米帝による朝鮮侵略反革命戦争に全面協力し、兵站拠点としての役割を米帝に示すために血道をあげた。日帝支配層は、占領米軍の銃剣による弾圧・支配を助けに、五五年体制といわれる戦後支配体制を作り上げ、米帝の血にまみれたアジア覇権が確立する中で、その上に日米安保体制を構築した。
 侵略戦争を推進した支配構造は、戦前から戦後へと一貫して生き続けてきている。戦前においては「大東亜共栄圏」なる日帝単独の侵略と植民地化が目指されていたが、戦後は、米帝によるアジア侵略反革命戦争の兵站拠点となりながら、米帝のアジア支配を背景に、経済的侵出を繰り広げてきた。日本の政治・経済・社会は、常に帝国主義の侵略戦争とともににあったのである。
 このような日本の戦後支配の性格により、日本労働運動にとって、反戦闘争は重要な位置を持ち続けてきた。日本における労働者の反戦闘争は、戦後における朝鮮戦争から六〇年安保までの第一波(戦後高揚期)、ベトナム戦争から七〇年安保までの第二波(総評労働運動下)がある。しかしながら、延命した帝国日本の「国体(ブルジョア国家権力構造)」を打倒し、プロレタリア国際主義に立つ労働者民衆の権力樹立を視野に入れた階級闘争構造の建設と結びつくことはできなかった。イラク戦争や有事法を経、米軍再編との闘争の中で、いま第三波(総評解散以降)の闘いが生み出されようとしている。日本労働運動の戦闘的な地平を引き継ぐとともに、米軍再編をめぐる攻防の中で、かつての弱点を克服した反戦闘争の大衆的構築が急務となっている。

  ▼A〈戦後第一波の反戦闘争 一九四五〜一九六〇年〉

 まず、戦後高揚期から六〇年安保までの反戦運動を見てみよう。
 炭鉱の朝鮮人・中国人労働者の決起が口火となって、戦後の労働運動は、爆発的な勢いで拡大した。独占大企業や報道機関への戦争責任を追及し、軍需物資をため込んでの資本家どもの生産サボタージュと闘い、次々と労組を結成し、生産主体・社会主体としての労働者の権利を拡大していった。
 しかし米帝・占領米軍は、これを黙って見てはいなかった。米よこせ闘争、食料メーデー、生産管理闘争が拡大し、四六年秋には、国鉄首切りを発端に、東芝・新聞通信・全炭などによるストライキが三百万人に拡大した。この流れを堰きとめるため、翌年四七年、占領軍マッカーサーは、二・一ゼネスト中止指令を皮切りに、激しいレッドパージ弾圧に打って出た。その背景には、朝鮮戦争の遂行、停戦以降の本格的アジア侵略反革命戦争の兵站拠点としての日本産業の軍事化(対日軍事援助MSA)、日米安保条約の締結という政治的流れがあった。
 米占領軍は、戦争兵站として日本の生産協力を安定的に確保することを不可欠としており、それは日本の資本家階級にとっても、戦闘的労組をつぶし、生産や流通の独裁的経営権を立て直すために、願ってもない方向だった。占領米軍の暴力支配をバックに、逮捕・拘束・解雇などによって、戦闘的な労働組合つぶしが進められ、ストライキばかりか集会すら禁止される中で、一九五〇年に米占領軍の肝いりで「総評」が結成された。
 この朝鮮戦争からMSAの時期(一九四九〜五六)には、全港湾による荷揚げ・荷積み拒否闘争、合化・全日通・鉄鋼労連のスト、日鋼赤羽のPD工場や米軍基地スト、全駐労十六万人ストなどが行われ、米軍による銃剣と日本資本家によって大弾圧が行われている。当時は、戦争原体験が生々しく残り、また米占領支配への憤りが自然発生的にも存在した。朝鮮戦争の勃発を、日本の資本家は`戦争特需aとして喜んだが、鉄鋼や金属・化学労働者は兵器をまともに作らず、港湾や運送では積み込みや運搬を拒否し、米軍基地内でも権利を求めてサボタージュやストライキが行われた。砂川・富士をはじめ全国で米軍基地への土地接収や軍事訓練に対し、労働者・農民・学生が、反米の怒りを燃やして闘いのうねりをひき起こした。
 これら反戦闘争は、米占領軍による御用労働運動の枠組みを揺り動かし、反戦平和勢力の一翼に総評・日本労働運動を押し上げた。総評は、国際自由労連(米英の帝国主義労働運動によって組織化)の一翼として準備されたものであったが、現場からの労働者の反戦闘争に突き動かされ、「平和四原則(講和三原則=全面講和、中立堅持、軍事基地反対。これにプラス再軍備反対)」をスローガンとして掲げ、国際自由労連への一括加盟拒否へと至っていく。いわゆる「ニワトリからアヒルへ」の転換である。
 このような闘いの一方で、労働運動は、戦闘的な労組拠点を失っていった。これには当時の共産党・社会党の指導の混乱や誤りが果たした役割が大きい(これについては紙面もあり割愛)。戦後労働運動の高揚を担った民間大単産は、王子製紙や三井三池争議を最後に、資本家・権力・二組の連係プレーによって次から次へと破壊されていった。共産党から分裂して誕生した共産主義者同盟(BUND)が全力をかけて切り拓いた十五カ月にわたる六〇年安保闘争は、全人民的な政治闘争として闘われたが、一方で、全学連とともに羽田空港ロビー占拠闘争など政治局面を切り拓く闘いに起ったのは造船・通信・都職などの左派少数派であり、他方で、鉄鋼・化学など民間基幹産業労組の不参加に制約されるものとなった。当時の岸政権は、五五年体制に見られるような労働者階級の組合主義的集約構造(総評太田路線「日本型組合主義」)の上に、日米安保同盟という日本帝国主義の政治的条件を確立したのである。
 この戦後第一波の反戦闘争は、戦争被害体験と反米意識をベースとしたものであり、日帝の敗北後も継続していたアジア反帝民族解放闘争と、まったく切断されたものとしてあった。また激しい反基地闘争(砂川では米軍の立川基地拡張を阻止)に直面し、米占領軍は「本土」における米軍基地拡張を断念、沖縄への米軍基地の集中的強化、岐阜や山梨にあった海兵隊の沖縄移動などを決断する。日本の反戦闘争のそれへの反応は鈍く、沖縄への米軍基地集中への連帯した闘いを行うことは出来なかった。
 この時期、沖縄では、米占領軍による土地接収と米軍基地建設が銃剣とブルドーザーで行なわれ、米軍の土地取りあげに対する沖縄民衆の激しい抵抗戦が行なわれている。生活のために基地労働に従事する労働者も、軍事基地反対闘争や権利闘争に立ち上がり、基地内で二十三名が射殺されている。
 総じて第一波の反戦闘争は、反戦反米の国民的(民族的・一国的)運動にとどまったのであり、戦後処理や日米安保同盟に見られる帝国主義のアジア戦略に対する、国際的(アジア的)な階級的反撃からは、未だ遠くかけ離れていたといえる。

   ▼B〈戦後第二波の反戦闘争 一九六〇〜七〇年代〉

 そして次に、六〇年代からの総評労働運動下における反戦運動である。
 戦後動乱期の鎮圧と、米帝の侵略反革命戦争の兵站基地化を足場として、日本帝国主義―独占資本の延命と戦後復興が実現していった。被侵略国に対し謝罪はおろか戦後賠償もまともに行わず、アジア諸国への経済侵出を行っていけたのも、このような政治的位置からであった。五五年体制によって安定的経営権を確保した日本の資本家階級は、米帝の兵站産業と技術革新、アジア再侵出で大きな成長を遂げていった。
 右肩上がりの経済成長の下で、総評労働運動では春闘路線が定着していった。企業内労組の横並びで賃金相場を決める春闘方式は、基本的にはスケジュール闘争であり、労組の職場活動はもとより労働運動による政治闘争は沈滞していった。民間大単産の争議は三池闘争を最後として終結し、企業の独占強化に伴う企業合併・吸収の下で、産業別組織を切り崩し、組合分裂と左派排除が進んでいた。他方、一九四八年の「政令二〇一号」以降、官公労労働者は争議権・団体交渉権を剥奪されていたが、国鉄や全逓・全電通などは大量処分者を出しながら闘いを継続していた。このような状況の中で、六五年日韓闘争にむけて、社会党青少年局、総評青対部、社青同の三者呼びかけで、反戦青年委員会(正式名称「ベトナム戦争反対・日韓条約批准阻止のための青年委員会」)が結成された。安保闘争以来五年ぶりの労働運動による政治的動きであり「安保のように闘おう」を合言葉に、六五年日韓闘争は、労組青年部中心の運動として社会党・総評の枠の中で闘われた。六六年頃から、県反戦・地区反戦が生まれ、これが主体となって、ベトナム反戦闘争から七〇年安保闘争への大きな政治的高揚が作り出されていく。
 この背景には、六〇年安保闘争時に、日帝批判(日帝自立論)を掲げて登場した共産同をはじめとする新左翼諸派による、五五年体制を左から突破せんとする動きがあった。また、六七年から六八年にかけて、ベトナム戦争に直結した動きが大衆的に実感された事件が続いたことがある(新宿での米軍の燃料輸送タンクローリー車の貨物列車との激突・炎上、九州大学構内への米軍のファントム戦闘機墜落、沖縄の嘉手納基地所属B52の爆発炎上と民家への墜落など)。国際的にも、ベトナム解放闘争をはじめ全世界で民衆の叛乱が噴き出していた。コロンビア大学が人種差別と軍事研究を批判してバリケード・ストに入り、パリでは五月革命が起こり、アメリカではベトナム反戦運動や黒人解放闘争が広がり、ゲバラが`二つ、三つ、もっと多くのベトナムをaと「世界人民へのメッセージ」を発していた。
 また、地区反戦が活発化し、労組青年部中心の運動から外れていく根拠として、労働運動内では、職場の変容と労組の後退という否定的状態が深まっていた。五五年に国民運動として始まった生産性向上運動は「生産性の向上を通じてのみ労働者の地位は向上する」という強力な資本主義イデオロギーを持つものとして浸透し、民間大企業では、自立的熟練労働の駆逐、場長を軸にした職場集団の再組織化(QC運動)、企業忠誠心と労働者間競争の激化が進んでいた。六〇年代中期には、`労資一体aを立場とする中核的社員が企業内に育成され、左派活動家の孤立・暴力的放逐の行動隊となるまでになっていた。六五年に同盟やIMF・JC(国際自由労連下の日本金属産業労組協議会)が結成され、六七年には民間労働者部門で同盟が総評を上回わった。以降、右派は産業別、そしてナショナルセンター的な運動を展開していく(これを担った民間大単産が,後の労戦統一の主役となっていく)。
 総評労働運動は、「平和四原則」の下に、平和勢力と自己規定し、労働組合の一部には`社会主義aを綱領として掲げる部分も存在していた。それは後に、総評が連合となり「体制選択の時代は終わった」と反戦闘争・政治闘争を放棄したことに見られるように、平和勢力の体制選択としての社会主義であり、世界の反帝闘争や社会主義論争とは切り離された「中立的な」理念として掲げられていただけのものであった。総評は、六六年にはベトナム戦争で北爆(ハノイ・ハイフォンなど)攻撃があればストライキすると方針を掲げ、一〇・二一ストライキ、国際反戦デーを取り組んだが、六〇年安保闘争すら`焼香デモaに枠はめした総評が、反帝闘争や国際連帯闘争に踏み込むわけはなかった。社共の選挙闘争に枠づけられた総評の政治闘争は、組合統制色が強く、政治状況に対応し得ないものであった。
 このような中で、各県・各地区反戦の、自主的ともいえる闘いが広がっていく。典型的には、砂川基地拡張反対闘争(六八年)において、「米侵略機をベトナムに飛ばすな」がスローガンとして現れた。「日帝のベトナム侵略加担反対」を掲げ、佐藤首相(当時)の訪ベトや訪米阻止の現地(羽田)実力闘争が行われ、防衛庁への突入闘争なども行われた。米軍の兵站補給を許すなと、佐世保では原子力空母寄港阻止闘争が大規模に行われ、また、密集した人家と過密ダイヤの中を走行する米軍弾薬の列車輸送に対し、山田米軍弾薬庫・横田・三沢南米軍基地を結ぶ線を断ち切ろうと輸送阻止闘争が行われた。
 このような動きは当然のこと、政治的分解を公然化する。労働運動は、民間の分野では右派(帝国主義的)労働運動が、総評に拮抗するだけの職場支配力を持つようになり、総評内部では、ベトナム反戦闘争をめぐって、侵略戦争として立場を取り反帝闘争の一翼として「日本の戦争協力・加担」を阻止しようとする部分と、ここには触れず自国帝国主義との闘争なき一国平和主義を唱える部分とに分解した。反戦青年委員会内部でも、「職場で反合理化闘争を闘う事がベトナム反戦だ」というような主張、他方で、反帝統一戦線と階級的労働運動建設を提唱する主張などへと分解する。六八年に入って、反戦青年委員会の中央は機能しなくなり、六九年二月には、総評は反戦青年委員会の凍結を決定する。総評労働運動は、職場基盤を労資一体派に占拠され、政治運動上も分解し、七〇年代には国民春闘路線で巻き返しをはかるも、企業内労組主義であるがゆえに労資一体派にかなうわけはなく、衰退の道を辿っていくのである。
 ベトナム戦争の直接出撃拠点として、もっとも激しく反戦反基地反米軍政の闘いを切り拓いたのは、沖縄の民衆であった。六〇年代は、ベトナム戦争によって、沖縄の駐留米軍は飛躍的に拡大し、B52爆発墜落事故や実弾演習での誤射事故、米軍犯罪などが増加していった。大衆的な反戦反米運動と結びついて復帰運動が沖縄全土へと広がった。B52撤去を求めて大規模な抗議行動・県民大会が開かれ、六三年に結成された全軍労(全沖縄軍労働組合)が復帰運動の先頭に立ち、六九年には基地機能をマヒさせるストライキをおこなっている。六八年には、90%近い投票率で、「即時無条件全面返還」を主張する復帰協の屋良朝苗氏が行政主席選挙で圧勝した。ベトナム戦争の泥沼化と沖縄民衆の反米軍政闘争に強いられて、沖縄の七二年「返還」が日米の間で合意された。しかし、その「返還」の内実が、日米安保同盟下での組み替えに過ぎないことが明らかになるにつれ、「復帰運動」として現れた反戦反基地反米軍政の闘いは分解過程に入っていく(復帰協運動は、ある意味で沖縄民衆の民族運動的発展として闘われたが、屋良首席に見られるように、戦前の皇民化という歴史を包含するものであった。七〇年前後には反復帰論が登場し、また反戦反基地反米軍政の側面はコザ暴動として爆発していく)。
 戦後第二波の反戦運動は、米帝のベトナム侵略戦争をめぐって、米軍の前線基地・兵站拠点として、どのような実践的立場を取るのかをめぐって、日本・沖縄の労働者民衆の政治的分解を促進するものであった。戦後の国民的(民族的)運動から飛躍し、帝国主義世界をめぐる国際的な攻防と結びつき、どのような階級主体と社会をめざすのかの壁に直面していくのである。七〇年代以降は、労働運動の暗転と、革命的労働者党の混迷の時期となる。
 現在の反戦運動は、この政治的分解の歴史の上に存在しているのだが、後のアジア民衆や非正規雇用労働世代に批判されるように、それは大きな限界を持つものでもあった。六〇年代後半の一連の反戦闘争は、日本労働運動の企業内労組主義と日本型労使関係をそのままに、労働運動の右傾化を政治闘争・実力闘争で突破しようという狭さが共存しているものであった。またベトナム侵略戦争への加担反対をスローガンとしながら、アジアの反帝勢力との結合は断たれたままであった。


  ●4章 2010岩国行動に結集し、労働者反戦闘争の前進を

  ▼@〈戦後第三波の反戦闘争を切り拓こう〉

 八九年総評解散から二〇余年。闘わない・闘えない連合労働運動路線の下ではあるが、各地で先進的労働者・労働組合によって、反戦反基地反安保の闘いは、規模はともあれ継続させられてきた。
 他方、日本労働者人民への戦争動員攻撃は、二〇〇〇年を前後して新たな段階に入ってきた。兵站拠点にとどまらない日米共同軍事行動への転換である。その実質化が米軍再編として進められようとしている。米帝の兵站拠点から本格的な日米軍事行動強化・一体化が、目に見える政策として現われる中で、米軍基地現場である沖縄―岩国―神奈川において住民を軸にした闘いが登場してきた。
 沖縄では、一九九六年の日米特別行動委員会(SACO)最終報告が、沖縄北部での新基地建設をうち出して以降、おばあ・おじいを先頭に、辺野古の海に杭一本うたせない闘いが、十四年目に入っている。神奈川においても、原子力空母の横須賀母港化やキャンプ座間への陸軍作戦司令部の移転に対する、反対闘争が高まってきた。また二〇〇六年に住民投票で「反対」の意思を示して以降、岩国住民が、神奈川からの艦載機移転や米軍施設・住宅建設に反対する粘り強い闘いを開始している。これら住民たちは、個別の条件闘争だけではなく、互いに結びつき、米軍再編と日米安保そのものに疑義を呈し、体を張って闘いを行ない、これらに共感する先進的労働者を引きつけている。
 三十八回目を迎える今年の沖縄平和行進は三八〇〇名を集め、土砂降りの雨の中、沖縄の人々とともに人間の鎖で`普天間基地a包囲を完成させた。神奈川でも、九月二十五日には、神奈川・東京から三千名が結集し、原子力空母配備反対を訴えて、集会・デモを行なっている。このような中で、米軍再編反対、岩国住民連帯を掲げて、岩国・労働者反戦交流集会実運動が、今年で四年目になる取り組みを行おうとしている。この闘いは、新たな反戦闘争としての特徴をいくつか持っていることに注目しよう。
 第一に、アジアの反帝闘争と結びつく立場・回路がはじめから存在していることである。二〇〇六年「住民投票」以来、岩国住民を応援し、`アジアからの米軍総撤収aを掲げ、韓国・フィリピン・台湾、そしてアメリカなどの反帝勢力との共同闘争として、アジア共同行動の国際集会が岩国現地で開始されてきた。それに参加する労働者の中から、米軍再編との闘争を労働者反戦闘争として再生していこうという呼びかけ人が生まれ、それによって労働運動としての共闘が開始された、という性格を持っている。
 第二に、これは呼びかけ人方式の一日現場共闘として、広く門戸を広げたが、いずれも貧困や非正規雇用化、野宿や滞日外国人労働者問題などを担い、新たな労働運動の再生を志向してきた労働運動活動家たち(全国一般全国協や全日建連帯、全港湾、郵政労働者ユニオンをはじめとする全労協、国鉄闘争団、地域ユニオンなど)によって担われている。この活動家たちは、「在特会」のような在日・滞日外国人を標的にすることで社会的閉塞感をはらそうとする排外主義と闘い、労働運動の現場からの再生を、米軍再編による日米一体戦争国家化に対する闘いと結びつけていこうという方向性を内包している。
 第三に、従って岩国・労働者反戦交流集会は、それぞれが地域で、職場で行っている反戦運動の経験交流にとどまらず、職場で進む戦争動員との闘争や、非正規雇用化や失業が戦争労働へと若者を追いやっていく現実などをめぐって、活発な討議が積み重ねられてきた。現地フィールドワークで、住民の声や米軍基地強化の現実を体感し、米軍基地に抗議デモをかける、という実践と結びつき、それらの経験を労組・職場に持ち帰り、伝達者・オルガナイザーとなることを、昨年の集会では呼びかけている。
 第四に、一過性でない岩国現地の住民への連帯である。岩国は、保守王国といわれる山口県の土壌の中で、長い間の忍従の後、騒音と基地被害を緩和するための滑走路沖合移設事業に希望を託したのだが、これが米軍再編で手ひどく裏切られることになった。拡張した岩国基地には米艦載機が移転し、そのための施設・住宅として愛宕山開発跡地が使われようとしている。政府や県に騙された岩国住民の怒りは深いが、これを支える地域―全国の支援体制は弱く、これからの課題といっていい。岩国・労働者反戦交流集会実の呼びかけ人は全国に散らばっているが、とりわけ西日本での岩国住民を応援する闘いが必要だと、近畿中部防衛局への申し入れ(八・二〇)や米軍属による恩田美雄さん(「愛宕山を守る会」会員、地元自治会長)轢殺事故抗議ファックス運動などが行なわれている。
 第五に、岩国住民自身がそうであるが、沖縄、神奈川の闘いと連携し、米軍再編そのものを許さない方向性を持って進んでいることである。米軍再編の持つグローバルな性格から、個別の反基地闘争にとどまらず、地域を超え、国境を越え、現在の世界・帝国主義世界のあり様にたいする反帝国際共同闘争への萌芽を闘い自身がはらんでいるのである。
 われわれは、戦後反戦運動のかつての弱点を克服し、帝国主義―独占資本の戦争と貧困攻撃に対決する階級的労働運動再生の重要な一翼として、米軍再編に対する労働者反戦闘争が生まれつつあることに注目し、断固として、ともに闘いを前進させていかなければならないと考える。

  ▼A〈12・4―5、岩国行動に総結集しよう〉

 沖縄―岩国―神奈川住民の米軍基地強化反対、米軍基地撤去の闘いによって、米軍再編をめぐる日米合意の根幹が揺らぎ、もはや二〇一四年米軍再編完了の予定は、風前の灯となりつつある。米議会からすらも、海兵隊部隊の沖縄駐留への疑問の声や、グアム基地の新設予算大幅削減の動きが公然化している。このような時期であるからこそ、米軍再編への闘争を強めていくことが必要である。
 しかしながら、このような状況であるからこそ、支配者の側の攻撃も激しくなっている。前述したように、いま東アジア地域を中心に、軍事的緊張が高まっており、火に油を注ぐものとして米韓日の軍事協力体制が展開している。このような中で、岩国基地強化が行われると、岩国基地は米軍航空兵力規模において極東最大の基地となり(既存の海兵隊航空部隊五十四機、厚木艦載機部隊五十九機、普天間空中給油部隊十二機)、朝鮮半島と台湾・中国をにらみ、空からの攻撃基地として拡大・強化されることになる。また、沖合移設によって新たにできた基地港湾施設は「米軍の輸送拠点基地」となる。沖縄や神奈川を含め、米軍再編を実行すれば、それはグアムや韓国での米軍基地強化とあわせ、規模・機能ともとてつもなく強大な世界大の軍事体制が完成する。
 なぜ、そこまでの基地強化が必要なのか。
 グローバル化した世界市場の中で、金融資本・大独占資本・多国籍資本間の競争は、いま激化の一途を辿っている。その背後では、資本家階級たちの権益拡大のため、しのぎを削る争いが進んでいる。権益拡大のための競争は、誰が各国経済をボロボロになるまで搾取するのか、誰が低開発国や労働者や農漁民や先住民や女性など、あらゆる社会的弱者を貧困のふちに突き落とすのか、をめぐる争いである。十一月半ばには、ソウルでG20サミット、横浜でAPECが開催されるが、そこで議題としてあがっているのは、自国資本にとって都合のいい「投資と貿易の自由化」などのような収奪のルール作りや、「温暖化対策」などに名を借りたインフラ・原発ビジネスの条件作りである。このような強盗的な資本の運動は、これに抵抗する種々の勢力を生み出す。帝国主義者はもちろん新興の資本家たちも、これらを「テロ」と呼び、お互いにいがみ合いながらも、自らの権益の暴力的な防衛のための軍事的提携や威嚇をするのである。APEC時に予定されている日米首脳会談は、日米一体の戦争遂行体制(帝国主義者が言うところの「日米同盟の深化」である)、すなわち米軍再編を進め、緊張を高めるアジア覇権を確たるものとしようとする極めて危険な会談である。米軍再編は、米帝のみならず、日帝にとっても必要であることを忘れてはならない。
 労働者民衆にとって、このような帝国主義者たちの強盗抗争にまき込まれ、肩入れすることは自分たちの敵を利することになるだけである。それらが言う「わが国の利益」というのは、労働者民衆の利益にはならないどころか、資本家階級を強め、より強欲にさせ、いっそうの貧困と社会的荒廃と戦争災禍をひき起こさせることへと連なっていく。戦前の経験が明確に物語っているではないか。
 排外主義と分岐し、全ての問題を、労働者階級の国際的連帯と団結で解決していく時代を、今日の闘いを通して切り拓いていくことが必要である。反帝・国際主義の旗を掲げ、米軍再編、日米安保同盟の深化=日米一体化の戦争遂行体制構築に反対していくことが必要である。
 二〇一〇年岩国行動まで、あと二カ月もないない。全ての先進的労働者は、日米政府・防衛省との新たな攻防に突入する岩国住民を支援し、連帯し、米軍再編を通して進む日本の戦争国家化と闘う労働者反戦闘争を強化し、次の三点を実現していこう。
 第一に、帝国主義の戦争動員攻撃の時代と闘っていく労働者反戦闘争の隊列を形成することである。
 第二は、資本主義に取って代わる次の社会=社会主義と労働運動との結合を、先進的労働者の共通課題に乗せていくことである。資本主義に代わる社会を獲得することなく、戦争と貧困の脅威はなくなることはない。米軍再編と闘う住民、労働運動の中から、帝国主義を打倒し、どのような社会をつくりあげていくのかの試行錯誤を開始していこう。
 第三に、アジア・太平洋地域、アメリカ、全世界の闘う人民とともに、反帝・国際共同行動を前進させていくことである。米軍再編を打ち破っていく反帝・国際共同行動が、今ほど重要なときはない。それは帝国主義を打倒し、いかなる世界をつくるのかにも結びつく問題である。帝国主義‐多国籍資本に苦しめられる諸国労働者・民衆と結びつき、米帝の暴力装置=米軍基地を総撤収させ、国際的な階級闘争の発展を推し進めていくことが必要である。
 これらの遠大な課題の一歩一歩を築き上げるものとして、今年も、岩国・労働者反戦交流集会実運動を成功させ、戦後第三波の反戦運動を帝国主義の戦争動員と闘う階級闘争へと成長させていこう。

 

当サイト掲載の文章・写真等の無断転載禁止
Copyright (C) 2006, Japan Communist League, All Rights Reserved.